創価学会公式ホームページ(日蓮正宗教学)の嘘と歪曲

種脱相対というデタラメ

【法華経本門が脱益にとどまるのに対して、南無妙法蓮華経は下種益の法です。このことを日蓮大聖人は「彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(観心本尊抄)と述べられています。大聖人の下種仏法によって、成仏の種子を衆生の生命に植えることが可能になり、すべての衆生が一生のうちに種熟脱を具えて仏界の生命を現し、成仏していける道が開かれたのです。このように、末法の衆生は釈尊の脱益仏法では成仏できず、大聖人の下種仏法によって初めて成仏できることを明かしたのが種脱相対です。】

以上は創価学会公式WEBからの引用です。

創価学会や日蓮正宗は、本当に可笑しなことを平然と宣うものです。創価学会は最近はカルトと称されないために、「釈尊の説いた仏教の教えは、さまざまな経典として残されていますが、万人の成仏を実現する完全な教えを説いた経典が法華経です」と、表向きは釈尊の説いた法華経を常識的に尊重する振りをしながら、そして最後の最後にひっくり返します。なぜ、こんなことに一般の信者が騙されてしまうのか全く不思議です。下種→調熟→解脱の三益とは、釈尊の一貫した化導の次第を言います。始めに仏種を受け、修行を通してやがて機根は熟し、そして解脱を得るのです。この解脱益を、創価学会などは脱益(利益がないこと)として信者にデタラメを教えてきました。少々具合が悪いのか、上記のように「法華経本門が脱益にとどまるのに対して」などと最近は誤魔化していますが、それはさて置いても、下種益にとどまって解脱益を見下げる愚かさは、仏道の階段の入り口に留まって、悟りに向かって階段を上る者を嘲笑い罵倒するに等しきものでありましょう。下種に執着する彼等には、調熟も解脱も一生得られることなどありません。即ち、成仏などあり得ないのです。

しかも、「一念三千を識らざる者には、仏 大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう」(観心本尊抄)と述べられているように、仏種の「一念三千」は、釈尊が慈悲を以て題目の五字に包み、それを末法衆生の頸に懸けよと地涌の菩薩達に命じたものだと日蓮聖人は捉えているのです。

法華経は、迹門に至る修行を為してきた者が本門寿量品を中心とする「一品二半」の教説に至って目が開き、実は久遠の過去に釈尊より下種を受けていたことを覚って解脱益を得ることが説かれています。これは釈尊在世の時の法華経における下種→調熟→解脱とされます。そして、末法の今は、再び下種の時であると日蓮聖人は述べられているのです。何故ならば、末法衆生の機根は非常に劣っていて、一品二半を聞いても、直ちに悟りに至ることは到底出来ない、釈尊の久遠の下種などを覚ることは出来ない、久遠の下種を得ていないに等しい衆生ばかりだからです。だからこそ、法華経本門への確固たる信心、南無妙法蓮華経との信念を、まず下種する時であると述べているのです。しかしながら、それは下種に留まるものではありません。末法の衆生が今生において「題目」によって下種を受けた場合であっても、数々の人生の試練を耐え忍んでいよいよ機が熟し、そして再び寿量品の教説に至った時には、実は今生で下種を得たのではなく、久遠の過去に釈尊より下種を受けたことを明らかに覚って解脱の益を得るのです。今という時間軸が、霊鷲山虚空会での説法の座に一挙に転換して、釈尊の久遠の弟子・地涌菩薩の自覚を得るのです。今生の下種と思っていたものが、久遠の過去の下種に大転換するのです。地涌菩薩とは久遠の下種を授かっている釈尊の直弟子・仏子のことであって、それ以外の者を地涌菩薩或いは本化菩薩とは言いません。このように妙法五字の下種を受けて、そして法華経に説かれた如くに生きて、そして機が熟した時に心に聴くことの出来る寿量品は、今まで自分が読んでいた寿量品とは一体何であったのと思うほどの経力を発揮することとなるのです。

