門下の現状

優れた教義を有し、他宗門の誤りを正して来た顕本法華宗も、その現代における退廃ぶりは、決して他を責められるようなものではありません。そして、それを是正しようとする法華の行者であれば、上からは邪魔をされ下からは罵られるのは当然の事と受け止めなければなりません。これまでも、私の活動を面白くないと邪魔をする者、やっかみで言い掛かりを付けてくる者などが多々ありましたが、けっして少なくはない善良な方々の支援もあり、何とか此処まで精力的に活動を継続することが出来ました。けっして僧侶を批判するのでは無く、率先して見本となり、互いに力を合わせていこうと声を掛け、宗門の活性化を願って長年踏ん張ってきました。しかしながら、今回は遂に極まった、このような馬鹿げた事態に発展するようでは、もはや何をか言わんやという感じです。

未だ住職は拝命していないため、日蓮宗から私を慕って顕本法華宗に帰入した若い方の問題もあって、宗制上のために現・管長猊下との師弟関係を改めて結ぶことになったのは、今年(2014年)の3月のことでした。その2ヶ月後、ある懇親会で教学上のアドバイスを親切にしていたところ、酒の席ではありますが、二回りは年が違うであろう宗務次長藤崎行学の息子には「お前呼ばわり」して反発され、教学に全く無知な管長・山本日惠(学人)の孫には「師僧に言って、海外布教なんか阻止してやる」などと大声で騒がれ、「好い加減にしておけ!」と言った所が、「御遺文なんか読む必要は、ねえ!」と前回も絡んできた塔中の坊主に眼鏡を拉げられ、シャツも破かれるような揉め事が起こりました。まあ、そういう程度の者を相手に刀は抜くなとカミさんにも厳しく言われていますので、柔道・ラグビー・ボクシングを熟してきた元戦闘員である私も、その場は我慢するしかありません。ところが驚く事なかれ、「どうか水に流してやってくれ」と他の僧侶から言われていたにも拘わらず、その後早々にその管長猊下から問答無用の「離弟」が申し渡され、宗制に基づいて3ヶ月以内に新たな師僧を届けなければ僧籍削除となると通知を受けることになったわけです。「お爺ちゃん、ボクは彼奴が嫌いだ!」「親父、あの生意気な彼奴を何とかしてくれ!」、どうやら我が宗門は、遂にそういう馬鹿なことが起こる宗教団体になったようです。いやいや、本多日生猊下とその支持者も一旦は剥牒処分になりましたし、紀野一義先生も顕本から追い出されましたし、古くはあの日経上人も宗門から売られましたから、歴史は何度も繰り返すようです。

宗内のガラクタ坊主たちは、鼻高々これで「ざまぁ見ろ」とでも思うのかも知れませんが、御存知のように私は大手航空会社の機長の職にありながら、身銭を切って、寸暇を惜しんで顕本法華の布教に邁進し、仏教を根本から破壊する創価学会等にも一人で戦いを挑んで来た訳です。別に坊主で飯を食おうとしている訳ではありませんから、僧籍剥奪だと脅かされても実際には痛くも痒くもないわけです。ところが、彼らはそういうことが分からない。まあ、今回の件で幽霊宗教法人の一つでも是非お願いして、今後も尽力して貰いたいということであれば話は別でしたが、「宗門に残りたければ詫びを入れろ」などと言われるに至っては、二の句が継げません。このような仕打ちをして、それがどんな事になるか想像できない者が権力を振る舞い、それに追随しているような組織であるならば、残念ながら僧籍剥奪は謹んで承り、今後は如何に堕落した宗門であるかと批判を加えつつ、外からの是正を願う他ありません。本多日生上人に顕本教学を説いた児玉日容師が、堕落した宗門の改革が受け容れられないと、僧籍を返上して追い出された寺の前に庵を構え、「あの謗法の寺に行ってはならぬ!」と言ったことが思い起こされます。

悪口して顰蹙し 数数擯出せられ 塔寺を遠離せん 是の如き等の衆悪をも 仏の告敕を念うが故に 皆当に是の事を忍ぶべし 諸の聚落・城邑に 其れ法を求むる者あらば 我皆其の所に到って 仏の所嘱の法を説かん 我は是れ世尊の使なり 衆に処するに畏るる所なし(妙法蓮華経 勧持品より)

