「信行要道義」釈                  

土屋 信裕

「信行要道義の刊行について」と題し、日堂上人は「艱難に処して不屈不撓の気迫を発揮するは、日蓮教徒の伝統的精神に他ならない」と宣しておられる。しかしながら、今日の日蓮門下の僧侶は、果たしてこの精神を奮起させるために自ら臨み、そして社会の中で悪戦苦闘する人々のために有益となるよう、その教えを説いているであろうか。自らの所業を省みつつ、今一度「信行要道義」を拝読して、自己の指針とするところを鑑みる。

一、乗師曰く「もし聞教信解無くば、何を以てか思惟の本とせんや。」

思惟の本とは、様々な出来事に会して如何に物事を考えるか、その考える本体である。これを信によるとは、信とは根本とすべき精神を得ることである。例えば、その理由に関わらず、酷く貧しい人々を見て、汚らしいと思うか哀れと思うか、汚らしいと思うてこれを避けるか、哀れと思うて一時的に施しをして善しとするか、その潜在的な能力を引き出して改善させようと思うか、根本とすべき精神によってその違いは大きなものがある。根本とすべき精神が最高であるためには、その学ぶべき精神は、智慧に於いても慈悲に於いても完全なる絶対の人格者でなければならず、そしてその絶対の人格者は何時でも何処でも、我々が感応道交できるものでなければならない。そして、今一つ宗教の生命として大事なものとなるのは、永久不滅の精神を明らかにすることである。永久不滅の精神を説くことなくして、我々は憂悲苦悩より逃れることが出来ない。なぜならば、一切の憂悲苦悩は、煩悩より生じ、そして煩悩は生存への執着より起るからである。自らに内在する永久不滅の精神を知らずして、無常変易なる生存に執着するならば、智慧を得ることを妨げ、慈悲を起すことを妨げるのである。

二、乗師曰く「熟脱の機に約して信法を分かつと雖も、最初の発心は並びに是れ信に由る。如何に況や今時の人は運濁末に処し、根性微薄なり、鈍が中の最鈍なり、若し信行に非らずんば、何を以てか行と為さん。」

我等衆生は、真理を悟らぬが故に、即ち無明であるが故に、人生に於いても社会に於いても、迷惑混乱する。信法とは、信行と法行のことであり、法行とは世界を映し出している己心を観じて真理を悟らんとする行であって、利根の人の行であると天台大師も云われている(法華玄義)。末法、即ち仏教界衰退の今日に至ったならば、法行を以て自ら真理を悟って人々に説くべき機根を備えた行者は皆無に近い。ならば、真理を悟っている絶対の人格者の教化を得ることが肝要である。乗師は、宗祖の「信念随喜の二処は百界千如の宝篋なり」と引用しているが、百界千如の宝篋とは即ち宇宙の真理であり、その宇宙の真理は、絶対者即ち本仏の教化を信念随喜することによって得られる。

「荊谿(妙楽)云く、『一念信解とは、即これ本門立行の首なり』と云云。その中に現在の四信の初の一念信解と、滅後の五品の第一の初随喜と、この二処は一同に百界千如、一念三千の宝篋、十方三世の諸仏の出門なり」(四信五品抄、定1295)

三、乗師曰わく、「的(まさ)しくは要行を説く。故に経には『寿を聞いて信を生ず』と云ひ、記主特に本門行首と云へり。何となれば、本門の信観は功迹門の妙観に超へたり、況や権小の観行に於てをや。」

乗師は、法華文句記の「一念信解は本門立行の首なり。」は寿量品を受けて肝要を述べたものと正しく解釈し、上根上機が行う迹門に基づいた己心を観る行よりも、本門のその慈悲を世界に作用させている仏の智慧を信じる行が優れていることを説く。不軽品に「この経を聞くことを得て六根清浄なり」とあるが、生存に執着するが故に六根が迷惑するのであり、法華文句の「眼耳鼻舌身意凡そ所対有るは、悉く亦た是の如し。」、文句記の「寿を聞くに依って一切を通達す。凡そ所対あるは仏法に非ずと云う事なし」を引いて、本仏の寿量を聞くことによって、六根清浄となり、六根清浄なれば、目に見、耳で聞く等、すべてが仏の智慧を有した慈悲であることを感じ、迷惑なきが故に仏道をなすとする。

「爾前の円教より法華経は機を摂し、迹門より本門は機を尽すなり。『教弥実位弥下』の六字に心を留て案ずべし。」(四信五品抄、定1295)

*教(きょう)弥(み)実(じつ)位(い)弥下(みげ):優れた教えになる程、低き修行の位にある人を対象とする(摩訶止観)

