題目の信念    
  顕本法華宗  土屋信裕 (まだ駆け出しの時に、妙塔学報に掲載されたもので五重玄義の論考に未熟な所があります。)


1 「五字を受持する」

日蓮門下にあって題目は、成仏を決定する信行の柱であるが、これを空題目の如く唱題するのみであってはならないのは周知の通りである。観心本尊抄には、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給ふ」(昭和定本日蓮聖人遺文711)と教示されている。しかしながら、宗祖は題目を唱えるのみを以て成仏の為の功徳なりと極論されているわけではないと考える。もし宗祖の本意を、ただ唱題即ち成仏に至るとしては、世間一般には所謂盲信に値するものではなかろうか。中古天台恵心流は、天台大師の所説を発展させ「止観勝法華」と極論に至った。しかしながら、宗祖は立正観抄に「もし止観修行の観心に依るとならば法華経に背くべからず。止観一部は法華経によって建立す。」「法華経を捨てて、ただ観を正となす輩は、大謗法・大邪見・天魔の所為」「天台の一心三観とは、法華経によって三昧開発をするを己心証得の止観と云うなり」(定844)と教観不離を忘れたるを厳しく批判しているのである。したがって唱題もまた、法華経を離れたものではない。本門の題目である以上、本門を離れたる唱題ではないはずである。(註1)

本来の「信」とは、題目の一念に込められた「信」であり、何時までも鰯の頭であってよい、唱えれば功徳の「信」であってはならないと考える。法華経分別功徳品にある「一念信解」とは、釈尊の久遠実成を聴いて僅かながらも信解を生じることである。信解とは教えを確信し、了解することである。釈尊の仏像を拝んでも、黄金で見事な細工がしてある立派な工芸品であるから有り難がっているのでもなく、その仏像に超越的な偉力を期待するからでもない。智慧と慈悲に於いて完全なる釈尊の人格とその法を、自らの観念として心に映し出し、その教えの導きを得ようとしているのである。宗祖に於かれても、題目の唱題、広宣流布を強く勧める一方、その題目に統一包括された「信」というものを、御遺文の至る所に強調されておられるのである。その一々を取り上げて検証するまでには至らぬものの、少なくとも顕本の修法として定められた「赤本(祈祷経)」と観心本尊抄を中心に、浅学ながら考察を述べてみたいと思う。

2 「一たび聞いて能く持つ一切法なるが故に」

一たび聞いて能く持つ一切法とは、是好良薬である。是好良薬とは寿量品の譬えによって、良医なる父が毒を呑んで苦悶する我が子に調合して与えたものである。日蓮門下にあっては、苦悶する我等衆生に父なる釈尊が与えた「妙法蓮華経の五字」である。しからば、「妙法蓮華経の五字」とは何ぞや。宗祖は、観心本尊抄において「今の遣使還告は地涌なり、是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経なり。」(定717)と示されているのである。つまり「妙法蓮華経の五字」に統一され、「五重玄義」によってその包括を明かされられた所を「南無」と信じ受持するのが基本であると言えよう。天台大師の法華玄義において、神力品に証されたるは、「要を以てこれを言わば、如来一切所有之法、如来一切自在神力、如来一切秘要之蔵、如来一切甚深事、皆此の経に於いて宣示顕説す等云々」(定717)である。今ここで整理するならば「妙法蓮華経の五字」=「四句の要法」=「五重玄義」であろう。参考として、法華玄義・第二節引証において説かれたるは次の如くである。これは主に教相の方面から説かれたものである。(註2)

釈名=如来の一切所有の法=一切の法とは、権実の一切法を皆な摂す。
弁体=如来の一切の秘要の蔵=器に非ずんば授くるなきを秘と為し、正体を要と為し、含容する所多くして、積聚なきを蔵と名づく。
明宗=如来の一切の甚深事=実相を甚深と名づけ、実相のための修因を深因と名づけ、実相を究竟するを深果と名づく。
論用=如来の一切の自在神力=自在とは内用なり、神力とは外用なり。
判教=皆、此経において宣示顕説す=諸々の譬喩を以て教相の最大なることを明かせり。これ即ち、妙法蓮華経に説かれたるを五字に約し、その五字の最勝なるを明かすものと考えられる。

さらに上行菩薩結要付属口伝(定2329)において法華文句を引用し、四句要法の五重玄義への相当を述べたものは、次の如くである。口伝と言うからには、これは主に観心の方面より説かれたものと理解するべきであろう。(註3)

