警策 その1
「もし善男子善女人四法を成就すれば如来の滅後に於いて当に是の法華経を得べし。一には諸仏に護念せられ、二には諸の徳本を植へ、三には正定聚に入り、四には一切衆生を救ふの心を発せよ。善男子善女人是の如く四法を成就せば、如来の滅後に於いて必ず是の経を得ん。」
これは、再演法華と言われる法華経・普賢菩薩勧発品の一節、四法成就の文です。法華経とは何かと問われた時には、この事を答えさえすれば、その信仰の意識を明らかにすることが出来ます。一には、釈尊分身の諸仏即ち統一されたる本仏釈尊に護られていると言う意識が必要である。第二には、徳本を植える、即ち道徳観念を以てそれを実行せねばならぬ。三には、正しき教えに依りて、正しき精神において定まっている人々の中に入らねばならぬ。四には、一切の者を救うという慈悲の精神を起こさねばならぬと説かれております。
日蓮聖人は「異体同心」と言うことを主張せられ、正義の上に団結せる者は私心を擲ち、小さな相違を擲って協力せねばならないと仰られました。その正義の団結、即ち正定聚に入るには、一、二に述べられた如く、本仏に護られている事、そして諸々の徳を実行しよういう意味に於いて一致しなければ、到底協力して団結する等は出来ないでありましょう。また、諸々の徳本には様々あるけれども、特に一切衆生を救うという慈悲仁愛の精神を発揮することが、最も大切なのであります。そうすれば、如来の滅後に於いて法華経は、その人の得る所となるのであります。
日蓮聖人は、「他の者は法華経を読めども心に読まず、心に読めども身に読まず」と、経文を口の上に読んだところで、本仏釈尊に護念されていることも信じない、また実際に徳行を植えようとしない者達、口に言うばかりで実際の精神が反している者達を強く批判されています。私達が、本当の法華行者と言われるためには、この四つの事柄に違反していないかどうかと言うことを、常に反省して自らの態度を向上させていかねばなりません。
警策 その2
「仏、是の法華を説いて衆をして歓喜せしめ已(おわ)って、尋(つい)で是の日に於いて天人衆に告げたまはく。諸法実相の義、已(すで)に汝等がために説きつ。我れ今、中夜に於いて当に涅槃に入るべし。汝等一心に精進し当に放逸を離るるべし。」
法華経、序品の一節です。法華経を説き、諸法実相の義と言う真理に関することはすべて説き終わった。最早説くべきものも無い故、今夜涅槃に入るぞと釈尊は仰られますが、最後の最後に臨んで言うことが、この「汝等一心に精進し当に放逸を離るるべし。」であります。如何に結構な法華経と雖も、放逸にして怠惰であれば、法華経は何の役にも立ちません。法華経の教えを如何に、人生に活かして実践するかによって、初めて法華経は利益を生じるものであります。何処までも精進奮励する気分を起こすこと、これこそは法華行者に無くてはならないことでありましょう。
日蓮聖人も、「仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし法師と云う名字をぬすめる盗人なり」(松野殿御返事)とまで、僧侶となって身を養い、遊惰なる生活をするような者を強く批判しております。「こうして生活できるのもお釈迦様の御陰」と口先で感謝するだけで、「私はそんなに立派な器ではありませぬ」等と為すべき事をせぬ者を、畜生・盗人であると日蓮聖人は仰られているのであります。日蓮聖人が、自らの化導において実に奮闘努力の継続をせられたのは皆、法華経が活動的な精神を鼓舞し励ますからであります。法華行者の、法華経より活動的な命を頂く者の、けっして忘るべからざる警策であります。
警策 その3
「世の中ものうからん時も今生の苦しみさへかなし、況や来世の苦をやと思召(おぼしめし)ても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思召し合わせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。〜諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給ふぞや、我等も其の数に列なりて遊戯し楽しむべき事はや近づけり。信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず。」
「松野殿御返事」の一節です。この人生においては、数々の心配な事もあるけれども、心配事があるから信心が出来ないと言うことではいけない。今生に苦しみはあるけれども、ここで誤れば来世には餓鬼・畜生・地獄の境界に堕ちて更なる苦しみを受けるであろうと考え、憂い悲しみの中にも信仰を発揮し、苦しみを信仰の刺激として、南無妙法蓮華経と唱えねばならぬ。また、今生には喜ばしい時もあるが、しかしそれは夢の中の夢のようなもので、瞬間の悦びとして消え去るものである。真の悦びは霊山浄土へ参って、真実不滅の覚りを開いた時であると考え、喜びに触れる時にも南無妙法蓮華経と唱えねばならぬ。苦しみも楽しみも、これを実生活の信仰の糧として励まねばならぬのである。斯くして退転なく修行を継続するならば、最後臨終の時には必ずや「常楽我浄」の悦ばしい境界に至るのである。
「常」とは、人生は無常であるけれども、仏の境界に至れば常住不滅の絶対界である。「楽」とは、仮に楽があるとしても、今度はそれを失う苦しみへと続くのが人生であるけれども、仏の境界に至れば一切の苦悩を脱して、安穏・歓喜充満の境界である。また、「我」とは我見や我執にも囚われることのない真の自由自在の境界に上ることである。「浄」とは、清浄にして穢れなく、凡夫の人生のように間違った方からまごまごするのではなく、何時でも清く正しい方より、不浄なるものを清浄にする境界であります。
