宗旨 その1
仏陀の悟りを得ることは直ちには出来難いことでありますが、しかしながらこの教義に従っていけば必ず覚りに達することが出来るというものを宗旨と言います。日蓮聖人の宗旨の内容は、本門の本尊と本門の題目と本門の戒壇であります。そして、この三大秘法を統一すべき「南無妙法蓮華経」との唱え言葉とは、絶対の実在者である本仏釈尊に帰依する意識信念であります。
「我れ今、大乗経典甚深の妙義に依りて、仏に帰依し法に帰依し僧に帰依す。」
法華経の結経とされる「観普賢経」の一節です。仏・法・僧の「三宝」に帰依すべき事は、釈尊在世からの仏教徒であるための根本の「戒」であります。なかんづく法華経の本門・寿量品の妙義に基づく日蓮聖人の主張を仰ぐ門下にあっては、本仏とは「久遠実成の釈迦牟尼仏」であり、本法とは本仏の与えられた「妙法の五字」であり、本僧とは本仏の御使いとして「題目を唱えることは、本仏釈尊に対する渇仰恋慕の心を第一とせよ」と教示された日蓮聖人であります。
「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず、時に我れ及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず、我れ時に衆生に語る、常に此にあって滅せず」
これは法華経寿量品の一節です。仏なければ法は説かれず、使いを遣わすことも出来ません。三宝に帰依する中心を本仏に置くのは当然のことであり、寿量品の主旨であります。「我れは滅せず」「我れは汝を離れず」と仰せられる所に、我たち苦しみに惑う者の安心があるのであります。従来より日蓮門下の中には、中古天台の思想を摂取して、日蓮聖人の信行第一である宗旨に「宇宙の実相」であるとか「万法即妙法」であるとか、観念観法の如き教義を中心とし「妙法の五字」を釈尊を傍らに置いて有り難がっている思想が蔓延としておりますが、そのようなものは日蓮聖人の本懐とするところではありません。日蓮聖人の宗旨は、あくまでも絶対なる本仏・釈尊の智慧と慈悲に私たちが感応道交して、法悦を以て人生を全うすることにあります。
宗旨 その2
「要を以て之を言はば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於いて宣示顕説す。是の故に汝等如来の滅後に於いて、応当に一心に受持し、読誦し、解説し、書写して、説の如く修行すべし。」
法華経神力品の「四句の要法」です。天台大師は、この法華経の肝要を「妙法蓮華経」の五字において解釈を加えられました。法華経に説かれたる要法とは、即ち宇宙に遍満する単に自然なる法則ではなく、如来が絶対的な悟りを以て統率している「所有の法」であり、如来の用(はたらき)である「自在の神力」であり、如来の「秘蔵の蔵」即ち大切な事柄であり、如来の「甚深の事」即ち最も深しとされる事柄であります。
「如来の一切の秘要の蔵」とは、単に釈尊の説かれた「因果応報」「縁起」の理を言うのみではなく、仏性を以て「因」とし、仏性の顕発された絶対の仏を「果」という「本因本果の法門」であります。哲学的な詳しくは省略しますが、所謂法華経の二乗作仏の仏性論と久遠実成の本仏観によって説かれているところのものであります。「如来の一切の甚深の事」とは、諸法の実相を指し、一念に三千を具するが如く、一切の諸法は方便品に説かれたる統一的万有相関の真理を指すものであります。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」
「仏 大慈悲を起こして、妙法五字の袋の中に、此の珠をつつみて末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。」
日蓮聖人の「観心本尊抄」の一節です。妙法蓮華経の五字の内容は、すべて「如来の一切の〜」と冠せられるものです。従って、仏勅によって妙法の五字を受持をすると言うことは、真言のように妙法の五字が何か神秘的な力を発揮するのではなく、念仏のように唱えれば救ってやると言うものではなく、釈尊を忘れた中古天台の影響を受けて成仏の法だ云々と言うものではなく、本仏・釈尊が「如来の一切の所有の法」を以て、常に我等を教化されているという法華経寿量品の意識観念、即ち信念を持つということが最も大事なのであります。
宗旨 その3
