富士興門派(日蓮正宗)との公開法論

明治三十三年 十一月十一日 顕本法華宗代表委員 井村恂也 関田養叔 田辺善知
                    日蓮宗富士派 (日蓮正宗)全権委員 阿部慈照 土屋慈観の五名
                    対論規約を相互署名捺印す。

対論規約(抜粋)

第一条 論題は左の二項とす
   第一項 経巻相承と血脈相承の当否
   第2項 末法に於いて釈尊本仏論と宗祖(日蓮)本仏論との当否

第二条 引証の書目は録内四十巻に限る

第五条 討論は明治三十四年二月十六日より開始すること

第七条 勝敗決定の方法は左の各項に依る
   第一項 勝敗は弁論の通塞に依る
   第二項 互いに自義を募り勝敗決せざる時は世論に訴る事
   第三項 法論の結末を告げざるに相互の一方に於いて中止を図る時は敗者とす 

第九条 敗者は一宗を挙げて改宗する事
       但しその宗派の僧俗にして改宗を肯ぜざるものある時は相互協力して勧誘する事

第十条 敗者の宗派は主務省に向かって改宗の手続きを履行する事

第十五条 各宗派管長宗教団体及び各新聞雑誌社へ宛て案内状を出すこと


ところが、明治三十四年一月十七日 富士派は録内四十巻では不利とみて(我田引水の富士派教義は偽書ならびに真偽未決の御書中心)、対論規約全部の取消を一方的に通知す。顕本法華宗は社会に対する責任感から二十四日、「日蓮宗富士派遁走報告」の講演会を開いた。然るに翌々日、富士派は「仏敵顕本宗折伏退治」の標榜を掲げ挑戦的に出てきた。顕本法華宗は、それとばかりに乗り込み談判し法論決行の誓約を得、遂に三月一日江東伊勢平楼にて法論することとなった。

その模様を伝えた翌々日の毎日新聞(明治34年3月3日号第三面)記事は次の通りである。

 (前略)第一回の法論は開始せられ、顕本宗の本多日生師と、富士派の阿部慈照師と、先ず祖師の伝法に就いて論難する処あり。日生師は頻りに経巻相承を主張し、日蓮の遺書及び法華経を立証として種々の方面より自説を維持せしに、
慈照師は反対説を唱えながら、十分これを道破するの証拠を有せず、結局受太刀となりて、 言葉塞がり、第一回は将に富士派の敗北に帰せんとするの刹那、左右に分かれて勝敗如何にと固唾を呑み居たる信徒中、誰とは知らず富士派大勝利と大書したる紙片を場の一隅に貼付せしものありしかば、顕本方の信徒は大に激ミし、それ其の札を引き剥げよ、と場内俄に色めき渡るよと見る間に、幹事の一人平田某なるものは富士派の信徒とおぼしく、この有り様に憤慨してツカツカと演壇に進み、日生師目掛けて打ち懸かりたれば、騒ぎは一層激しくなり、あわや両派の僧俗入り乱れて忽ち一大修羅場を現出せんとする勢いなるより、臨監の警部も今は猶予ならじと、会主に向かって解散を命じ、遂に第二回の法論は開く能わずして閉会に至る。

*毎日新聞は横浜毎日新聞を前身とする新聞社で、現在の毎日新聞とは関わりがありません。


追記

大正の始め、本多日生上人は日蓮門下統合規約を成立させ、門下合同して教線の拡張を図るよう提唱しました。しかしながら、一致派は結局賛同せず、勝劣六派によって教育機関を統合することとなり、顕本法華宗の主導の下、白山に「統合宗学林」を創設しました。その時に初代学長に就任したのは、公開法論において本多日生上人と対論し、言葉塞がった富士派の阿部日正(慈照)上人でした。阿部日正上人の潔さもさることながら、このような事実が何を意味するかは容易に想像できるはずであります。本多日生上人と親交を深めた阿部日正上人は、その後富士派教学の是正にも取りかかっています。しかしながら、今回面白いことに、立教開宗750年を記して日蓮正宗から出版準備されている「日蓮正宗入門」には、前述の公正なる新聞記事があるにも関わらず、次のように事実を歪曲し、ねつ造した文章による中傷が掲載されていますので、ここに日蓮正宗に対する読者の公正なる判断を委ねるため、全文を掲載します