四、乗師曰わく、「或いは遠縁ありて、信順するを名付けて下種と為す。違逆誹謗するは乃ち遠縁となる。茲に因るが故に後に順信を成ずるなり。」「末代濁悪世の時は的准して本門の信行下種の一益なり。」

遠縁への下種とは、過去世において法華経に宿縁を結んでいた者へ行われるものであり、この度、本仏の寿量を聞いて、本仏釈尊の実在とその永遠の衆生教化を信順するは順縁の者である。また、これを聞いて違逆誹謗する者とは、すなわち逆縁の者である。逆縁の者は、その謗法の失によって堕獄するものの、本仏の慈悲によって次第に遠縁となる。ここでも注意しなければならないのは、本宗の遠縁の者に対する下種とは、久遠本仏実在の教化救済を信じるか否やにあると言うことである。けっして、ただ単に題目を下種すれば良いのではないことを肝に銘じるべきである。そして、本仏釈尊の永遠の教化救済を信受せず逆縁の者には、釈尊が「末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」(観心本尊抄 定720)ところの妙法の五字であると不軽菩薩の如く繰り返し説き、毒鼓として悪口罵詈を起させしめ、慈悲を以てこれを遠縁となす。

「逆縁の為には但だ妙法蓮華経の五字に限る耳。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁也」(法華取要抄、定815)

五、乗師曰わく、「末世の行要必ず寿量を信じるを以て下種と為すや。」「下種と言ふは、果佛の妙智願を以て、之を愚凡の心田に下して、而して佛芽の生種となす。」

重ねて言うが「寿量」とは、法華経によって初めて顕わされた本仏の無始常住のことであり、我等が父である本仏釈尊が永遠の衆生教化を行っていると言うことである。機根の劣れる末世の我等は、宇宙の真理を観行によって悟達することを目指すのではなく、常に永遠不滅の釈尊の教化の下にあることに、絶対的な信心を起すことによって下種を得るのである。これを、本仏の方より見るならば、本仏がその智慧(智)と慈悲(願)を以て、我等凡夫の心田に仏種を下されることになる。即ち、本仏常住実在とその教化救済に対する我等の信行なくしては、下種は成立しない。

悦しきかなや、楽かなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。」(撰時抄、定1052)

六、乗師曰わく、「寿量を聞き已って果地門の功徳位に入る。」「我等宿幸あって忝なくも此の門流の法味を嘗めて、更に余食を須ひず。」

本仏の寿量、即ち本仏の常住とその教化が説かれる以前の迹化菩薩は、仏となる直前の等覚の位にあっても惑者である。寿量品に至って初めて本地の仏界が顕わされるのであり、本仏の常住とその永遠の教化を信じて釈尊の慈悲の精神中に住するならば、例え名字即の凡位にあっても果報としての悟りを所具する者となる。我等日什門流は、この正しき教えを受けてその他の教えを受け入れる必要はない。我等日什門流は、題目を以て釈尊の因行果徳の二法、即ち本仏釈尊の内証を受持せしめるのである。

「所詮は、迹化・他方の大菩薩等に、我が内証の寿量品を以て授与すべからず。末法の初は、謗法の国にして悪機なる故にこれを止め、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て、閻浮の衆生に授与せしめたもうなり。」(観心本尊抄、定715)

七、乗師曰わく、「寿量所顕の仏智は、真に是れ果極自受用の妙智にして、修顕得体の妙法なり。我等が一念之を信じるに、信念忽ちに果地の妙智の境界に至る。」

乗師は、法華文句記の「本地難思の境智を信解すと云ふと雖も、久遠所成の妙境は己に智と冥合して、更に分離するに非ず。故に此の境智は倶に是れ智なり。」を引用する。境と智は妙合しているのであって、本仏の妙境即ち本仏の寿量を信念して口唱することは、仏の妙智に至るということである。即ち、以信代慧である。ただし、本仏の寿量を信念するということは、我等の己心に本仏を観るのではなくして、寿量本仏の精神の中に自己を観る、即ち無始の仏界に我等が住することである。この無始の仏界が、我等の己心に備わっていることは言うまでもないが、ここに述べるのは迹門に説かれた人界所具の仏界に非ずして、本門に顕わされたところの仏界所具の人界、即ち本門の一念三千である。

「爾前迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕わす。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備て、真十界互具・百界千如・一念三千なるべし。」(開目抄、定552)

