1)無我

 「我というものはない。また、我がものというものはない。すでに我なしと知らば、何によって我がものがあろう か。」

釈尊が教えを説かれる以前の哲学思想は、一切のものに根元的な我(アートマン)があると考えられていまし た。人において我(アートマン)とは、固定的な性質を持った霊魂・個我ともいえる我の根元的なものを指しま す。そして、そのアートマンが我をも作りだしているのだと説いていました。しかし、釈尊はその様な「我」と言う ものを徹底的に否定されます。我の存在というものは、心身を構成する色(肉体)と受(感受作用)・想(表象イメージの作用)・行(意志作用)・識(認識作用)の五蘊(ごうん)が因縁化合したものであって、その五蘊のどこ を探して求めても我の主体を見出すことは出来ない。我の本体を見出せないものの集合体であるものを、仮に 我としているだけであり、実体的な我はないと言うことです。そこに認められるのは、生成力ともいうべきものだ けでありましょう。

何を正しいと見るのかという命題がある時、カルト宗教に入っていない限り、人の意見を参考にしても最終的には自分で判断するものです。人それぞれの価値判断がある以上、正しさも千差万別でありましょう。千差万別 である正しさならば絶対的な正しさではありませんし、相対的な正しさも時と場合によっては逆転します。特に 「我あり」「我のものあり」という自我に囚われた私たちは、物事を主観的に見て何が正しいことであるのかを見誤ります。この自我は、今生に僅かに経験したものと、自己の生存に基づく本能・煩悩によって成り立っていますから、事物の真相を見ずして表なら表のみを、裏なら裏のみを見て偏った判断をしたり、自分の考えに執着して 他の考えを否定したり、自分に都合よく物事を解釈したりする危ういものです。したがって、何時も的確であるは ずがなく、悪しき結果を生じては、自らを或いは他を苦悩に陥らせること繰り返します。

そこで釈尊は、我に主体があると考えることによっては客観的な判断は得ることは出来ぬと「無我」を説かれ ます。良く誤解して理解されている方も多いのですが、「無我」になるとは、自己を喪失してしまうことではあり ません。「我あり」の意識が即ち「個」の意識であるならば、「我なし」によって顕れてくる意識は即ち「全体」の 意識であるのです。自己に潜在する「全体」の意識が顕れて初めて、盲目的な主観を持つ「個」の意識が清浄化され、改めて自己の意識として蘇るということです。

少し難しくなりますが、我という個の存在が世間全体に相対して存在するように、主観という個も、客観という全体に相対して存在します。例えば、自分の五官を通して一切の世間(宇宙)を感じる場合には、その意識には必ず「我の経験」による主観を伴うものです。客観とは、一切世間(宇宙)の法(ことわり)からを自己の存在を観る意識と言えましょう。徹底的な客観の意識の基に初めて、自己というものをありのままに見極め、自分を取り巻く環境をありのままに知ることが出来るのです。この客観の意識は自己を超越したものでありながら、自己に内在する意識でもあるのです。そこで釈尊は、自我を否定することによって徹底的な主観(無明)を除き、自らに内在する無我という徹底的な客観意識を顕わすことが出来ると説きます。何故ならば主観的な世界は、実は常に客観的な世界を伴っているもの、主観的世界と客観的世界は、一次的には相互にこれを否定する関係において存在している因果の関係だからです。自我が今生の僅かな経験を反映した惑いある意識であるならば、無我に よって得られる意識は、深層に内在するとも、超越するとでも言うべきものであり、また人類200万年の経験則を湛えた静寂な意識と言えましょう。


 2)無常

「色は無常である。色をしてあらしめる因と縁もまた無常である。無常なる因と縁によりて生起する色が、何故に常恒であろうか。」

色とは、まずは身体のこと指し、広義には一切の形ある物質を意味します。この現象界において、何一つ変化しないものはなく、絶えず原因と条件によって変化してることは、誰もが認めなければならない真理でもありましょう。我が身、我が心のみならず、一切の現象・物質が絶えず変化している状態を無常と云います。原因とそこに働く条件さえも、絶えず変化しているのですから、原因と条件によって現象化するものが、永遠に変化しない存在であるはずがありません。これは我が身のみならず、自らが感受する外界の物質や事象に囚われるべきもの、固執するべきものがないということです。我が身、我が心ならず、一切のものが無我であり、執着すべきものではないということでもあります。

釈尊は「無常なるものは、苦である」と説かれます。何一つとして、このままであって欲しい、変わらないで欲しいという願いは、この現象界において到底受け入れられるものではないからです。これは一つには「一切は苦である」という真実を認識させ、苦から解き放たれる智慧を得させんがためでもあります。ですから、無常とは一見、ニヒリズムのように絶望的あるいは悲観的なものであるのかと言えば、そうでもありません。無常であるからこそ、今ある現象は原因と縁という条件を新たに設定することで、如何様にも変えることが出来るということでもあるからです。ですから釈尊は遺戒として「諸行は実に無常である。なんじらは放逸ならずにして、目的の完遂に努力せよ。」と最後に述べられているのです。時々刻々と変化する人生が、刹那刹那の精進努力によって善き方へ変わっていくことを確かに知るのならば、繰り返しのきかない今この時を、大切にし充実にせんとしないわけがありません。

   
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