シッタルダ(釈尊修行時代)の学んだ禅定

  仏教の禅定には、観と止があります。「観」は、思惟観察を以て行うもので、色界定とも言います。「止」は、
  いわゆる無念無想の状態とされ、無色界定とも言われています。

  ちなみに、精神的な方面より世界を観察する場合に、これを「三界」(欲界、色界、無色界)として捉えます。
  「欲界」は欲望にとらわれた世界、つまり我々の日常経験している世界です。「色界」は、欲望は離れたもの
  の、「我あり」の意識や物質的なものにとらわれた世界。「無色界」は、そのようなものからも離れた世界とさ
  れています。

  「色界定」は、精神を統一し我欲などから離れて、ありのままに観察するものであり、そこで得られる境地に
  は、「初禅」(離生喜楽)欲望から離れる喜び、「二禅」(定生喜楽)禅定から生じる喜び、「三禅」(離喜妙楽)
  通常の喜びを超越した喜び、「四禅」(非苦非楽)苦楽を超越した喜びの四つがあります。

  「無色界定」は、「我あり」の意識や物質的な観念なく、純粋な精神のみが働く禅定です。これはさらに、「空
  無辺処」虚空(空間)の無限性を観じる境地、「識無辺処」心の働きの無限性を観じる境地、「無所有所」存在
  をも認識しない境地、「非想非非想処」意識も無意識もない境地の四つに分けられます。釈尊は、これらの禅
  定を修業時代にすべて会得したとされます。

シッタルダ(修業時代の釈尊)が行った苦行

  すべての禅定を得たシッタルダでしたが、それは所詮禅定に入っている間のみのことであり、通常の精神状
  態に戻れば、また不安や苦悩を生じるもので絶対の心の平安を得るものではありません。当時実践され信じ
  られていた修行の方法は、禅定と苦行しかありませんでした。そこでつぎに釈尊は、ジャイナ教などでも説か
  れていた、自らの肉体を苦しめ、欲望を抑えて精神力を高める、それによって過去の業を除去し、心を浄化す
  る方法を徹底的に試みる方法を取られたのです。その苦行には、断食絶食の他、裸行、苦痛な姿勢を取り続
  ける、呼吸を止める、いばらの上に臥す、過酷な水浴びなどがあります。釈尊は、心の調和・統一を得ることが
  最上の方法であり、これらの卑俗的な方法によって理想が達成されることはないと説いています。

魔が現われて、成道を妨げると言うこと

  釈尊が成道するにあたり、煩悩魔が様々な現象を起こすことが述べられています。煩悩と言うのは、すなわち
  自我に執着する生存のための本能でもあり、智慧によって善に転じられていない状態のものを言います。煩
  悩の根元的なものは、「貪欲(むさぼり)」「瞋恚(いかり)」「愚痴(無知)」の三毒とされます。これに個々の経
  験が加わって、私たちの自我なる心の中には様々にやっかいな深層の意識が潜在していると言えるでしょう。
  不安や恐怖、慢心や驕りなどを生じるこの深層の意識は、その人の行為を無意識的に決定付けてしまうもの
  であり、また寝ているときには夢となって現れたり、強度のストレスや麻薬などで心がコントロール出来なくな
  った場合には幻覚として現れることもあります。

  成道のため禅定に入られた釈尊は、この深層の意識を表象として次々に現前させたと考えられます。勿論、
  精神を統一し覚醒した状態を保たねばなりませんから、これに打ち勝てるだけの強い意志を持ち、精神力が
  十分に鍛錬されていなければ、錯乱したり精神的な崩壊の危険性があるのは言うまでもありません。魔に打
  ち勝つことを「降魔」と言いますが、この煩悩魔の正体は実は愚かなる自己の意識、「自我」を形成している
  深層の意識と言えるでありましょう。釈尊が「千人の敵に勝つよりも、自己に打ち勝つ者が真の勇者である」
  と自己克遂の大事を説くところでもあります。

  煩悩を滅する、つまり「自我」を滅したところに顕れるところものを「非我」と言います。自我というものが無常変
  易な意識であるのに対して、非我というのは常住不変な意識です。また、非我とは自我という「個」を限定せし
  める「全体」の深層の意識であり、人類が共通して潜在的に持つ深層の意識とも考えられます。本来は、釈尊
  のように高度の禅定を会得し、苦行にも打ち勝つ精神力を持って臨まなければ顕れない意識ですが、有り難
  いことに、私たちはすでに釈尊と釈尊の教えを知り得ているのですから、これを念じ実践することによって、こ
  の意識を顕わすことが可能となるのです。これによって自我の中に自己を観るのではなく、非我の中に真の
  自己を見出すことが出来ると言えましょう。

三明六通

  釈尊の得た智慧の「宿命通」「死生智通」「漏尽智通」を三明と言います。これに神変通、他心智通、天耳通
  を合わせて三明六通と言います。神変通は目の当たり奇跡を現すことできるものとされますが、邪心を起こ
  す要因ともなるので釈尊は極力これを禁じています。急迫した身の危険を回避する場合や、理屈では理解し
  ようとしない相手を心服させる場合に使われるものとされます。一部の経典に説かれた奇跡というのは、人々
  を導くための方便でありましょう。本来は人々の心を変化させることによって、奇跡的な現象を得さしめる能力
  を言います。他心智通は人の心を知ることができるものですが、これは相手の性格や心の状態を迅速に正し
  く洞察することの出来る能力です。また天耳通は、常人の聞くことの出来ないことを知り得るものとされますが、
  これは物事を正しく見極め、世の中に精通していることによって得られる能力と同じです。これらは一般に言う
  特別な人が持つ神秘的な霊能力ではなく、すべて人間本来に備わった能力を正しい導きによって開発するこ
  とにより得られるものと言えます。

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