釈名=如来の一切所有の法=一切法とは、これ皆、仏法なり。
弁体=如来の一切の秘要の蔵=一切秘蔵とは、一切処に遍して皆、是れ実相なり。
明宗=如来の一切の甚深事=一切深事とは因果は是れ深事なり。
論用=如来の一切の自在神力=一切力とは、通達無礙にして八自在を具すなり。
判教=其の枢柄(四句)をとって之を授与す。
これ即ち、妙法蓮華経に説かれたるを五字に約して付属し、その五字によって顕わされる真実を明かすと考えられるものである。

また、我が什祖が諷誦章において「その要法とは、所謂題目の五字なり。」と要法について述べられたのを四句に即せば次の如くであるとされる。(註4)
釈名=如来の一切所有の法=本地甚深の奥蔵
弁体=如来の一切の秘要の蔵=三諦円融の法躰
明宗=如来の一切の甚深事=性海果分の内証
論用=如来の一切の自在神力=萬行衆善の都名
判教=此の妙法蓮華経は、十種難思の神力を現じて、末法弘通の要法を付す

上記の宗祖が引用された法華文句と符合する内容であり、当に妙法蓮華経の五字を以て本門の修観を指し示す内容と考えられるのである。ならば、久遠実成なる釈尊の「毎時作是念 如何令衆生 得入無上道 即成就仏身」の事実に基づく信念行の唱題ならば、その唱題は一切は釈尊の教えの中にあり、一切は釈尊の教えに転じ得るものとの信念を増益せしめるものでなければならない。久遠実成釈尊の教導が真実であるならば、四句の要法を受持せんとする信念によって、自らを取り巻く世間より、上記の如き釈尊の教えを享受できなければならないはずである。

3 「因行果徳の二法」

宗祖は観心本尊抄において「像法の中末に観音・薬王・南岳・天台等と示現し、出現して迹門を以て面と為し、本門を以て裏と為して、百界・千如・一念三千其の義を尽くせども、但だ理具を論じて事行の南無妙法蓮華経の五字、並びに本門の本尊未だ広くこれを行ぜず。」(定719)とされる。天台大師は、止観に於いて己心を観じて十方界を見る、即ち理具の観心を説かれた。然からば宗祖が説かんとする台祖が行ぜられずに秘された、事具を為す、受持するところの妙法蓮華経の観心と、その観心修行の本門の本尊こそが大事ではなかろうか。

事具の一念三千の観心とは、本尊抄の「問うて曰く、教主釈尊は三惑已断の佛なり。また、十方界の世界の国主、一切の菩薩・二乗・人天等の主君なり。〜是の如き仏陀をば、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんか。」(定707)に始まり、「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与え給ふ。」(定711)と結せられるのである。

では、我等の己心の外にある教主釈尊を己心に住せしめるのかと言えば「然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千萬億那由佗劫なり」の経文を引いて釈尊の果徳を示し「我が己心の釈尊、五百塵點、乃至、所顕の三身にして無始の古仏なり」(定712)と言われるのである。無始の古仏である釈尊が、我等が己心の釈尊であるならば、即ち釈尊の果徳、仏界はすでに我が己心に在るのである。釈尊の人格は即ち我等が己心の仏界である。また「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず、復上の数に倍せり」と釈尊の因行を引いて「我等が己心の菩薩なり。」(定712)と示される。即ち釈尊の因行、菩薩界もすでに我が己心に在るのである。「地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の眷属なり」地涌の菩薩即ち菩薩界である。

しからば、理具を以て仏界も菩薩界もあくまで己心のみに留まってよいものかと言えば、そうではないと考える。仏教は己心に通達するものであるから、我々は信念を持って己心の仏界を顕わし、妙法蓮華経の五字即ち四句の要法を実際に「南無」と譲り受けねばならないのである。宗祖は、妙楽大師の「当に知るべし、身土は一念の三千なり。故に成道の時、この本理に称うて、一身一念法界に遍し」(定712)と引用する。即ち、一念三千は正報の身、依法の国土となって法界に周遍するものとする。つまり、一切の世間は、妙法として顕れたる我等の一念三千でもあると言うことである。我等が各人において感受する世間は、自らの心が体現されたものである。

