しられざるデタラメな
「創価学会の教義」
一般の創価学会の信者に邪な人は居ません。邪なのは、信者を騙し続ける創価学会です。
仏教を騙り法華経を騙り、日蓮聖人の教えを騙る似非仏教集団の闊歩する時代。
巧妙に嘘とデタラメを真実と偽る集団に、国政を任せてはなりません。
「本冊子は創価学会の教義と、そのよりどころであるはずの法華経・日蓮聖人の本来の教えを対比し、学会教義の非常識なることを示すものです」
「創価学会作成の『折伏教典』ではあるが、その内容は日蓮正宗の『折伏教典』である」(日蓮宗現代宗教研究所 伊藤立教教授)
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」P63
「釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない」
妙法蓮華経 寿量品
「衆生を救わんがための故に 方便して涅槃を現すも しかも実には滅度せずして 常にここに住して法を説くなり」 (衆生=生きとし生けるもの、方便=真実に導く手段、涅槃=入滅)
日蓮聖人御遺文(守護国家論、曾谷抄)
「法華経は釈迦牟尼仏なり、法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後たりといえども仏の在世なり」
「釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す、不孝国は此の国なり」(釈尊=釈迦牟尼仏)
仏教とは、約2500年前の文明社会に実際にお現れになり、最下層の人々から国王に至るまで、人々の一切の苦しみを解かんとされた釈迦牟尼仏の教えであり、心の教えであります。2500年前も現
在も、人々の心そのものは何も変わることはありません。お釈迦様以外の教えを、仏教とは言いません。釈迦牟尼仏の教えを正しく学ぶならば、釈迦牟尼仏は常に心の世界に実在し、法を説かれます。法華経は、その実在を確証せる経典でもあるのです。
創価学会教学部編 「批判を破す」
「釈迦が本仏であり、日蓮聖人は釈迦仏法による民衆救済を本懐とされたというのか。まことに浅識な論断である。」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P65
「われわれは釈迦仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」
妙法蓮華経 譬喩品
「今この三界は皆これ我が有なり。その中の衆生はことごとく これ我が子なり。しかも今この処はもろもろの患難多し、唯われ一人のみ能く救護をなすなり。(三界=一切の世界)
日蓮聖人御遺文(法華取要抄、諸法実相抄、一ノ谷抄)
「この土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり」
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊の久遠の弟子たること疑わんや」(久遠=永遠の過去)
「法華経に背き、釈迦仏を捨つるが故に、後生は必ず無間地獄に堕ちんことはさておきぬ、今生にも大難に値ふべし」 (後生=生まれ変わる来世、今生=今生きている現世)
釈迦牟尼仏は一切の人々を救わんと教えを説かれました。もし、私たちがその教えを求め実践しようとするならば、即ちお釈迦様の弟子(菩薩)になるわけです。日蓮聖人も、信徒さんも、他宗の方々も皆、釈迦牟尼仏のお弟子なのです。また常識的に、お釈迦様に縁のない方々を仏教徒とは言いません。日蓮聖人は、一切は教主釈迦牟尼仏の慈悲による教えであり、この恩を絶対に忘れることはあってはならぬと、生涯を賭して訴えられたお方です。
創価学会教学部編 「批判を破す」
「釈迦を本仏とするような狂学で、天下の創価学会に太刀打ちしようとしても、労多くして益なきことを知るべきだ」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P67、P316
「日蓮聖人が末法の御本仏であらせれる」
「釈迦等のとうていおよぶ 分際ではない」
日蓮聖人御遺文(祈祷抄、報恩抄、種種御振舞御書)
「釈迦仏ひとり、主・師・親の三義を兼ね給へり」
「如何に況や仏教を習はん者、父母、師匠、国の恩をわするべしや」
「日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦牟尼仏の御使いぞかし」
