信仰篇

信仰 その1

日蓮聖人の聖愚問答抄の一節です。「悦ばしいかな、生を五濁悪世に受くるといへども、一乗の真文を見聞すること事を得たり、熙連恒沙(きれんごうじゃ)の善根を致せる者 この経にあひ奉りて信を取ると見えたり。汝今 一念随喜の信を致す。函蓋(かんがい)相応・感応道交疑いなし。」

一乗の真文とは、一切皆成仏を説いた法華経の経説であります。この法華経に導かれ、そしてその信仰を得るべき人は、遙かなる過去世より善根を積んできた果報として、今ここに法華経を信じて随喜することが出来るのであります。この信あるによって、函(はこ)と蓋(ふた)は仏の教えと汝の信仰の如く、感と応とは汝の感激する心と仏の利益の如くあるのは疑いなしと云われています。

愚人 頭を低れ手を挙げて云わく「我れ今よりは一実の経王を受持し三界の独尊を本尊として、今身より仏身に至るまで此の信心 敢えて退転なけん。たとへ五逆の雲厚くとも提婆達多が成仏をつぎ、十悪の波あらくとも願わくば王子覆講の結縁に同じからん。」

法華経の信仰に目を醒ました愚人は、上記のように答えます。一実の経王とは、法華経のことであり、三界の独尊とは釈尊のことであります。「法」を尊重するのが大事と言って釈尊を二の次にしたり、「仏」を崇めるのが大事と言って法華経を忘れるが如きは、正しい法華の信仰ではありません。そして、我が身が仏となるまでは、けっしてこの信仰を破らずというのが上記の誓いの言葉であります。「五逆」とは仏教における大罪であります。この大罪を犯した提婆達多さえも、法華経では成仏を許されています。「十悪」とは仏教の教える悪行であります。法華経では、この悪行によって生死に流転しているものであっても、過去世に釈尊の法華経に縁を結ばれた者が、再び法華経に巡り合えることによって成仏が遂げ得ると説かれています。故に、たとえ自分が万一誤りを犯してきた場合に於いても、この信仰において退転することなく、必ずや成仏することを願わんとするものであります。

信仰 その2

聖愚問答抄一節の続きです。
聖人云わく「人の心は水の器にしたがふが如く、物の性は月の波に動くに似たり、故に汝 当座は信ずといふとも後日は必ず翻さん。魔来たり鬼来たるとも騒乱することなかれ。それ天魔は仏法をにくむ、外道は内道をきらふ、されば猪の金山を摺り、衆流海に入り、薪の火を盛んになし、風の求羅をますが如くせば、あに好事にあらずや。」

信仰の表白をされたことに対し、日蓮聖人は上のように云われます。人の心の、環境によって変わり易いことは、器に応じた水の形の如くであり、誘惑によって動揺を受け易いのは、波たつ上に月の映るが如くである。今は確固たる信念を得たようであるけれども、心の内から、或いは外からと、その信念が揺らぐこともあろう。しかしながら、悪魔が誘惑しようとも鬼が脅かそうともけっして、心を乱してはならぬ。天魔は、人を善に仕向け幸福にせんとする仏法を保たんとする者を襲い、仏教(内道)以外の宗教・思想は、その教えに反対してくるものである。特に、最も正しい法華経の信仰をする者に対しては、その信念を揺るがさんとして強く迫ってくるものである。その時に法華経の行者ならば、その苦難に打ち克ち、却って信心を強くせねばならぬ。金の山に自分の映る姿を見た猪が、牙を以てこれを摺っても、金の山は更に光を放つが如く、信仰の光を増さねばならぬ。大小様々な河川はやがて大海に入るが如く、一切の宗教思想が法華経の精神に収まるように最大の努力を以て臨まねばならぬ。火を着けられた薪が却って火を盛んにするが如く、風が吹けば却って殖える求羅の虫の如く、法華経の信仰を増していくことこそ、良き心掛けと決心せねばならぬ。

法華経の信仰は、目前の利益や幸福があれば信心し、苦難があれば棄てるというようなものではいけません。ただしそれは、あくまでも正しき教えを以て正しく生きるという正義、そして真理を求め、自己においても社会においても永遠の向上を理想とする高潔な精神に基づくものでなければならないものであります。

信仰 その3

「是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて我が滅度の後に於いて この経を受持すべし。是の人 仏道に於いて決定して疑い有ることなけん。」

