1 四諦
病気になった場合、医者はまず、その病気は何であるのかを正しく把握します。そして、その原因は何である
のかを探ります。その原因を除かない限り、病気を完全に治すことは出来ません。病気を治すためには、予め
病気のない状態とはどの様な状態なのか知っておかねば、何をどう治すのか分かりません。そのうえで、有効
な治療が初めて出来るのです。
精神における苦悩も同じです。苦そのものを正しく把握すること「苦諦」、その原因を見極めることを「集諦」、苦
の取り除かれた理想の状態を「滅諦」、それに至るための手段を「道諦」として考察していきます。この真理を
使って「苦」とは「人生」とはと云う根本的なところを明かしていく作業を必要とします。
「苦」が生じるためには、何らかの行為・意志の働き即ち「業」が原因となります。業がなければ苦の生じようも
ありません。突然に苦というものが、どこからともなく生じることはありません。で、「苦」に至るような「業」は何
故に起きるのかと言えば「惑」によります。惑いがあり、惑った上での行為や意志の働きは当然のことながら的
を得たものではありません。的を得ていないものは、失敗し、うまくいかずに苦悩に至ります。苦悩に至れば、
人はますます惑います。惑>業>苦>惑・・・と際限のない因果の迷界から解放されることがありません。
これから解放されるためには、惑いは如何なる苦しみより生じているのか、その苦は如何なる業によって生じ
たのか、その業は如何なる惑いより起こされたものなのかと、考えていく必要があります。惑>苦>業>惑と
逆順に観ていかねばなりません。結果より原因を判断していくのです。そしてこの「惑」の根本的にあるものが、
三毒という煩悩であり「貪欲(むさぼり)」「瞋恚(いかり)」「愚痴(仏の教えを知らない)」こととされます。
この苦の原因を取り除く・滅するには、どうしたらよいのか。ここに釈尊は人々の規範として「八正道」を説かれ
ます。八正道とは、正しい見解(正見)、正しい思惟(正思)、正しい言葉の行い(正語)、正しい行為(正業)、正
しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい意識(正念)、正しい精神の統一(正定)であり、これによって仏
の智慧も得ることが出来るのです。
2 十二縁起
次ぎに人生についての四諦の詳細・縁起を見ていきます。老死は生によって生じる、生は>有>取>愛>受
>触>六入>名色>識>行>無明と苦を逆順に見極めることが「苦諦」にあたります。無明によって行が生じ
る、行は>識>名色>六入>触>受>愛>取>有>生>老死と順に苦の原因を見ていくのが「集諦」。無明
を滅せれば行が滅し、行が滅すれば>識>・・・・老死滅すと順に手段を見ていくのが「道諦」にあたります。
「無明」とは、真理・道理に暗い盲目の状態を言います。先の「惑」即ち煩悩の生じる由縁です。「行」とは真理
に背し、道理に反した行為。「識」とはそれによって生じた潜在的な意識と考えたら良いと思います。私たちが
普段気が付かない潜在意識というものや、先天的な性格・習性というものはすべて過去の経験によって生じ、
遺伝によって受け継がれたものと言ってもよいでありましょう。ここでいう過去の経験という言うのは、自己が
経験したことのみならず、他からの強い影響を受けたものも含んでいると考えられます。その様なものが「識」
というデータとして遺伝していると考えられます。
話はそれますが、ヒトゲノムには30億の遺伝暗号が書き込まれています。このうち、身体を構成するための遺
伝情報は約3%だそうです。残りの97%は意味が分からない暗号です。これは仮説の段階ですが、「識」とは
ヒトゲノムと考えても良さそうです。その内の3%が「名色」の「色」即ち身体を構成しているならば、残りに「名」
即ち精神作用を構成するデータがないとは言えません。イギリスの著名な動物学者(リチャード・ドーキンス)
が、人間は遺伝子の乗り物に過ぎないとの学説を発表したのは有名なことです。釈尊は、2500年も前に発表
していたことになります(笑)。
「六入」とは、「色」より生じた眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚・知覚器官(六根)と、「名」より生じた色・声・香・味・
触・法の認識作用(六境)です。如何なる認識作用にも、先天的なもの・潜在的なもの、つまり過去の経験によ
って千差万別であると言えますね。
「触」とは、対象と感覚器官と意識が出会った瞬間、「受」とは苦しい楽しい等の感受作用、「愛」とはそれらの
感受作用から生じる欲求、「取」とは欲求が強くなることによる執着です。これらはすべて現在のことであり、私
たちが生まれた後に経験する後天的なものです。先天的な「識」は後天的な経験によって変化し、未来への
「有」となります。この「有」は、自らの遺伝として受け継がれます。また、その人の行為や心が他の者に強い影
響を与えた場合には、他の人の「有」となり受け継がれていくことでしょう。
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