法華経は、釈迦牟尼仏が永遠なる本仏であることを顕わされた経典です。日蓮聖人の御遺文「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等と、誓ひし願やぶるべからず。(開目抄)」は、釈迦牟尼仏の御使命を全うせんとする菩薩の自覚を込められた誓願です。創価学会はこの文を本仏としての宣言であると歪曲します。釈迦牟尼仏の御恩に報いねばならぬとする日蓮聖人に背く、下克上の教義です。
創価学会教学部編 「批判を破す」
「(日蓮聖人を)本仏と仰ぐべきことは宗祖の御真意である。頭の悪い連中には、何が何だかさっぱりわからなくなる。釈迦本仏という先入観・色眼鏡をすてなければならない。」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P93
「釈尊出世の本懐である法華経でさえも 末法の今日には まったく力はない」
妙法蓮華経 薬草喩品/神力品/譬喩品
「この法を聞き己って、現世安穏にして後に善処に生じ」
「我が滅度の後に於いてこの経を受持すべし、この人仏道に於いて決定して疑いあることなけん」
「もし人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん」(仏種=成仏の可能性)
日蓮聖人御遺文(開目抄)
「善に付け悪に付け、法華経を捨つるは地獄の業なるべし」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P70
「(富士大石寺の)この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は基本的に幸福になれないのである」
日蓮聖人御遺文(観心本尊抄、報恩抄、本尊問答抄)
「其の本尊の體たらく、本時の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩」
「本門の教主釈尊を本尊とすべし」
「法華経の題目を以て本尊とすべし」
お釈迦様を謗り、教えを信じない創価学会の本尊でなければ、幸せになれないとはどういうことでしょうか。本尊というのは帰依する対象です。例えば本尊が仏像である場合、仏像そのものが有り難いのではなく、仏像によって顕わされた仏様を想って拝んでいるのです。日蓮聖人の描かれた曼陀羅本尊にも、帰命する対象(仏・法・僧)と、信仰における仏の境界が顕わされています。正しい信仰とは、形あるそのものが有り難いのではなく、それにより顕わされたものが信仰の対境となるのは言うまでもありません。これを拝めば幸せになると言うようなものは迷信です。あくまでも教主・釈迦牟尼仏を尊敬するからこそ、その正しき教えを心に留めて生活し、幸せに向かうのです。
創価学会教学部編 「批判を破す」
「自己流の見解を並べている。(中略)でたらめもいいかげんにしておけ。恥を天下にさらすのみだ。」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P280、P286
「邪宗教の本尊を拝めば、不幸になるのは当然」
「日蓮正宗(創価学会)以外は ぜんぶ邪宗教であり害毒を流すもの」
釈尊にも、日蓮聖人にも違背する教えをもって、自らを正しき宗とし、他を邪な宗と一方的に主張するのは全く不条理なことです。
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P314
「富士大石寺の大御本尊を拝まない者はすべて謗法である」
日蓮聖人御遺文(善無畏抄)
「仏には釈迦牟尼仏を本尊と定めぬれば自然に不孝の罪脱がれ、法華経を信じぬれば不慮に謗法の科を脱がれたり」
謗法とは、くわしくは誹謗正法であり、仏教上における重罪です。教主・釈迦牟尼仏とその正しき法を謗ることを言います。「釈迦も釈迦の教えも役には立たぬ」と主張する創価学会こそ、当に謗法の徒と言わざるを得ません。仏教上の定義までも勝手に都合良く変えて良いものではありません。
創価学会は、近年まで日蓮正宗(大石寺派)の誤った教義を利用してきたため、「日蓮聖人の御真筆であっても、(大石寺の)大御本尊に直結しなければ何の功徳もない(P314)」と主張しておりました。しかしながら、日蓮正宗より破門されるやいなや「(日蓮正宗)法主の許可や開眼などは無用」(聖教新聞)とし、創価学会複写の曼陀羅本尊のみを有効としています。
注) 日蓮正宗(大石寺派)は、日蓮宗とは違います。他の日蓮系法華宗諸派とは異質なる「日蓮本仏論」を主張します。いずれにしても、仏教の開祖である釈尊を詮なきものとする教義は偏狭なものです。なお、日蓮正宗が唯一とする板本尊は、偽物(日蓮聖人の真筆ではない)との見解が有力です。