「その時に仏 諸の菩薩摩訶薩に告げたまわく、止みね善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いず。所以は何ん、我が娑婆世界に自ずから六萬河恒沙等の菩薩摩訶薩あり。」「是の菩薩衆の中に四たりの導師あり、一を上行と名け、二を無辺行と名け、三を淨行と名け、四を安立行と名く、是の四菩薩は其の衆中に於いて、最もこれ上首唱導の師なり。」
法華経涌出品の一節です。釈尊は、他の世界より来る菩薩が法華経を護持することを請願することを「止みね」と斥けました。観念的に存在する他世界の菩薩に、護法を任せるのではなく、我が娑婆世界即ち私たちが存在するこの世界に、実は六万大河の砂の数程の菩薩がおり、その者達に委ねると言うことです。この菩薩達は、大地を割いて釈尊より召し出されるので「地涌の菩薩」と言われます。つまり、この現実の世界に今いる私たち自身の本来、即ち自覚を促すものなのであります。仏教というのは、そもそも我々を超越した何かにすがるものではなく、私たち自身が仏弟子の自覚を得て、そして実践し目的を達成することが大事なのです。
釈尊の久遠の弟子としての自らの本地(本来の境地)を自覚し、釈尊の永遠なる教導を説く法華経を「南無妙法蓮華経」と護持することを唱え、仏法の混乱と衰退の末法の時に至って、迫害に遭いながらも唯一人導師として実践を行ったのは、日蓮聖人より他にありません。ここに、日蓮聖人の上行菩薩としての自覚が証されるのであります。
仏教徒の根本戒は、仏・法・僧の三宝に帰依することです。法華経の寿量品によって本仏・釈尊を、法華経・神力品によって結要付属の妙法の五字を、法華経・涌出品によって本化上行・日蓮が明かされました。これを、法華経信者の帰依すべき三宝とします。
宗旨 その4
「其の本尊の為體は、本地の娑婆の上に宝塔 空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右には釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士には上行等の四菩薩なり〜末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」
観心本尊抄の一節です。観心本尊抄は、日蓮聖人が曼陀羅本尊を現されるに先だって著述された御書です。曼陀羅の中央に南無妙法蓮華経とあるから、釈尊よりも大事ではないかとか、釈尊よりも偉い南無妙法蓮華経如来だとか、恰も素人の如きことを主張する方々が未だに沢山おります。これは、釈尊の言葉を以て説かれている妙法を、妙法蓮華経の五字によって表象として顕わしたものです。妙法を言葉でもって顕わせば「音顕」と言い、文字を以て顕わせば「書顕」であります。
佐渡に配流されている時でも、日蓮聖人は釈尊の立像を安置し題目を唱えられ、最後の最後まで釈尊を大事にされていたこと、また日蓮聖人滅度の当時に建てられた池上本門寺や中山法華経寺、その他有数の寺でも、本尊は一尊四士(釈尊と上行等の四菩薩)であって題目は唱え言葉であったことから明確なことであります。また、本化の上行菩薩等を脇士にするのは、釈尊が久遠実成の如来である事実を象徴するものです。即ち絶対の仏身を現し、本仏を顕本するためであります。
よくよく注意せねばならないのは、形式に拘って御本尊を書いたり造ったりはするけれども、実在の本仏を忘れて、御本尊の仏像や曼陀羅を拝むようならば、それはキリスト教やイスラム教から劣等なる偶像崇拝と非難される所の宗教に陥るものとなることです。本来は、曼陀羅はなくとも仏像はなくとも、まずは「勧請し奉る」と、活ける実在の仏に「どうか此処にお出まし下さって御照覧を願いたい」する意識が最も大切なのであります。しかしながら、実際には形式的なものも何も全くなければ、我々凡夫の感情はなかなか動きませんから、対象としての御本尊が必要となるのであります。
宗旨 その5
「諸宗は本尊にまどえり、倶舎、成実、律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の太子迷惑して我身は民の子とおもうがごとし。華厳宗、真言宗、三論宗、法相宗等の四宗は大乗の宗なり。法相三論は勝応身に似たる仏を本尊とす、天王の太子我が父は侍とおもうがごとし。華厳宗、真言宗は釈尊を下げて廬舎那大日を本尊と定む、天子たる父を下げて種性もなき者法王のごとくなるにつけり。浄土宗は釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とおもいて教主をすてたり。禅宗は下賤の者一分の徳ありて母をさぐるがごとし、仏をさげ経を下す。此れ皆本尊に迷へり、例せば三皇已前には父をしらず人皆禽獣に同ぜしがごとし。寿量品を知らざる諸宗の学者は畜に同じ、不知恩の者なり。」