したがって、己心の釈尊、仏界の実在を覚るならば「今本時の娑婆世界は、三災を離れて四劫を出たる常住の浄土なり。佛既に過去にも滅せず、未来にも滅せず、所化以て同体なり。此れ即ち己心の三千具足、三種の世間なり。」(定712)と言われているのである。一度己心の仏界の存在が明かされるならば、己心の仏界即ち娑婆世界であらねばならない。信念すべきは、この娑婆世界は、即ち久遠常住の釈尊が化導する仏界なりである。所化とは、これを信じる我等が凡夫である。己心の菩薩界なる地涌の菩薩である。これ、事の一念三千即ち仏界縁起であると考える。そして、この娑婆世界の仏界縁起の事実を、この現実の世界を通して釈尊の慈悲なる智慧の教導を感得せんとすることが「事観」なる観心ではなかろうか。

仏界縁起の事実を信じ、その現証に気を向けるならば、己心の仏界も顕わとなり、娑婆世界即ち仏界も顕わとなるはずである。己心の仏界と仏界たる娑婆世界の相即、精神即現象を感得するのである。自らの心が如何なる世界にあるかによって、自らを取り巻く世間というものは、実際に大きく変化するものである。また、自らが存在る世間に遍在する矛盾は、即ち自らの心の矛盾と見るのが菩薩の境地である。自らの心の矛盾を融和させるが如く、世間の矛盾を、矛盾に苦悩する人々を融和させんとすることが、己心の菩薩界の発現であると考える。

ここで、宗祖が何故に法華経をもって本仏なる釈尊とその常住実在、一念三千について喧しく言われているのか考えてみたい。統一神なる本仏の概念については、本多日生猊下などが盛んに論説していたことでもある。(註5)仏教哲学として、一切の現象は諸行無常であり、諸法無我である。即ち「空観」である。あらゆる現象は、変化して止まず同一であることはなく、あらゆる存在は相互の依存関係によって成立しているものであって実体がないとされる。しかしながら、それは無いのではなく変化しているものである。それは無いのではなく認識されるものである。一切の因果の事実を我々は、時間的な限定、空間的な限定によってそれを認めることが出来るのである。これは、限定せしめるものなくして、限定されるものはないと言うことでもある。無量無辺の無量とは時間であり、無辺とは空間である。つまり、釈尊の智慧の教導が無量無辺なるとは、時間的にも空間的にも、その因果を限定せるものとしての実在を現わさんとしていると考えられるのである。したがって、法華文句における弁体は「一切処に遍して皆、是れ実相なり」、諷誦章においては「三諦円融の法躰」とされているのであろう。

本多猊下と同時期にあり、東洋(仏教)思想を以て西洋哲学を揺るがす近代哲学を打ち立てた西田幾太郎氏も、その著書において次のような見解を述べている。(註6)あらゆる物質現象も存在も、何らかの統一せしめる力によって現象として或いは存在として認められているのである。統一せしめるものなくしては、現象も存在も認められない。したがって、真の実在として認められるものは、統一せしめるものであると考えられる。一切の相矛盾するものを統一せしめるものが、真の実在であるとされるのである。統一せしめるものによって一なる体系は、一即多ともなり、多即一ともなり、平等の中に差別を具し、差別の中に平等を具すると認められるのである。妙法蓮華経が、迹門において仏の智慧「平等大慧」を説き、本門において本仏常住・無始無終の実在を説く
ところでもある。(註7)

矛盾せるものが体系的に包括されると言うことは、統一せしめる絶対的な力の存在を認めると言うことでもある。統一する絶対的な存在は、包括するところの相矛盾せる存在を肯定した上で調和し、融合せしめるものである。これは、原子のような物質現象についても、刹那の意識現象についても同じことである。また、如何なる認知できる現象も我々の感受する意識と離れたものでないことから、己心の矛盾を統一し融和せしめる実在は、一切世間・社会の矛盾を統一し融和せしめる実在と合一であると考え得るのである。

妙法蓮華経は、開権顕実を以て諸経を統一せしめるものである。釈尊は、開迹顕本を以て一切の諸仏を統一せしめ、常住不変なる実在を明かされたのである。つまり、久遠実成の釈尊とは、一切を統一せしめる絶対の実在が、人格を以て顕わされたものであると考えられよう。一念三千の一念とは、三千世間を統一せしめる観念である。「観心とは我が己心を観して十方界を見る」(定704)であり、一念三千の観心とは、天台大師が釈尊(即ち三千世間を統一せしめる実在者)の境地たる不思議境を観念せんとした理論に基づくものであった。先に述べるが如く釈尊即ち仏界なれば、仏界は一切の法界を統一せしめる常住不変なる実在であると言える。仏界のみが真の実在であるならば、事の一念三千の観心は「我が己心の仏界を観して十方界を見る」ものとなるであろう。宗祖のそれは、南無妙法蓮華経の五字・七字の一念に、仏界の十方界への遍満なる事実を見んとするものであると推察されるのである。自我による主観的観念と統一せしめるものによる客観的観念の合一は、斯くの如くなされると考えられる。