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P303
「釈迦仏法など立てるのは去年の暦と同様で役に立たないしろものである。これを使用するから生活に破錠をきたすのは とうぜんである」
創価学会が、日蓮聖人の教えに背く教えを、あたかも日蓮聖人の教えであるかのように騙るため、世間に大きな誤解を与えています。釈迦牟尼仏の教えでないものは、仏教ではありません。日蓮聖人は、仏教が枝分かれし混迷した時代にあって、仏とその教えの本質に統一回帰せしめんとする法華経の広宣に命を懸けたのです。
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P321
「俗にいう日蓮宗を代々やっていると家族に不具者ができたり、知能の足りない子供が生まれたり、はては発狂する者ができたりして〜」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P323
「日蓮正宗(創価学会)以外の宗派はすべて人々を不幸に落とす力をもっている」
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P330
「仏教は勝負であるから正邪は生活に事実として正は勝、邪は負の現象が出るのである」
仏教は勝負ではありません。正しさは、勝ち負けにかかわらず、多い少ないにかかわらず存在します。ちなみに、朝日新聞の調査(平成11年夏頃)において、各政党別支持者のアンケートを行ったところ、公明党支持者の「将来への不安」「現状への不満」が、多党支持者に比べて一段と高かった結果が出ています。
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P349
「世間の無知な批判の中には、日蓮正宗における学会の存在を、日蓮正宗の本山を食い物にして、やがては一派独立の野望に燃えている新興宗教だというような、およそ誤認識もはなはだしい考え方をしたものすらあったのである」
昭和49年、日蓮正宗の信徒団体として組織力も資金力も強大になった創価学会は、これまで利用してきた日蓮正宗を自らの配下に納めようと画策し始めましたが、事の重大さにやっと気が付いた日蓮正宗は、平成3年遂に創価学会を破門しました。これにより、現在に至ってもなお、スキャンダラスな醜い曝露合戦が盛んに続けられています。
創価学会誌 大百蓮華より抜粋
「主徳」 全日本を、そして世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえていらっしゃる。
「師徳」 私たちの池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる。
「親徳」 我々学会員の幸せを願ってくださる池田先生こそ親徳兼備でいらっしゃる。
* 主・師・親の三徳は、本仏を意味します。
池田大作監修 創価学会教学部編 「折伏教典」 P252
「政界においては、すでに公明党を結成して、王仏冥合を実現しつつあるが、同様に、経済、教育、文化等々あらゆる分野にわたって、(中略)第三文明の建設が、着々と実現されつつあるのである」
創価学会信者の多くの皆さんは、その巧妙な方法により、学会の教えのみを学びます。従って、仏教上も日蓮聖人の教えにも違背することが明らかにされても、論理上の判断はなされず、尊敬する池田大作名誉会長の創価学会は、あくまでも正しいと信じて疑おうとはしません。しかも、この問題に触れた時の学会信者の皆さんの反応には、激しいものがあります。
創価学会上層部の方々が良識者であるならば、仏教を正しく学ぶならば、その教義の誤りは明白に理解されているはずです。経文の解釈を都合良く変えたり、日蓮聖人の御遺文を都合よく改ざんするなど、あってはならないことです。あえて異質な教義を取り入れ、不条理なことを強信させ、学会以外の一切の教えに反発させるのは、組織構築のために盲目的に従わせるのを意図しているとしか思えません。一般の信仰心あふれる信者の皆さんには、是非とも正しき教えに目を覚まして頂くことを願ってやみません。
