1) 四苦八苦

釈尊は、約2500年程前、印度北部ガンジス川中域の釈迦族の王子として御降誕されました。この地は、世界の文明発祥の一つとして有名なばかりではなく、最古の哲学発祥の地とも言われています。

釈尊の幼名は、ゴータマ・シッタルダ。シッタルダ(悉達多)と言うのは、目的成就の意味を持つそうです。王子の母、摩耶王妃は御高齢の出産のためか、程なくお亡くなりになられます。そのためか王子は、とても感受性の強い方であったそうです。父・淨飯王の寵愛厚く、聡明にして武にも長ける王子ではありましたが、その鋭敏な心のために歓楽極り、かえって哀愁の念をきざすこと度々であったそうです。

やがてそれは、深い人生観に至っていきます。人生とは何であるのか、自己とは何であるのか、何のために生まれ、死して如何なることになるのか。実は釈尊御降誕の際、父王は第一の賢者と言われたアシダ仙人が王子の相を観て感涙し、次のように語られたのを気に留めておりました。「成長の暁、王子が即位されるならば、全印度を統御し尊敬され給う王となるでありましょう。もし、出家するのならば一切の人々を苦しみから済度し給う聖者となるでありましょう。」と。

王位継承を望む父王は、もしや出家の志が芽生えてはと、国中第一の美女である妃を迎え宮殿を荘厳し、何不自由のない歓楽の中に、王子の心を転じせしめようと努めました。しかしながら、王子の心中は、ますます疑問を深め、憂鬱な気分になるばかりでした。王子の「宮殿の外の世を知りたい」という気持ちを知った父王は、心機一転するならばとの慈愛から、城外への周遊を喜んで勧められます。父王は、その一方で王子の心を痛める、目に障るもののないよう、行く道をことごとく美しく整えさせておいたとのことです。

ある日、王子は多くの侍者を従えて東の門から周遊にお出になられたました。ところがどうしたわけか、門を出て間もなく、老いにやつれ果て、哀れに痛々しく、みじめな老人を目にします。警護の者が追い払おうとする中、王子は長く嘆息し、そのまま城内に引き返すことを申し付けられました。「我もまた、かのような老人の姿となるのであろうか。」と。

王は警護の不首尾を諫め、再び周遊を勧めます。ところが今度は、南の門より出てしばらくすると、王子を拝せんとする群衆の路傍に、身は痩せ喘息し、悲泣して苦しむ病人に気付かれます。人々は、急ぎその病人を隠したものの、この日もまた、王子はすぐさま城内に引き返されてしまいます。「我もまた、人ならば、いつ病苦の襲い来るやも知れぬ身であろうか。」と。

今度という今度はとの父の祈りも空しく、西の門より周遊に出られた際には、思いもかけず葬式の列に出くわしてしまいます。人々は棺の傍らに添い、大声で泣き悲しみ歩いているのでありました。周遊は、またもや中止されます。「我もまた、死を避けることは出来ぬ。そして捨て去られるのみであろうか。」と。

王子の苦悩は深まるばかりであります。三度の失敗を経た父王は、出家させてはならじとの思いで、次の北門よりの周遊には、徹底的な美化と不浄なるものの排除を命じました。今度ばかりは、王子も満足に終えられるのであろうと人々が安堵に落ち着いた頃、王子は異様な姿をした修行者を見かけます。王子は、これを呼び止めて尋ねられました。「汝は、何人であるのか。」修行者は次のように答え、その姿を消してしまいます。「私は、沙門(修行中の比丘)であります。生・老・病・死、憂悲苦悩から脱れ出て、自由自在の身となり、安息の淨境を求めるものでございます。」と。

釈尊出家に関わる「四門出遊」という有名なお話です。生・老・病・死を「四苦」と言い、求不得苦(求めて得られない苦しみ)、怨憎会苦(嫌なものに会う苦しみ)、愛別離苦(愛するものと離れる苦しみ)、五陰盛苦(迷いの一切の苦しみ)を合わせて、「四苦八苦」と言います。
    

                                目次に戻る