富士派と顕本法華宗(什門)との問答(宗旨建立750年慶祝記念出版委員会編)

明治三十三年(一九〇〇)十月、顕本法華宗の田辺善知から大石寺に対して公場対論を申し出る書状が届けられました。これを受けて大石寺側は、阿部慈照師(第五十七世日正上人)と土屋慈観師(第五十八世日柱上人)の二人を立て、顕本側の田辺らとの間で数度にわたる準備書簡の往復をし、同年十一月十一日、対論規約を結びました。その内容は、論題を「経巻相承と血脈相承の当否」「末法における釈尊本仏論と宗祖本仏論の当否」の二つとし、引証の御書は録内御書にかぎり、双方三名が交互に弁論し、法論の決定後に敗者は帰伏の広告を出したうえ、一宗を挙げて改宗することでした。
 
富士派は、これらの規約締結に先立ち、宗会での議決を経て、宗内僧侶の賛成調印を得ていましたが、顕本側は、元の管長をはじめとする反対者もあって宗内をまとめることができず、十数度にわたる富士派側の文書による請求にも、言を左右にして問答後の責任の所在を明らかにしませんでした。そこで対論の責任を重んずる富士派は、翌三十四年(一九〇一)一月十七日、顕本側の契約不履行を理由に問答破棄を通告し、その経過を一般誌(明教新誌)に広告したうえで、一月二十日、東京江東(江東区)において、日応上人・日正上人出席のもと、「対・顕本法華宗問答破棄理由公開演説会」を開き、同宗への七箇条の質問書を一般に公表配布しました。


その後も双方のやり取りは続き、富士派は同年二月二十日、東京両国(墨田区)において「顕本対治の大演説会」を開き、質問自由として顕本側を招待しましたが、参加した百名前後の顕本側からは質問の名のりはありませんでした。これに対し、顕本側は四日後に同所で講演会を開き、富士派側が問答を取り下げたと悪宣伝しながら、富士派側参加者の質問申し込みを許さず、一方的な自論の発表に終始しました。この理不尽な姿勢に対し、富士派は同年二月二十六日、顕本側・本多日生の地元である東京北品川(品川区)で講演会を開き、やじ・怒号の飛び交うなか、顕本側を破折しました。

このとき、再度問答を行うことを双方が取り決め、その規約を「交互に二十分以内の発言をする(取意)」と結び、三月一日、東京両国において、日正上人と本多日生との間で公開問答が行われました。この問答は交互に六回ずつ発言し、大石寺側は、道理・文証・現証によって「血脈相承」の正義を述べ、顕本側の「経巻相承」を論破しましたが十二回目にあたる富士派側の最後の発言中に、本多日生が口をはさむという約定違反を犯したために場内騒然となり、臨場の警官により解散を命ぜられて、問答は中途でやむなく終了しました。この問答では、顕本側が問答後の宗派の帰結について言を左右し、最後に約定を破ったことなど、その卑劣な対応が広く世間に知れわたり、顕本側の敗北を天下に公表する結果となりました。

宗学要集第七巻

第一席は本多日生から始まり、彼は当然のことながら、口伝の存在を否定し、経巻相承に依らなければ真実の教えは伝持できない、と言い、日正上人は、経巻相承は血脈相承の上に建立されて初めて、正しい解釈ができる、と主張された。講演の内容は省略するが、第十一席目の本多の主張の最中に、臨監の警部から「問答の体をなしている」と注意があり、第十二席目に日正上人が演壇に立ち、予定通り講演は終結した。本多は形勢不利とみてか、約束に違いまた演壇に登って贅弁(ぜいべん)を弄(ろう)したため、両全主が制し、聴衆はいっせいに「顕本敗北、もう聞くに及ばない」と言い、騒然とする場面があった。警部は解散を命じたため、日応上人と田辺との対論はおのずから消滅して、三時過ぎに散会となった。