開目抄の一節です。およそ仏教を信じると言いながら、仏教の教主である釈尊を本尊とせず、釈尊を侮蔑して、或いは別の架空の仏を本尊とすることは、どう道義的に見ても許されるようなことではありません。これが日蓮聖人在世の各宗派の主張であり、現代においても基本的には全く変わらぬ他宗の教義です。日蓮聖人の他宗批判は酷いのではなく当然のことであり、「汝等はみな吾が子なり」と仰られる釈尊を捨てて教義を立てる他宗の方が、余程道徳上の罪悪を犯していると言えるでありましょう。「日蓮は他宗を酷く罵った」等と言うのは、世界宗教である仏教の常識からすれば、全くのお門違いである俗論と言えましょう。また釈尊を本尊としても、法華経の寿量品に顕本される本仏としての絶対的な意識をせず、単なる悟りを得て衆生に教えを説いた人間、哲学者や聖人と思うことも間違いであります。哲学・心理学の方面よりしても、本仏実在の観念を持たずしては仏智を得ることなどは出来ず、困難多き自らの人生に立ち向かうことなど出来ず、理想の社会の実現などに活動することは出来ず、自己の世俗的な利益を願う劣等な宗教となってしまうのであります。
宗旨 その6
「諸仏如来は或いは十劫・百劫・千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は既に五百塵点劫より已来、妙覚果萬の仏なり。大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我等が本師教主釈尊の所従等なり。天月の萬水に浮かぶ、是なり。」
「寿量品の一品二半は、始めより終りに至るまで、正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。」
「寿量品に云わく、『是好良薬、今留在此』等云々」「諸薬の中には南無妙法蓮華経が第一の良薬なり。」
「問うて云わく、如来滅後二千余年に、龍樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法とは何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。」
「法華取要抄」に宣言された三大秘法を見て参りましょう。本尊は、五百塵点劫(計り知れない過去)の当初より、此の娑婆世界に縁の厚くして、法・報・応の三方面を備えている釈尊であります。別に釈尊は応身で、阿弥陀は報身、大日は法身というような分裂的なものではなく、絶対の三身即一なる釈迦如来を本尊とします。此の絶対なる本仏をして、釈尊の分身である諸仏を含む一切衆生の師とし、智慧に於いても慈悲に於いても最高絶対の人格者であることを示さんとするものです。
戒壇とは即ち信仰を定め、今身より仏身に至るまで斯くの如き信仰を維持していくことを、本仏に対して誓いを立てる、持戒の為の道場です。寿量品の一品二半とは、虚空一会の儀式に於いて、本仏釈尊の久遠常住を顕本し、その絶えまぬ教導を明かし、「疑いを断ぜよ」と戒を授けたものであります。即ち虚空一会の儀式を顕わした曼陀羅本尊を拝して、「南無(帰命する)」と信証すべき場を釈尊滅後の戒壇とします。
妙法蓮華経の五字なるものが、如何なるものかは先の「観心本尊抄」でも述べたところです。如何に題目を唱えようとも、そこに本仏・釈尊の大慈悲と私たちの信念との間に感応道交するところなければ価値なきものとなります。私たちに意識信念なくとも、仏の方に慈悲無くとも、ただ題目が「斯く斯く、しかじか」で有り難いなどと学者如きの思想は、宗教が我が人生・或いは社会の理想の実現に発揮される上で、何等の意義を持たぬものであります。
宗旨 その7
「一切世間の天人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏 釈氏(釈迦族)の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に座して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂へり等云々、正しく此の疑ひを答へて云わく、然るに善男子我れ実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由陀劫なり等云々。華厳乃至大日経等は二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくせ給へり。此等の経経に二つの失あり。一には行布を存するが故になお未だ開権せずとて迹門の一念三千をかくせり。二には始成を言うが故にかって未だ発迹せずとて本門の久遠をかくせり。此等の大法は一代の綱骨一切経の心髄なり。」