4 「事一念三千南無妙法蓮華経」

己心の仏界を顕わすことと五字の関係は、観心本尊抄述作の直後である義淨房御書に端的に述べられている。「寿量品の自我偈に云わく『一心に佛を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云々。日蓮が己心の仏界を此の文に依って顕わす也。其の故は、寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せん事此の経文なり」「日蓮云わく、一とはなり。心とはなり。欲とはなり。見とはなり。佛とはなり。」「一心に佛を見る、心を一にして佛を見る、一心を見れば佛也。」(定730)(註8)

即ち、妙法五字によって顕わされたる所観は、久遠実成の釈尊であり常住不変なる仏界である。その仏界の様相を顕わしたのが虚空一会の儀式であり、後に観心修行の対境として図顕された大曼陀羅である。「此の本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字に於いては〜」と本門の題目を示し、「其の本尊の為體、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏。釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。〜」(定712)と本門の本尊、即ち久遠実成の釈尊・常住不変なる仏界の體相を示すものであると考える。(註9)

日受上人も事観録序において「観心をせしめんための本尊であり、まず観心の相貌をあげて、以て我が己心を観じて十方界を見ると判ず」と示し、「然れども、末法下根下機の者はその器となるに堪えない故に以信代慧せしめて信念口唱の題目を勧めたのである。易行の信念口唱の功徳の當體に難修観心の功徳をも備えるからである。」(日蓮宗宗学全書顕本部2−171)「是れ則ち信心に於いて我等に決定せしめるの本尊なり。」(宗顕2−173)と本尊が観心のためであることを示し、ただ易行の口唱のみが正行ではないことを延々と述べているのである。

仏教思想と深い関わりを持ち、近代の心理学界を二分した巨匠ユングも、「集合無意識」「元型」をもって人類の宗教性を説いた一人である。(註10)仏教において、己心の仏を見る、己心の仏界が顕れると言うことは奇想天外なことでもなければ、幻想や妄想の類と軽んじるものではないと考える。心理学上も、意識の現象や存在は必ず心像に表象として顕れるものなのである。但し、夢の如き無秩序な意識の状態にあるものとは全く異なるのは当然であり、瞑想によって統一されたる意識上の経験をすることとも違うものである。一切衆生に本有・普遍なる仏界という実在の活動が自己の意識において最高潮に達するとき(不自借身命)、会わせて自我に執着するあらゆる障害が脱落したとき(質直意柔軟)、仏も仏界もありありと顕れ来たり、迷昧なる心が一挙に照らされて救いと悟りを得るのが、宗教が宗教たる由縁であろう。例え、それらの宗教的体験に至らぬまでも、信念によって己心を統一し調和せしめる実在、本仏釈尊の実在が確かとなるに従って、煩悩によって相矛盾する迷妄なる心もまた、その智慧と慈悲によって融和せられて行いくはずである。

5 「六波羅蜜自然に前に在り」

即ち、五字受持によって一心清誠に口唱するは、信念するところの己心所具の仏界を顕わし、己心所具の仏界と仏界たる娑婆世界の相即を感得せんとすることにある。信心強盛にして自らを仏界に至らしめ、釈尊の智慧と慈悲なる導きが我が身を願って注がれていることに感応し、釈尊の久遠の弟子であることを信じるに疑いなければ、報恩謝徳の想いを起こし「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜前に在り。」と菩薩行の実践と功徳を得るのである。行住坐臥に、六波羅蜜を妨げる煩悩の生じる度に、南無妙法蓮華経と唱えて地涌の菩薩としての自覚に帰るならば、煩悩を転じ得ないことはないでろう。六波羅蜜とて実践せずにはおれないはずでる。釈尊に代わって、釈尊の弟子として実践をなすことによって、その一瞬一瞬に菩薩界と仏界の真の互具を漸次果たしていくのである。即ち、妙法蓮華経の五字の受持と信念口唱は、当初易行なれど信心強盛なれば、自然に大果を得る修大行となるものであろう。