八、乗師曰わく、「一念之を信じるに、信念忽ち仏寿海に至りて永劫に失せず。寿海に至るとは、常住の仏寿と相符し、相冥するに、信念の体無常を離るるが故なり。」

本仏の寿量、即ち本仏釈尊の常住実在とその教化を信念するならば、己心に備わる仏界に我等名字即の者も住することとなる。仏の境地である仏界が常住なれば、この身心は無常なれども、信念によって住する我等弟子の精神もまた常住不滅のものである。ここに絶対の安心を得て、そして念々に本仏の智慧に薫じられて、やがては符合するものとなる。

「今 本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏すでに過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化以て同体なり。」(観心本尊抄、定712)

九、乗師曰わく、「只一念と雖も、至誠志念にして豪毛の疑なく、生々に此の行を失わざれと要期して、而して信受し奉行する、則ち是れ今時の志念堅固ならん。」

乗師の述べられる現在に求められる志念堅固とは、修行と称して日々の生活を制し、熱心に信唱を続けることではなく、苦楽を伴う信仰生活の中において生生世世、本仏釈尊の智慧と慈悲による教化救済を信じ、そこに感応道交を起して「南無妙法蓮華経」と僅かな一念と雖も雑念無く唱え続けていく受持にある。

「檀戒等の五度を制止して、一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分となすなり。これ則ちこの経の本意なり。」(四信五品抄、定1296)

十、乗師曰わく、「久遠如来に対して、自らの妄念を翻して、打成一片に知らず、測らず、この妙名を信唱すれば、彼の金色の如来身と成ると。」

以下の「太田殿女房御返事」の引用文は、即身成仏の義を尋ねられて、日蓮聖人がこれに答えたものである。ただ単に題目の口唱よって成仏するに非ず、また凡夫その身が本来は仏である等と錯誤することには非ず、本仏の寿量を「南無妙法蓮華経」の一念に信受する者のその心に変化が起こることによって成仏が出来るのである。

「即身成仏と申す法門は、諸大乗経並に大日経等の経文に分明に候ぞ。しからばいかで彼の経経の人々の即身成仏と申すは、二の増上慢に堕ちて、必ず無間地獄へ入り候なり。記の九に云く、「しかして二の上慢深浅無きにあらず。如というは、すなわち大無慙の人となる」等云云(定、1754)

「大論の一百に云く、「しかも法華経の阿羅漢の授決作仏乃至譬えば大薬師のよく毒をもって薬となすがごとし」等云云。この釈こそ即身成仏の道理はかゝれて候へ。」(定、1756)

「天台智者大師の文句の九に、寿量品の心を釈して云く、「仏三世において等しく三身有り、諸教の中において之を秘して伝えず」とかゝれて候。これこそ即身成仏の明文にては候へ」(定、1757)

諸宗の即身成仏とは、二種の増上慢に堕ちるものである。一つは、仏と衆生は平等一如であるという慢心を起して修行をしなくなることである。もう一つは、煩悩多き衆生がそのまま成仏すると聞いて善根を修しなくなることであるが、どちらも仏と衆生が一つであると思い込む恥知らずな人である。そして日蓮聖人は、法華経の即身成仏とは「毒を変じて薬となす」ことであり、その「毒を変じて薬となす」良薬とは、仏の三世常住による教化を信じることであり、寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経であると述べられている。

したがって乗師は、当家の信念口唱は日蓮聖人の教えを継承して中古天台に影響された本覚思想等を廃し、生仏而二、迷悟而二の差別門に立脚して、久遠常住の本仏釈尊に対して絶対的の信心を起すことにあると述べられている。「信行要道義」は、下種における末法の初心の行者に対する修行を説かれたものであるが、同時に一切の法華経の行者の肝心も、寿量品に説かれた本仏釈尊の三世における衆生教化救済を信行することにあると示す。

十一、乗師曰く、「或いは剛、或いは柔、時に契い、機に応じて、ただ法灯の久しく掲ぐることあり」(流通搜源記)

上記は、慶長・寛永の法難を鑑みて、不惜身命・折伏逆化の伝道的精神を継承した日経上人等を批判する門下の趨勢を背景とし、乗師が什門興隆のために述べられたものである。

ここに引用した日蓮聖人の「四信五品抄」並びに日乗上人の「信行要道義」は、末代法華行者を初信初品の名字即と定め、その信行の肝要を明確に示すものであるが、「信行要道義」は主には絶対的な信心の上の信仰的生活を基準とするものであって、本化菩薩の「法華経の行者」としての顕現に至ることまでは深く述べられていない。「四信五品抄」の主旨も末代法華行者の用心を説くものではあるが、その最後には、已今当において衆生教化をなす本仏釈尊の大怨敵が現われ、仏教が廃れ、そして国が亡びようとしていることを「情(こころ)あらん人、誰か傷差(いたま)ざらんや」痛切に嘆かれた日蓮聖人が、国家諫暁に至られたことが述べられている。しかしながら乗師も「信行要道義」において、「違逆誹謗するは乃ち遠縁となる」「我等愚凡の故に、頓大信力を起すことを得ざれども〜」「此れ乃ち根に強弱あり、障に軽重あり、故に不同なり」と述べられていることから、本来は下種がやがて「法華経の行者」へと至るべきであることを意識しつつ、敢えてここでは言及しなかったとも言える。