2015年3月4日、顕本法華宗は任期満了に伴う内局人事で、事も有ろうに「本多日生の話をされると酒が不味くなる」と公言して憚らない島田幸晴師(広島・妙詠寺住職)が新宗務総長に就任し、再び宗門において権力を振るうことになりました。TOYOTAの創始者・豊田佐吉翁を始め、本多日生猊下を慕う篤信な政官財各界の有識者であった方々は、顕本法華宗の現状にさぞや残念な思いでおられることでしょう。


立正安国の光と影  

日蓮宗の抱える問題は、現代の顕本法華宗では尚更です。日蓮宗香川宗務所長・高岡完匡師の論考から、その指摘を抜粋しましょう。全文は

http://www.genshu.gr.jp/Local/Kagawa/pdf/ankoku01.pdf

最初に高岡師は、「仏法について学んでいる教師が少ないのは、どうしてでしょうか。大学卒業後も法華経を開き、御書を繙く人が極めて少ないのはどうしてでしょうか。」と言葉を投げ掛けます。

そして、「日蓮宗教師は法華経や御書を学ぶことの必要性を感じられない環境の中にいると言うことでしょう。内容を知らなくても葬儀法要には困りません。宗祖の五大部を学ばずとも、生涯活動に支障をきたすことは、殆ど無いと言ってもいいでしょう。なまじ教学のことを口にすれば、他の教師から煙たがられるだけです」と述べ、その原因として「檀家制度のせいで、葬儀法要さえしていれば食うに困らない、よほどの苦難に出会わないかぎり、道心を発すことは希」「住職という役割が職業化し、世襲になった」ことが大きく影響していると指摘しています。

その上で高岡師は、「世間の人々が私達僧侶のことをどのように見ているのか、謙虚に受け止めなければならない。ある人の云わく、今のお坊さんは僧宝といえるのか。又ある人の云わく、現今の僧侶は道徳さえ守らず、実行していない」と述べ、「物よりも心、心よりも魂のありようが大切であると自ら信じ自ら実践してみせる教師が殆どいない」ことを嘆き、「僧階が高ければ高いほど、僧侶の手本とならなければならない。そのような自覚が私たち教師にあるのか。法外な葬儀料、戒名料を要求し、檀信徒の寄進で贅沢な暮らしを営みながら、私たち教師は世間の人々から尊敬を得られるのか。誰が真剣に教師の話に耳を傾けるのか」と訴えています。

そして最後に、「時が経ち、教団が大きくなればなるほど、教団の存在目的は教団組織の防衛と拡大、構成員の保護と利益追求へと変質してゆく。教団の利益を守り拡大することが最優先され、正法の流布はその手段となってゆく」との現状を述べて、「立正安国の祖願をわが本願とすることを本気で願うならば、たとえ賛同者が無くとも、唯だ一人茨の道が必要になります。誰もが真似できる生き方ではありません。宗祖の教えに従うということは容易ならざることなのです」と、その論考を締めます。

全くその通りに思います。だからこそ、私は安易に批判するのでは無く、自ら僧侶になって、宗門の中に入って実践することにより、顕本法華宗が人々の尊重すべき本来の僧伽に蘇るようにと努めてきました。僧侶になってから17年間、それを絶え間なく続け、私の存在が宗門にとって「良い刺激」となっていると、賛同を示してくれる仲間も漸く増えてきたところでしたが・・・・、性格の拗けた坊主は、相変わらず「俺たちは何もしてないと言うのか!」と突っ掛かり、遂に今回のような馬鹿げた事態に至っているわけです。


職業になった伝統仏教

NHKテレビ等にも多数出演し、日本仏教の再活性化運動にも携わっている東京工業大学・文化人類学者の上田紀行氏は、その著書「がんばれ仏教!」の冒頭で次のように述べています。

私は今の日本仏教がそのまま続けば、期待される仏教に変身するとは思わない。それどころか、現在の伝統仏教はこのままだと衰退し、早晩、死に至ると思っている。私がショックを受けたのは、一人の若者のこんな発言だった。「日本仏教の未来と可能性」を論じてきたシンポジウムが終わった後のこの発言に、それまで伝統仏教のあり方を批判してきた私でさえ度肝を抜かれた。「葬式仏教」と批判されているうちはまだいい。葬式と法事しかやらない「葬式仏教」が「葬式」すらできなくなったときに、今の寺はほとんど死に絶えるだろうと彼は言うのだ。