平和、文化、教育のスローガンを掲げ、近年には「他の宗教を尊重して、人類の基本的な問題について対話し、その解決のために協力していく」「宗門の拘束を離れた今、私たちは他の宗教と協力することに努力する」旨の発表をしました。しかしながら、これは創価学会への厳しい批判と、各方面からの追究を回避するためであり、その教義と内実は全く変わっていないのが現状です。その一方で、強大な資金力と組織力により、日本人の良心のより所である仏教を破壊し、着々と各方面で彼等の支配を実現しているのです。まして仏教混乱の時期、数々の迫害に会われながらも、釈迦牟尼仏こそ我等衆生の主であり、師であり、親であると訴えられた日蓮聖人の教えを騙るなど、けっして許されるべきものではありません。
かって創価学会が数々の社会問題を起こしていた時代、検察庁刑事局に勤めていたのは、現公明党代表の神崎氏です。一国の総理(故小渕前首相)と旧友の如く握手し、創価学会丸抱えの公明党が日本の内閣に入って国政に携わろうという今こそ、正義ある皆さんと共に立ち上がるべき時と宣言いたします。
創価学会 聖教新聞抜粋 師匠から全ての弟子へのメッセージ
「私も戸田先生のもとで、阿修羅の如く戦った。この「創価精神」を受け継ぐのは君たちしかいない! 私の偉大なる若き同志達よ! 創価学会を、大切な21世紀の創価学会を、万事宜しく頼む!」 平成11年 六月二十一日 池田大作
追補:創価学会 聖教新聞抜粋
「糞犬! 癡猿! 日顕のごとき極悪を『極悪』と斬り、山崎のごときゲスを『ゲス』と笑い、新潮・文春等の『子供たちに読ませたくない』クズ雑誌を『クズ』と叩いてこそ、日本の民主主義は守ることができる。言うべきことを言わない臆病な“お澄まし屋”は悪を増長させ、善を虐げる加担者だ。俗耳に入りやすい甘言で人々を誑かすウソ議員やデマ雑誌やエセ宗教。これらの魔物を打ち倒し、日本に精神復興の光をもたらすのが、正義を打ち込む創価の言論闘争だ」2003年9月27日 (参考 日顕:創価学会が所属していた日蓮正宗の法主、山崎:元創価学会の顧問弁護士、その他、元公明党代表の竹入氏や矢野氏にも裏切り者として執拗な罵倒が続けられている。
「青年よ、仏敵を打ち砕け。学会迫害の悪人は厳罰でのたれ死ぬまで攻め抜け」2004年11月8日
過去の公になった事件
選挙違反/替え玉投票/選挙投票所での集団暴行/僧侶への集団暴行/創価学会批判出版物に対する妨害/組織的盗聴事件/取材するマスコミへの集団暴行等
妙法蓮華経
法華経は、釈尊(釈迦牟尼仏)が入滅されてから約500年後、紀元1世紀の頃完成したとされています。釈尊が亡くなられてより、僧侶達は残された教えを経典として整理し、その教えに基づいて悟りを得るための修行や哲学的な学問に専念していました。そして、国王や一般に信者はこれを外護することにより教えを受け、また功徳を得ると考えられていたのです。
しかしながら、お釈迦様の慈悲なる本心は、決して出家した僧侶のみがその成果を得るものではない、一切の人々が心の救済と悟りを得るためのものであるはずとの原点に還る運動が、信者とそれに賛同する僧侶を中心に起こりました。これが大乗仏教の始まりです。一切の教えと行いは、すべて仏の身を得るための菩薩行なりと説かれます。仏になるとは、智慧と慈悲により人格を完成することであり、真理を悟って永遠の命を得ることだと考えていただければ結構かと思います。永遠なる命を得るとは、何のために何をしようとして生まれたのか、どの様な境遇に生まれるのか解らないで繰り返す命ではなく、自らの尊い意志に基づいた命を得ることであります。
釈尊の本懐なる正義をもって活動を始めるものの、いわゆる宗教革命ですから既成教団からの反発は強く、長い年月にわたって数々の迫害を受けたことでありましょう。これらの困難を耐え忍びつつ、他の人々のために正義の教えを説かんと精進する行いは、即ち釈尊の生涯に近づくものでありました。大乗仏教において、仏 の悟りの何たるかを追究することよりも実践を重んじるのは要因があれば自ずと成果有りとする釈尊の教えに 基づくものと言えます。
大乗仏教の布教に精進する菩薩団でありましたが、釈尊と違って悟りを得ているわけではありません。永い闘いに身も心も打ちのめされた人々は、やがて釈尊の舎利(遺骨)を納めた仏塔へ赴き、悲観と深い懺悔の気持ちに陥ります。何故に、このような事態を招いているのであろうか。私たちの行いが間違っているからであろうか。釈尊の教えに背いているからであろうか。嗚呼、お釈迦様、どうか真実を教えていただきたいと願ったに違いありません。人々の心に、入滅された釈迦牟尼仏を慕う気持ちが切実に高まった時、それは宗教的な体験として現実となります。釈尊在世の時、人々に説法をされていた霊鷲山の座が忽然と現れ、釈迦牟尼仏は眼前に歩み寄り、その頭を摩でて、「善きかな善男子よ。」と告げられ、次のように教えを説かれたのです。