6 「今身より仏身に至るまで」

近代において日什門流の教学を大成せしめた日受上人は、「口唱は正行、事観は助行」と主張する説に対し、宗祖の本意は「事観を助行とせず」と反駁されている。十章抄を引いて「諸仏因位の修観は則ち是、信智不二の正行也。口業の読経及び唱題は則ち是、助行也」(宗全顕本2−206)と初心なる在家には信念口唱を勧めるも、釈尊の弟子として出家をした我等には修観を正行とするのが宗祖の本意であると指摘している。何故本宗が祈祷経をもって、まず本門の本尊を勧請するのかを考えてみる必要があると思う。観心とは理観のみを言うのではない。受師は、観心はしない或いは事観は助行なりとする唱題即観心を「事行の南無妙法蓮華経」とは言われていない。観心即唱題を事観とも言われていないのである。「信念口唱の當體は、全くこれ事観にして、その所観の境、無始本有の十界互具、真の一念三千の題目は即ちこれ総體の本尊なり」(宗顕2−172)と言われているのである。

観心本尊抄副状の「乞い願わくば、一見を歴るの末輩、師弟共に、霊山浄土に詣でて三仏の願貌を拝見し奉らん」(定721)との宗祖の想いを、我等は空しくしてはならないと思うのである。ただ、題目を唱えていても地涌菩薩の自覚には容易に至らない。題目が低級な迷信でない以上、唱えるのみでは人徳を高めることにも至らないのである。唱題は、仏界縁起の信念を増益せしめるものでなければ、人生を善業に変えることは出来ないのである。また、宗祖を始め御先師がそうであったように、事観は社会的実践なくしてはこれを得ることが出来ないものと考える。己心を観ると言うことは、自己を見出すと言うことでもある。真の自己というものは、自らの行為にって限定され、自ら認めるところとなって、初めて自覚を得るものである。困難にも立ち向かう実践を通して自己を知り、また自らが人格の完成者となるべく、釈尊の智慧と慈悲によって導かれていることを確かに感得し、その法悦を得てゆくことが宗教信仰の大事であると考える。門下の僧侶が檀家制度に埋没し、自覚を得る機会に臨まなくなれば、宗門は雑乱勧請となり、加持祈祷も中心となり、民俗信仰の如くに堕落していく可能性がある。然るに、法華の行者としての実践は永らく途絶え、単なる先祖供養文化の継承者となり得るのである。

「天晴れぬれば、地明らかなり。法華を識る者は、世法を得べきか。」(定720)一念三千を識るならば、世間の法にも通じるのである。世間の法に通じるならば、一念三千を識るのである。仏界縁起、事観正行は天台宗の学頭・能化であって自戒改宗された日什上人を開祖とする本宗の、他宗門を教導し宗祖の本意を正しく伝えたる教義である。仏教の王道を行く優れた思想であり、人々の人生を遍く善業化せしめる教えでもある。社会や家庭が混沌とし、精神的拠り所を失いつつある今日、我々は何を為すべきか如何に為すべきかを、今一度考えていかねばならない時期にあると痛感する。

(註1)宗祖も什祖も天台恵心流を学ばれている。恵心流には観門が、檀那流には教門が主に伝授されている。
(註2)「法華玄義」仏典講座 159頁〜、大蔵出版
(註3)口伝に関わるような内容であるので、録外の形で出たものと考える。法華文句の引用文自体に真偽を挟む余地はないので取り上げた。
(註4)「顕本法華宗宗義講習録」 井村日咸 101頁〜
(註5)「日蓮教学精要」 本多日生
(註6)「善の研究」 西田幾太郎 84頁〜
(註7)法華経・見塔品「釈迦牟尼世尊は、能く平等の大慧、菩薩を教える法にして、仏に護念せらるものたる妙法蓮華経を以て、大衆のために説き給ふ」
(註8)無作三身の語があり真偽を疑う説もあるようであるが、上記と同じ口伝に関わる内容であり、また本尊抄の内容に一致するので取り上げた。
(註9)少し触れておくならば、宗祖は仏界全体を即ち久遠実成の釈尊の人格全体として捉えられているので、能観として示された本尊問答抄「法華経の題目を以て本尊とすべし」と所観である報恩抄「本門の教主釈尊を本尊とすべし」と観心本尊抄の「其の本尊〜」の全体とは、全く矛盾しないと考える。
(註10)ユング(1875〜1961)、スイスの心理学者・精神医学者。フロイトとともに今日の精神分析の2大潮流である。

引用以外の参考文献
    「日蓮聖人と天台宗」 淺井円道著 山喜房仏書林
    「日蓮聖人御遺文講義」 日本仏書刊行
    「日蓮辞典」 宮崎英修著 東京出版
    「密教の哲学」 金岡秀友著 平楽寺書店
    「ユングにおける心と体験世界」 渡辺学著 春秋社
    その他

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