世間では、人生の終わりが近づくのを良い気持ちでは感じられないけれども、法華経の教えを以てすれば、人生の終わりの其処には直ちに常楽我浄の大果報が待っているのであります。しかしながら、それは法華経が幾ら有り難いと言っても、信仰が確実であってのことであります。自分自身の信仰が弱かったならば、この尊い境界に至ることは出来ないのであります。日蓮聖人が「信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず」と、この一節を締めくくられたことは、私達が最後まで忘れてはならぬ警策であります。
警策 その4
「邪法の僧等が方人(かとうど)をなして智者を失はん時、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。これ驕(おご)れるにはあらず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。傲る者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小身と成って隠れしが如し。正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道なるべし。千経萬論を習学すれども時機に相違すれば叶ふべからず。」
佐渡御書の一節です。弱きを者を脅し、強き者を怖れるような畜生の如き僧等が、正法を弘めようとする智者を潰そうとするような時代には、師子王のような強い心を持っていなければ仏にはなり得ない。如何に正しい心を持って柔順であっても、勇猛なる決心がなければ、途中で破られてしまうのである。
例えば、この日蓮が手本である。これは日蓮が驕って慢心して言うのではない。正法を惜しむ心が盛んなるがためであり、法を弘め、それを信じる者に真の利益を得せしめたいと言う精神を、如何なる迫害があっても動揺しないと言う精神を学ばせたいからである。驕れる者は、強い敵に出会った時には必ず恐れるものである。驕ると言うことは、弱い立場にある者にすることであり、強いものがやってくれば尻尾を巻いて逃げてしまうような者を言うのである。例えば、修羅が威張っていても、帝釈天に攻められれば、無熱池の蓮の中に小さくなって隠れてしまうようなものである。日蓮は、如何なる強敵が現われても憶したことはない。正義を確信したる正しき信念があるが故に、決して恐れを懐かなかったのである。
正法は、一字・一句なれども時機に適いさえすれば得道が出来る、現在にも利益はある、未来にも仏に成れるのである。千経萬論を習学したからと言っても、時代を観ず、実際の必要にも当てはまらないようなものでは、何の役にも立たないのである。と、云われています。
この時機に適合すると言うことは、活きた日蓮主義を発揚しようとする者が十分に考えなければならぬことでありましょう。例えば、功徳にしても何にしても、とりあえず何でも積めば良かろうと言うものではありません。また、教理についても同じであります。根本を大事だと言って、その活用を無視するようでは、如何に偉い学者であっても何にもならないのであります。日蓮主義を掲げる者は、たとえ困難なことであっても、多くの者が救われるという実効のある事を、時代を理解し時代に適合したる方策を以て、活動していかなければならないのであります。この適時適切な応用・活用ということは、世界を理想化せしめんとする宗教ならば、実に大切していかねばならぬことであります。勿論、学問もせず、功徳じゃと言って寺の収入ばかり気にしている僧侶等は、日蓮聖人からすれば言語道断であります。
警策 その5
「止観に三障四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず。今日蓮が時、具(つぶさ)に起れり。又、天台伝教等の時の三障四魔よりもいまひとしほ勝りたり。一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。天台伝教等の御時には理なり、今は事なり。観念すでに勝る故に大難色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊(こと)なること也と、御臨終の御時は御心へ有るべく候。」
富木殿に送られた殆ど晩年の御書「治病抄」の一節です。天台大師の「止観」に実経の修行を積んでいけば、三障四魔という様々な妨害が起こると述べられてあるが、今まさに日蓮に於いて、この三障四魔が起こっているのである。それは、天台・伝教大師の時よりも更に強いものである。一念三千の観法には二つある。一つは、天台・伝教大師の坐禅・瞑想をして妙理を観念する「理」のものであるが、今一つは日蓮がなしている、その妙理を応用して実際に社会の中に於いて大活動を起こす「事」の観念である。
一念三千というのは簡単に言えば、様々に矛盾・対立するものの弁証法的な因果を一念に捉えることである。「理の一念三千」の観法とは、ただ心に起こることを眺めるのではなく、この因果が仏法即ち道理になされていくことを、実際問題として瞑想の中で応用して活動させ、そしてそれを妙理として統一的に捉えて仏智に至ることである。この修行の間には、三障四魔による様々な迫害が精神や身体に起こるものである。
ところが今、日蓮がやっている「事の一念三千」とは、僧堂の中で、ただ心の中だけで行なっている観念でなくして、実世界の中の矛盾や対立の中に自ら身を置いて、仏法・道理において活動をなして、それを実際に現わしていく観念である。であるから当然、そこには現実の問題として衝突が起こり迫害が起こるのである。心の中で瞑想する観念と、社会の中で実践しつつする観念との違いであるが故に、そして観念が勝る故に大難も勝ると言っているのである。したがって、彼を迹門の一念三千、此を本門の一念三千とするのである。ここが、天地の違いであること、最後の大事な臨終の時にまで忘れてはならぬ。日蓮主義者は、正しき教えを立て、法華経の精神を実社会に実際化して、この世界を浄土化して行く奮闘を続け、そしてその功徳が積まれて仏になるのだということを、けっして忘れてはならぬと、最後まで日蓮聖人は私達に申し渡されているのであります。
目次に戻る