「久遠を種と為し、過去を熟と為し、近世を脱と為す、地涌等是也」「今世を種と為し、次世を熟と為し、後世を脱と為す、未来得度の者是也」と天台大師の法華文句に有ります。そして、これを日蓮聖人は、「本門は序・正・流通ともに末法の始を以て詮となす。在世の本門と末法の初は、一同に純円なり。ただし彼は脱、これは種なり。彼は一品二半、これはただ題目の五字なり。」(観心本尊抄)と述べているのです。本門は、釈尊が末法の時を鑑みて衆生教化の為に説かれたものであるのは間違いないであろう。そして、在世に説かれた本門も、末法の始めのためにと説かれた本門も、同じく完全なる教えである。ただ、釈尊在世の時は霊鷲山で法華経を聴いていた衆生の機根が熟して解脱を得る時であったが、今の末法の衆生は一品二半を聴いて直ちに解脱を得ることなどは到底不可能な機根であるから、まずは第一に法華経本門の教えに帰依すること、南無妙法蓮華経との信念を以て下種することが肝要である。故に、ただひたすらに題目の五字を以て受持を勧めるのである。これは、釈尊の説かれた本門の教えでは成仏できない等ということではなく、最後に覚りを得る時には必ず本門の教えに依って、「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子」(観心本尊抄)との自覚を得ているということです。

仏法は、始めに下種があって、そして調熟を経て解脱を得るものです。日蓮聖人の教えを成仏の下種仏法、釈尊の教えを役に立たない脱益仏教などというデタラメも”ぞんざい”ですが、下種仏法では成仏出来るが、釈尊の解脱仏法では成仏できないというデタラメも全く不条理なものです。


白法隠没における嘘


歪曲を常とする創価学会は、白法隠没の末法である現代には「釈迦の説いた法華経は役に立たない」と信者にデタラメを教えます。さて、当の日蓮聖人は何と言われているかといえば、下記に示すように仏教が衰退混乱し闘諍盛んとなる白法隠没の末法の時、釈尊の告勅に従って「久遠本仏である教主釈尊の永遠なる教化」を顕らかにした法華経を広宣流布するのだと明確に述べられているのです。

「次の五百年は我が法の中において闘諍言訟して白法隠没せん」等云云。今末法に入つて二百二十余年、「我法中闘諍言訟白法隠没」の時に相当れり。法華経の第七薬王品に教主釈尊多宝仏と共に宿王華菩薩に語つて云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に広宣流布して閻浮提において断絶して悪魔魔民諸の天竜夜叉鳩槃荼等にその便を得せしむること無けん」。(真蹟・曽谷入道殿許御書)

「(如来神力品の)この十神力は、妙法蓮華経の五字を以て、上行、安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したもう。」
「嘱累品に云く、爾の時に、釈迦牟尼仏法座により起つて大神力を現じたもう。右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、乃至、今以て汝等に付嘱す」等云云。地涌の菩薩を以て頭となし、迹化・他方、乃至、梵・釈・四天等にこの経を嘱累したもう。」(以上、真蹟・観心本尊抄)

即ち
日蓮聖人が述べられたことは、法華経以前の白法(釈尊の教えを白法という)が隠没する時、即ち末法の時には釈尊の真実を説いた法華経が流布せねばならないということです。そのために「南無妙法蓮華経」と法華経の肝心を唱えて、法華経を流布するというのが御遺文を正しく読む者の常識的な理解です。これに対して
創価学会がよく根拠にするのは、真蹟の無い大石寺蔵「上野殿御返事」を切り抜きして信者を騙す「今、末法に入ぬれば余経も法華経もせん(詮)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。」です。これを以て、釈尊が説いた妙法蓮華経(一品二半)は、日蓮聖人の南無妙法蓮華経の題目より劣る、去年の暦と同じで役に立たないとデタラメを信じさせるわけです。さて、まずこの文章のすぐ前には「南無妙法蓮華経と申は法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。」と述べられているように、他の真蹟御遺文からも、法華経の肝心とは法華経(寿量品中心の一品二半)への「一念信解」であることは明確です。だからこそ、「帰命し奉る(南無)妙法蓮華経」と「信」を唱えるのことが大事であるのが本来の常識的理解です。

しかも、この上野殿御返事は「日本国すでに釈迦多宝十方の仏の大怨敵となりて数年になり候へば」と、日本の人々が釈迦牟尼仏の敵となってしまったことを日蓮聖人が嘆いて述べられたものです。そして真蹟である法華取要抄には「逆縁のためにはただ妙法蓮華経の五字に限るのみ。我が門弟は順縁。」と日蓮聖人は説かれているのですから、真蹟から上記の創価学会等が歪曲する「上野殿御返事」を解釈するならば「末法の逆縁の輩には、調熟益を与える余経も解脱益を与える法華経も詮(せん)なし。但南無妙法蓮華経なるべし。」との正しい意味となりましょう。つまり本仏釈迦如来とその真実の教えである法華経を謗る逆縁には、その大事な内容を説く必要はない、本仏釈尊の三世の妙化を顕かにした(開迹顕本)本門の法華経こそが最高の教えであると、不軽菩薩の如くただ相手に「南無妙法蓮華経」と唱え続け、彼らが謗法の罪で地獄に堕ちることは致し方がないけれども、兎に角法華経に縁を結ばせることによって後に救う以外に無いと云うことです。即ち、創価学会のように教主である釈迦牟尼仏を謗り、釈尊の説いた法華経は「役立たず」だと謗る輩は逆縁(謗法の輩)であって、日蓮聖人の門弟ではなく仏教の大怨敵であるのです。ちなみに、法華経法師品にも「この経はこれ諸仏の秘要の蔵なり。分布して妄りに(信なき)人に授与すべからず。」とありますから、日蓮聖人も久遠の釈尊を謗しる逆縁の輩には「法華経を説いても、詮(せん)なきこと。」とお考えになったのでありましょう。