寿量品 自我偈(抜粋/意訳)
私が悟りを得て 仏となったのは
永遠なる過去の時であり
永遠なる時のあいだ 常に法を説いて
数限りない人々を導き 仏道に入らしめているのである。
人々を救わんがために 仮に涅槃に入るのであるが
実には入滅したのではなく 常に此処にいて
法を説いているのである。
私は常に此処に居るのだけれども
神通力によって 心の転倒した人々には
近きにあっても見えないようにしているのだ。
人々が正しい信仰を持ち
その心が誠実にして 柔和となり
一心に仏を拝したいと願って
自らの身命を惜しむ心なければ
その時に 私と弟子達は ここ霊鷲山に姿を現すのである。
そして 私は人々に語るのである。
私は常に ここに居て不滅なのであるが
人々を導かんがため 仮に入滅を示したのである。
たとえ他の国にあっても 私を心から敬い
信じ願うのであれば 彼の人の中において
この上なき法を説くのである。
罪ある人々は 悪業の因縁により
永遠の時を経ても 仏・法・僧の三宝の名を聞かず
諸々の功徳を修め 柔和にして誠実なる人々は
私の身がここにあって 法を説くのを見るであろう。
汝等よ 智あり賢き者は ここにおいて疑いの心を起こすなかれ。
当に疑いの心を断じて 捨て去らねばならない。
仏の言葉は真実にして 偽りであることはない。
常に私が姿を現しているならば
人々は驕りの心を生じ おこたりにして 快楽に執着し
悪の道に陥るであろう。
私は常に 人々の正しい道を行ずると 行ぜざるとを見て
救うべきところに随って 種々の教えを説くのである。
そして 常に自らこの念をなす
「如何にして人々を この上なき正しき道に入らせ
すみやかに 仏の身を成就することを得させようか」と。
以上述べられたことが、法華経成立の背景です。そして、釈迦牟尼仏の一切の教えと深い真理に関する哲学を含蓄・統一し、壮大なる戯曲のように完成されたのが妙法蓮華経です。原典名をサッダルマ・プンダリカ・スートラ(正しき法・白蓮華の経)と言います。
「南無妙法蓮華経」
「南無」とは、サンスクリット語で「帰命する」、不惜身命で帰依するとの意味です。本師・釈迦牟尼仏とその教えの永遠なることを説かれた妙法蓮華経は、人々の良心と理性をもたらさんとする仏教において最も重要と考えられます。特に、仏教が混迷とし衰退せんとする時、人々の心が荒廃し様々な社会問題が発生する時、この経を受持し後世に伝えんとする功徳は量り知れないものがあります。
したがって法華経にも、また日蓮聖人の御遺文にも、これらの人々を天の神々が守護したまうこと疑いなしと書かれています。「南無妙法蓮華経」と呪文のように唱えれば、「絶対に願いがかなう、幸福になれるのだ」という信仰が広がったのは、これに由来します。確かに、「私は絶対に報われる」と信じ、その信じる心を付けんとして「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」と一心に唱えることは、それだけで人生を前向きに生きていくことができるのかもしれません。
しかしながら、日蓮聖人が提唱された「南無妙法蓮華経」と唱える本来の意図は、自らの心に存在する仏の世界を顕わすことにあります。それは、潜在する深層の意識であり、宇宙の始まりとともに如来(仏)と私たち衆生の関係なのです。一切の人々を救わんとする釈迦牟尼仏の絶対的価値を認識し、その智慧と慈悲による教えに包まれ、常に人格を完成させんがために導かれていることを覚醒することこそ大事です。これは、僧侶だけが経験すべきものではありません。欲望や矛盾に溢れる社会にあって、道理に基づいて正しく生きいこうと願う人々にこそ、経験されるべきものなのです。正しい指導があれば、この感応を得ることは十分に可能です。これまでの自分の人生や、今後の人生における一切の苦悩や不安を断ち切り、生きることの本当の価値と悦びを得て、より良き生涯に向かうことができるのです。
人は苦しみが生じることにより、惑い(煩悩)を生じます。惑いを生じることにより、誤れる行為(業)は生じ、誤れる行為の結果、また苦しみを生じるのです。迷いの人生とは、心を基として、苦から惑へ、惑から業へ、業から苦へと繰り返すことを言います。正しき信心は惑いを智慧に転じ、この悪循環から脱れることを可能とします。例えば、もし不当に口汚く罵られた時など、当然の如く怒りや憎しみを生じ、罵り返したくなるものです。やり返すならば事態は悪化し、我慢すればストレスとなるでしょう。しかしながら、一切の世間が釈尊の教えに包まれていることを覚るならば、怒りや憎しみの煩悩さえも正しきに転じ、感謝に変えることができるのです。