言われてみれば、私自身も葬式と法事には大きな不満を持っている。菩提寺は浄土真宗だが、その若い住職は法事に来てもほとんどしやべらない。お経以外は口を開くのは正味四、五秒くらいだろうか。そして決定的なことは、彼を見ていても彼が仏教を信仰しているとは全く思えないし、宗教者としてのオーラが全くないのだ。私と妻は、彼ではとても自分たちは成仏できないと確信しているので、自分たちが墓を預かるようになったら、お寺を替えようかと考えているところだ。お寺を替える、もしかしたら宗旨も変わるかもしれない。そこまでは私も考えたことがあった。しかし、葬式や法事に僧侶を呼ばないことまでは考えてもみなかった。しかし、その僧侶の卵の若者が言っているのは「葬式に僧侶が呼ばれなくなるかもしれない」という、より過激な可能性なのであった。

お寺の仏教、伝統仏教は本当に元気がない。そして、このままだと本当に滅んでしまうかもしれない。いや、もう宗教としての伝統仏教は既に危機状態である。教団や寺はある。しかし、人々から何も求められない。苦しんでいても、伝統仏教に救いを求めようとは思わない。人々から何も求められず、法事のときのお布施の額だけが気になる宗教など宗教と呼べるのかと考えてみれば、教団は存続しているが、既に宗教としての根本は崩壊しつつあるとも言えるのだ。しかし、伝統教団の人たちが深い危機感を持っているかといえば疑問である。

仏教には未来に向けてこんな可能性がある、あんな可能性がある、といろいろな提言を試みてきた。しかし、じきに私は虚しくなってくる気持ちを抑えきれなくなってきた。例えばそれが会社ならば、多くの社員は「その可能性に向かって自分たち一人ひとりにできることは何か?」とすぐに考えるはずだ。しかし、僧侶たちの間には自分こそがその行動を起こす当事者だという自覚は極めて薄い。仏教には未来がありそうだ。ああ、安心した。誰かがきっとやってくれることだろう、というわけだ。なので、私はあるときからはっきりと答えるようにしている。「二一世紀の仏教には何が期待されているのでしょうか?」「何も期待されていないでしょう。そもそも期待するに足るものだとも思われていないと思います」「寺には何が求められているでしょうか?」「何も求められてはいないでしょう。そもそも、私たちの求めに応じて動くという態度をこれまで寺は示してこなかったし、何かを求める対象のうちに寺は入っていなかった。また、何かを求めたところで、その能力があるのかどうかも疑問だと思っている人がほとんどではないでしょうか」

現在の仏教のいちばん悲惨なところは、人々から何も期待されていないところだ。期待するに足る存在だとすら思われていない。「どうせこんなものだろう」とあきらめてしまっている、というか、最初から期待感がないので、あきらめすらないというべきだろうか。期待もされていないから、本質的な批判もなく、自分たちを問い直す契機もない。期待もされていないから、優れた人材も集まらない。期待もされていないから、その期待に応えようと努力もしない。期待もされていないから、自分たちが何をしているかの情報公開もない。こんな状態が続けば、日本の仏教は早晩死ぬ。これだけ期待もされず、しかしそれをいいことに、改革も努力も放棄してのうのうとしているのであれば、状況は絶望的だ。最初から感性の鈍い人間たちが集まっている業界なのかもしれないが、この状況にしてなおかつ新しい動きが出てこないのでは、寺の仏教は既にその使命を終えたといってもいいし、諸行無常、滅びて当然だろう。(以上抜粋)

私も上田氏と同じ危機感を、17年前に持ちました。死ぬべきか生きるべきかという人生の窮地から救われ、そして新たに力強い生命を与えて頂くことを得た私は、その報恩のためにも、何とか皆さんと共に顕本法華宗を復活させ、そして法華経と日蓮聖人の教えを護り、その現代にも全く通用する優れた哲学と信仰を、人々の人生のために、社会のために伝えたいとの思いで僧侶になったわけです。ところが、現実は非常に厳しい、私の方が感性の鈍い人たちの怨恨を買って、却って僧籍剥奪だと脅されているわけですからね(笑)。宗門の良識ある方々には是非とも聞いて貰いたいと思います。それでも、上田氏が最後に述べた熱誠の言葉を・・・

しかし、私はこの時代の苦悩に向かい合い、新しい行動を起こしはじめている僧侶、そして寺を知っている。彼らは現在の仏教の絶望的な状況を痛感し、大きな気概を持って、新たな一歩を踏み出そうとしている。それは仏教界全体からすれば、まだ少数派かもしれない。しかしそこには明らかに未来に対する希望がある。まだ諦めるのは早すぎる。そこには大きな可能性があるのだ。これから私はその希望を語っていきたい。そして瀕死の仏教に「がんばれ仏教!」と心からのエールを送りたいのだ。

「法華行者の会」に戻る