ただし、創価学会等は「南無妙法蓮華経」と唱えながら、釈尊による永遠の教化を説く法華経を「役立たず」「生活に破綻をきたす」と謗っている逆縁の輩ですから、もう逆縁のために「ただ南無妙法蓮華経」では済まない状況になってきています。釈尊を亡き者にして仏教集団を自らの支配下にしようとした極悪人、堤婆達多も更に賢くなって事態は深刻になっているということです。


「日蓮本仏」という歪曲

創価学会及び日蓮正宗は、観心本尊抄の一文「地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士となりて一閻浮提第一の本尊、この国に立つべし。」と読むべき所を、「地涌千界出現して“本門の釈尊を脇士と為す”一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し。」と歪曲して読ませます。そして、これを「日蓮が本仏で本門の釈尊は脇士」との根拠にして、人々を信じ込ませるのです。仏教の常識を有し、法華経に説かれていること正しく読むならば有り得ない教義ですが、彼等は日蓮聖人による観心本尊抄等が、変体漢文と言って平安時代以降の公文書等に使われた和化漢文で書かれており、本来の漢文とは文法が異なっていることを悪用します。

無論、大事な教義というものは、漢文の読み方等に執着して偏狭なことを主張するものではなく、前後の内容や他の重要な真蹟御遺文によって正しく読み取ることが大切なのは言うまでもありません。先ず第一に、この観心本尊抄では上記の文章の前に、日蓮聖人は本尊の説明として「その本尊の為体(ていたらく)、本師の娑婆の上に、宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に、釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士は上行等の四菩薩なり。」と既に述べられています。(釈尊とは釈迦牟尼世尊、釈迦牟尼仏の尊称です。)この事は、彼等の使用する御書版にも「釈尊の脇士上行等の四菩薩」とあり、また「地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり」「我が弟子、之を惟え、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」とも、日蓮聖人は観心本尊抄において述べられているですから、創価学会・日蓮正宗の「本門の釈尊は脇士」と固執することが、如何に上記の一文に限った歪曲であるかは明確です。

そして、報恩抄(真蹟)に「其形貌如何。答えて云く、一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩脇士となるべし。」とあれば、今度はこの「本門の教主釈尊」とは、釈尊のことではない、曼陀羅本尊の中央に書かれた「南無妙法蓮華経」であり、その下に日蓮と花押があるのだから、それは日蓮大聖人のことだ等と、彼等は突拍子もない屁理屈を繰り出します。所謂(いわゆる)とは、本門の教主釈尊を説明したもので、釈迦牟尼仏とその法身を表す多宝仏を含んで示すものですが、彼等は、釈迦・多宝、外の諸仏も上行等の四菩薩共々「南無妙法蓮華経」如来の脇士だと言うわけです。ここに、創価学会・日蓮正宗の教義が如何にデタラメでいい加減なものであるかが露呈しています。先には、地涌の上行菩薩等が本門の釈尊を脇士とする、即ち上行菩薩の再誕とされる日蓮大聖人こそが本仏であると偏屈を言ったかと思えば、今度は舌の根の乾かぬ中に上行等の四菩薩は、この一文では脇士のままであるのです。