当時の記録によれば、聴衆の本多に対する声援は柏手もまばらであったが、日正上人の主張には大柏手、“富士派大勝利”と歓声のあがることがたびたびであった。完全に日正上人の説は本多を呑み込む勝利であった。敗者の判定は、細密な規定を設けて決定しようとしても、本人が敗北を認めない限り、いかなる規定も規定にならない。文書にしろ、口頭にしろ、勝敗判定の困難さがここにあるのである。本論争とて例外ではない。では、いかなる論争も勝敗を決定できないかというと、そうでもない。一つの手がかりとして、世論の判断、すなわち聴衆の反応を挙げることができる。時として聴衆は、当事者より冷静な判断を下すことが可能だからである。当日の“富士大勝利”という歓声と拍手喝采は、什門敗北、富士勝利を示すバロメーターであったといえよう。

*実地に見聞した日蓮正宗・堀日亨の評論には、「本多の登壇する時は僅かに場の一隅に拍手する者あるに止まりて甚だ寂莫の状況を呈し」とあり、「阿部師登壇の際には満場破るる計りの大喝采拍手を以て迎えられ」とあることから、会場は討論前から日蓮正宗のサクラに殆ど占拠されていたことが明らかです。創価学会と日蓮宗との小樽問答でも同様に品のない策略が行われています。

日蓮正宗の「仏教各宗破折」より転載(顕本法華宗に対して)

大白法 平成7年11月1日刊(第443号)

「日蓮聖人の教えがすなわちそのまま本宗の教義である。かつて日什師は教えた。『何事もたとえ日什が記録にのせたことであっても、大聖人の御抄の本意にそむくならもととしてはいけない』」(日本仏教基礎講座7−202頁)とは、何とずる賢い表現であろうか。顕本法華宗の僧侶がいかに間違った教義を説き、それを正法正義の人が破折しても、逃げ道をあらかじめ作っているのに過ぎない。卑怯な邪宗教と言えるのである。顕本法華宗は、日什以来、日蓮正宗を目の敵(かたき)にしているようである。「愚人にほめられたるは第一のはぢ」(御書577頁)であるから、それは一向に構わないことである。〜所詮、正法の血脈相承を否定し、教義も本尊論もでたらめな邪宗教であるから、これを信ずる者は、その人間性もおかしくなっていくことは言うまでもないことである。


以上転載ですが、その教えを悪用してきた創価学会同様、その教義の根元である日蓮正宗の僧侶が、まともな教えをしているとは言い難いでありましょう。明治時代、偏狭な教義に基づく日蓮正宗の僧員は僅か50人程でした。そんな偏狭な宗派を巨大化したのは、弱者を取り込み、宗教のビジネス化を目論んだ創価学会でした。創価学会同様に、彼等は次から次へと事実を捏造し、捏造した事実を信徒に刷り込んで他を邪宗と罵倒中傷します。彼等は嘘も百万遍唱えれば、真実になると考えています。お釈迦様に唾し、日蓮聖人の顔に泥を塗り、何のために仏教を信じるのかを全く理解せず、このような根性の拗けた行為に執着する人達の機根を救うのは大変難しいことかも知れません。しかしながら、頑張りましょう! 本当の仏教に、本当の法華経に、本当の日蓮聖人の教えに目覚める人を、一人でも多く増やすために。それが、日蓮聖人の踏襲された不軽菩薩の修行法です。

「末法には一乗の強敵充満すべし、不軽菩薩の利益此なり。各々我弟子等はげませ給へはげませ給へ。」(諌暁八幡抄)



参考:昭和16年、旧日蓮宗(一致派)と顕本法華宗ならびに本門宗は、三派合同により新たな日蓮宗となります。そして、昭和17年立正大学の13代学長、19年には日蓮宗管長に就任したのは、本多日生上人の高弟であった井村日咸上人でした。その影響のため現在、日什門流は顕本法華宗と日蓮宗内の什師会として存在しています。



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