「心を落ち着けて、ありのままに見なさい。口汚く罵る姿は、醜いものだと知りなさい。醜い姿と知るならば、これを真似ることは愚かなことである。口汚き罵り生きる者の、哀れむべき行く末を知りなさい。その行く末を知るならば、慈悲の心を起こさねばならない。」と。
仏の教えとは
宗教は争いの元だと、これを否定する方々がおられます。果たしてそうでしょうか。正しき宗教とは、人々の良心や理性を護り、これを高めんとして伝承されてきたものです。つまり、宗教そのものが悪なのではなく、これを利用し欲望を満たさんとすることこそが悪であり、争いの元なのです。例えば、優しさや思いやりが良いことであるのは、誰もが認めることです。しかして、これに付け込み悪利用する者がいるからと言って、優しさや思いやりなど価値のないものだと、否定できるものではありません。
また、仏の教えは苦しみに喘ぐ者のみが、必要なものではありません。知識や経済的に恵まれた人々も、けっして自らの快楽を貪るためにそれがあるのではなく、何故に今があるのかを考え、社会における自らの価値を、人生の本当の価値を覚るべきと考えます。
人生とは、神が決めるものでもなければ、偶然というものでもない。すべてはその行為によって変わるものである。釈尊在世の時、平素に説かれていた経典の一部を御紹介いたします。
法句経(抜粋) 賤しき人、聖なる人
忿(いか)りの心のある者、恨みをいだく者、
あるいは、偽りの善を行う者、
邪な見解をいだく者、諂(へつら)いのある者、
かかる者は賤しき人であると知るがよい。
たとい、如何なる生き物であろうとも、
生きとし生ける者を害する者、
生きとし生ける者に慈愛なき者、
かかる人は賤しき人であると知るがよい。
村々に住まう人、町々に住まう人々を、
害し、取り巻き、略奪する者、
圧制する者と呼ばるるがごとき者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
もし証人として問われし時に、
自己のため、他人のため、また財のため、
偽りのことを申しのぶるがごとき者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
親戚の妻、或いは知人の妻と、
暴力をもって交わりをなす者、
あるいは合意にして交わりを行う者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
年老いてすでに盛りを過ぎたる
母なる人、また父なる人を、
自己は富裕にして、しかも養わぬ者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
母なる人に、また父なる人に、
兄弟姉妹に、また妻の父母に、
手をもて害を加え、言葉もて悩ます者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
もし人の道理を問う者あるに、
無益にして道理なきことを教え、
正しきを覆い隠して語る者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
自ら悪しき行為をなして、
「このこと知らざれ」と願い、
ひそかに隠れたる行為をなす者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
おのれを高く褒めそやし、
他人を低く貶し落とし、
高慢のために心いやしくなりたる者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
他人を悩まし害する者、ものに吝嗇なる者、
悪しき欲ある者、かたくななる者、諂う者、
人に恥じなき者、おのれに恥じざる者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
仏を謗りけなす者、
また出家にあれ、在家にあれ、
仏の弟子たちを謗る者、
かかる者は賤しき人と知るがよい。
まことは聖者にあらずして、
自ら聖者なりと公言する者は、
一切人天の世界の賊である。
かかる者は実に最も賤しき人である。
人は、その生まれによって賤しき人であるのではない。
また、その生まれによって聖なる者であるのでもない。
人は、その行為によりて賤しき人となるのである。
また、その行為によりて聖なる者となるのである。