さらに、観心本尊抄には「この(神力品の)十神力は、妙法蓮華経の五字を以て、上行、安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したもう。」「嘱累品に云く、爾の時に、釈迦牟尼仏法座により起つて大神力を現じたもう。右の手を以て無量の菩薩摩訶薩の頂を摩でて、乃至、今以て汝等に付嘱す等云云。地涌の菩薩を以て頭となし、迹化・他方、乃至、梵・釈・四天等にこの経を嘱累したもう。」と述べているように、日蓮聖人の描かれた曼陀羅本尊は、本門の教主釈尊、即ち久遠実成の釈迦牟尼仏が、霊鷲山の虚空会に於いて、妙法蓮華経の五字を以て、経典とその経典の意義を弘めることを地涌の菩薩を筆頭として付属(委任)する儀式が顕されたものです。したがって、曼陀羅本尊の中央に「南無妙法蓮華経」と、日蓮聖人は大書してあるのであって、けっして中央に書かれている「南無妙法蓮華経」の文字が本仏であると言うわけではありません。そのことは、観心本尊抄の最後に「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起して、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたもう。」と述べられている通りです。「是好良薬とは、寿量品の肝要たる名・体・宗・用・教の南無妙法蓮華経これなり。」(観心本尊抄)「諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり。」(法華取要抄)とあるように、南無妙法蓮華経とは、釈尊が授けて下さった良薬と考えねばなりません。そして、先の報恩抄には「入我我入の事即身頓証の疑いこの日釈然たり。」と、仏が我が身に入り、我が身が仏に入って互いに相応じることにより、我が身が仏と成る、即身頓証(即身成仏)についての疑いが釈然として解けたと言う弘法大師空海について、「予も仰いで信じ奉る事かくのごとし。」と述べながらも、空海が「釈迦仏を無明の辺域」としたことを徹底的に批判し、撰時抄(真蹟)には「只偏に釈迦如来の御神我身に入かわせ給けるにや。我身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申大事の法門はこれなり。」と説かれているわけです。即ち、本仏である釈迦如来と我等衆生の関係に於けるものが、日蓮聖人の説く「一念三千の法門」であるのです。

「我等が己心の釈尊、五百塵点、乃至、所顕の三身にして無始の古仏なり。」と日蓮聖人は観心本尊抄に述べられ、法華取要抄(真蹟)によって補足するならば、「教主釈尊はすでに五百塵点劫より已来妙覚果満の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮ぶこれなり。華厳経の十方台上の窺盧遮那、大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇士なり。例せば世の王の両臣のごとし。この多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。この土の我等衆生は五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。」と、教主釈尊こそが我等衆生が尊重すべき根本の仏であることを示され、「しかるに或る人師は釈尊を下して、大日如来を仰崇し、或る人師は世尊は無縁なり、阿弥陀は有縁なりと。或る人師の云く、小乗の釈尊と、或は華厳経の釈尊と、或は法華経迹門の釈尊と。これらの諸師並に檀那等、釈尊を忘れて諸仏を取ることは、例せば阿闍世太子の頻婆娑羅王を殺し、釈尊に背いて提婆達多に付きしがごとし。」と、本門に顕された教主釈尊、釈迦牟尼仏の本地を蔑むことは、王である父を殺して支配者となった阿闍世と、その阿闍世を唆(そそのか)し釈尊を亡き者にして教団を乗っ取ろうとした提婆達多に従う者だと、日蓮聖人は厳しく叱責しています。

また、「例せば外道は三宝を立て、其中に仏宝と申すは南無摩醯修羅天と唱へしかば、仏弟子は翻邪の三帰と申して南無釈迦牟尼仏と申せしなり。」(真蹟・法門可被申様之事)と、尊崇すべき仏・法・僧の三宝において、仏宝とは久遠の釈迦牟尼仏であることを明確に述べられ、そして「三宝を護る者にして、うたたさらに三宝を滅破せんこと、師子の身中の虫の自ら師子を食うがごとし。」(真蹟・災難対治抄)と、此等のことを覆して偏狭なことを主張する者を、日蓮聖人は仏教を破壊する「師子身中の虫」だと批判し、「法華経を背き釈迦仏を捨つるゆへに、後生に阿鼻大城に墮ことはさてをきぬ。今生に必大難に値べし。」(真蹟・一谷入道御書)と、その危惧を述べています。したがって、日蓮聖人の御指南に逆らって、偽書・偽作を以て御遺文を歪曲し、仏宝である釈尊と法宝である釈尊の教えを謗る創価学会や日蓮正宗の邪見を弘める輩は、その大罪を逃れることは出来ないと言えましょう。


創価大学の宮田幸一教授は、仏教学者としての良心から、偽書や真蹟のない御遺文に依拠する、こじ付けの「日蓮本仏論」は破棄する方針だと2015年に創価大学で行われた宗教学会第74回学術大会で発表しました。しかしながら、創価学会上層部からの叱りを受けて、あくまでも私見であったと訂正した上に、情けないことに「日蓮本仏論」という教義を残しながら新たな屁理屈を構築できないかと模索しています。即ち、顕本法華宗のように釈迦本仏を立てる他宗を散々に邪宗と罵倒してきた創価学会の教義は、現在は完全に破綻し、ただ池田大作を崇拝するカルト宗教団体になっているということです。


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