「迹門の方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失を脱れたり。しかりといえども未だ発迹顕本せざればまことの一念三千も定まらず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし、根なし草の波の上に浮ぶるに似たり。本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打破って、本門の因果を説き顕わす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具百界千如一念三千なるべし。」
「本門十四品も涌出寿量の二品を除いては皆始成を存ぜり、雙林最後の大般涅槃経四十巻、其の外の法華前後の諸大乗経に一字一句もなく、法身の無始無終は説けども応身報身の顕本は説かれず。」
御遺文中重要な開目抄の一節です。まず、最初に悟りを得た「釈尊」を皆、生じては死ぬものである人間としか捉えないことに対して、釈尊自らが永遠不滅の存在であることを法華経において明かされたのだと述べられ、これは、他の経典では説かれぬ二乗作仏(一切衆生を仏となさしめる)と共に、法華経の心髄であると仰られています。
そして寿量品で説かれた発迹顕本・釈尊の久遠実成即ち「仏身観」がなければ、方便品で説かれた一念三千という「世界観(宇宙観)」を以て一切衆生が成仏するという二乗作仏も定まらないと云われております。ここが法華経の最も大事なところであります。先に釈尊が法華経の本門を説かれた様相を「虚空一会の儀式」と述べましたが、仏教に於いて「虚空」の意味するところは、因縁によって生滅変化する相対的な世界(私たちが通常感知している世界)に対して、永遠不滅の絶対的な世界を顕わすものであります。私たちが常々感知することの出来る相対的な一切の世界即ち「九界」と、感得しがたい唯一絶対的な世界即ち「仏界」の関係等は、生死を現じる釈尊が、実は不滅の存在であるという発迹顕本されたことを了解する或いは信じる「仏身観」なければ、到底到達不可能なことでもあるからです。そこに至らねば、私たち凡夫がこの現実の世界に崇高なる精神の発揮する云々等というのは、適わぬ夢物語ともなってしまうからであります。
そして、これを徹底するために「法身の無始無終は説けども応身報身の顕本は説かれず」と云われているのであります。理論的に「宇宙の大生命」などと云うのは、所謂法身常住論であります。釈尊の人格に於いて、釈尊の応身報身に於いて、絶対の威徳を発揮することを以て、法華経寿量品の顕本とするのであります。
宗旨 その8
「父 子供等の苦悩することを是の如くなるを見て、諸の経方に依りて好き薬草の色香美き味 皆悉く具足せるを求めて、つきふるい和合して子に与えて服せしむ。」
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたまふ」「一念三千を識らざる者には、仏 大悲を起こして妙法の五字の袋の内に此の珠をつつみて、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ。」
最初の一節は法華経寿量品のものであり、その後のものは、これを受けた日蓮聖人の「観心本尊抄」に述べられたものです。釈尊と、釈尊の与えられた妙法の五字と、末代幼稚なる私たちの関係が明確に教示されています。「日蓮本仏論」等と言う、日蓮の名によって本仏釈尊を侮蔑するような思想は、ここには微塵もないのであります。また、古来より妙法を与えられた釈尊を脇に置いて、五字のみを真理だの何だのと有り難がっている法本尊に偏った思想が日蓮門下に存在しますが、これも日蓮聖人の宗旨にはそぐわないものであります。あくまでも、妙法を与える本仏釈尊の慈悲に対する意識を明らかにしなければ、ここに感応道交など起こり得るはずもなく、宗教として成り立たないのであります。宗教として成り立たねば、仏教が人生・社会に活かされる哲学思想とは成り得ず、理想の精神文明などは築くことなど出来ないのであります。本仏釈尊によって、現在ならびに未来が保証を得て、何等の怖れる所なき信念に生きることこそ、日蓮聖人の宗旨であります。