十二、本因本果の法門

本果妙

「我れ実に成仏してよりこのかた無量無辺百千万億那由陀劫なり」

本因妙

「我れ本、菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命、今なおいまだ尽きず。復上の数に倍せり」

日蓮聖人は、寿量品に説かれた本仏釈尊の本果妙に関して、「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏也」本因妙においては「我等が己心の菩薩等なり。地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の眷属なり」(観心本尊抄、定712)と述べられる。

本仏釈尊の三世における教化救済を信念受持することによって、次第に我等が己心の根底には仏界が顕わされ、そして我等凡夫を愛子とする久遠本仏の慈悲によって、遂には地涌菩薩が我等の己心に現出されるのである。これは即ち、本仏に絶対の信心を起す、題目の受持をする我等が心中において起きる事実である。そして更に、この己心の本化菩薩を社会に実際に現前とするためには、本仏釈尊の教化ならびに諸菩薩・諸天善神の加護に感応道交を起して信力を増長させ、本仏釈尊から頂いた使命を果たすべく、世間において「法華経の行者」として弘法を実践するか、或いは信念受持を以て社会の中において「法華経の行者」の如く活躍しなければならない。何れにしても、本化の菩薩として自覚を得るためには、現実の困難な世界の中に自己の身心を擲つ覚悟を以て臨まなければならなくなる。

神力品に云く「爾の時に、千世界微塵等の菩薩摩訶薩の地より涌出せる者、皆仏前において、一心に合掌して尊顔を瞻仰て仏に白して言さく。世尊、我等 仏の滅後に、世尊と分身所在の国土、滅度の処において、まさに広くこれを説くべし」等云云。(観心本尊抄、定717)

一念三千観法に二あり。一理、二事なり。天台・伝教等の御時には理也。今は事也。観念すでに勝る故、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門一念三千也。」(富木入道殿御返事、定1522)

故に、日蓮聖人は末法折伏の正義を掲げて、「法華経の行者」として不借身命の布教と、国家への諫暁を為されたのである。

涅槃経に云く「もし善比丘、法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し、挙処せずんば、まさに知るべし、この人は仏法の中の怨なり。もし能く駈遣し、呵責し、挙処せば、これ我が弟子、真の声聞なり」等云云。涅槃疏に云く「仏法を壊乱するは仏法の中の怨なり。慈なくして詐わり親しむはこれ彼が怨なり。能く糾治せん者はこれ護法の声聞、真の我が弟子なり。彼がために悪を除くは、即ちこれ彼が親なり。能く呵責する者はこれ我が弟子なり。駈遣せざらん者は、仏法の中の怨なり」等云云(開目抄、定607)

そして、日蓮聖人は在家には「法華経の行者」を供養する功徳を讃えるものの、信念堅固なる弟子達には「法華経の行者」としての自覚を強く促した。什祖を初めとする御先師の不借身命・折伏逆化の伝道精神の発揮は、当に此処に由来する。

「仏と提婆とは身と影とのごとし。生々にはなれず。聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし。法華経の行者あらば必三類の怨敵あるべし」(開目抄、定598)

「この時地涌の菩薩、始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。『因謗堕悪必因得益』とはこれなり。」(観心本尊抄、719)
「因謗堕悪必因得益」法華経を謗法する罪によって地獄に堕とされる者も、必ず縁が結ばれて後に利益を得る。

「仏の滅後において四味・三教等の邪執を捨て実大乗の法華経に帰せば、諸天善神ならびに地涌千界等の菩薩、法華の行者を守護せん。この人は守護の力を得て本門の本尊と妙法蓮華経の五字を以つて閻浮提に広宣流布せしめんか。」(顕仏未来記、定739)

「小失なくとも大難に度々値う人をこそ滅後の法華経の行者とはしり候わめ」(報恩抄、定1198)

「されば我弟子等、心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此度仏法を心みよ。」「法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか。」(撰時抄、定1059,1060)

*すべての御遺文の引用は教義の精束のため、真蹟及び真蹟曽存に依った。

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