法華経神力品の結文です。この法華経には、如来の一切の秘要の法・如来の一切の自在神力・如来の一切の秘要の蔵・如来の一切の甚深の事が、すべて説き顕わされていると説かれています。受持とは、信を以て受け、念を以て持(たも)ち、人生に臨むということであります。受持し信念を確立するならば、必ずや成仏すること疑いなし、智慧と慈悲を以て人格を完成させ、自分のみならず一切の社会の苦しみを除くこと、不滅の如来と等しくなること疑いなしと、釈尊自らが保証を与えられたのであります。この経文ほど我等の信仰に於いて頼もしいことはないのであります。我が人生を貫くに於いて、この法華経を受持する者に、釈尊の導きは必ずや有り、諸天善神の御加護は必ずや有り、そして成仏疑いなしとの信念あるならば、何もその他に特別な苦行に挑んだり、護摩を焚いて祈祷したり、大黒様や鬼子母神にすがって御利益を求めたりする必要は全くないのであります。受持の一行に於いて必ずや成仏をなす、受持の一行に於いて釈尊の弟子の自覚を得て我が人生に臨む、日蓮聖人の説かれた受持成仏の適文であります。

信仰 その4

「もし是の法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり。当に知るべし、是の人は仏、善哉と讃む。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏の手をもって、其の頭を摩でらるることをえん。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏の衣に覆わるることをえん。」

法華経・普賢菩薩勧発品の一節です。法華経を信じ受持するいうことと、釈迦牟尼仏の慈悲ある導きを信じることとは同じことであります。法華経は、本仏・釈迦牟如来の実在と、その導きを信ぜよと教えてあるからであります。法華経を受持する者には、釈尊の精神が法華経に現れて、生ける釈迦牟尼仏にお逢いし、そして釈迦牟尼仏から直接教えを受けることと同じなのであります。仏を供養するとは、仏の為に尽くすと云うことであります。仏の為に尽くすとは、一切衆生を救わんとする釈迦牟尼仏の教えを守り、その助けとなることであります。そして、釈迦牟尼仏は「善き哉」と行者の頭を摩でて、その衣を以て受持者・行者を覆い守って下さるのであります。かかる宗教意識を確固と持たれて、日蓮聖人は度重なる迫害に会おうとも、本仏・釈尊に対する信仰を弘めることに感激を以て奮闘されたのであります。純粋なる日蓮主義にある者は、釈迦牟尼仏を傍らにおいて文字を、妙法の五字・七字を、真理だの何のと言って有り難がっているような思想に毒されてはなりません。それは、信仰の結局を誤らせる真言やバラモン系統の思想であります。

信仰 その5

「哀れなるかな、今日本国の萬人、日蓮並びに弟子檀那等が三類の強敵に責められて、大苦に値ふを見て悦んで笑ふとも、昨日は人の上今日は身の上なれば、日蓮並びに弟子檀那、共に霜露の命の日陰を待つばかりぞかし。只今仏果に叶ひて寂光の本土に居住して自受法楽せん時、汝等が阿鼻大城の底に沈みて大苦に値はん時、我等何計り無慚と思はんずらん。汝等何計りうらやましく思はんずらん。」

「如説修行抄」の一節です。三類の強敵とは、法華経勧持品に説かれた自惚れ高く、誤った信仰をを正しい信仰と思い込み、正法を弘める人師を罵詈悪口する在家の人、邪智に長けて心が曲がっており、正法を弘める人を軽蔑し危害を加えようとする僧侶、そして内心は世俗のことに執着しながら聖者の如く装い、国政に携わる人々と懇親して、正法を弘める法師に迫害を加えたりする者を言います。法華経の行者ならば、正法を弘めることに奮闘して、これらの三類の強敵の迫害を受ける覚悟を持たねばならないのであります。しかるに、そららの法難に遭うことを見て「金にもならぬ余計なことをして馬鹿な奴だ」と嘲り笑うというような哀れな者達がおります。それは今日、日蓮門下を名乗る者達にさえ多々おるのであります。

昨日は人の上今日は身の上なれば、法華経のために法難に遭って苦しむのを笑うようであるけれども、人生の寿命など朝日に消える霜露の如しであって、法華経の行者が果報を得て寂光の浄土にある時には、それら三類の強敵と共に謗法の人達は命終われば阿鼻地獄の苦しみを受けなければならないのである。それは、まことに気の毒なことである。また、謗法の者達は如何に我等をうらやましく思うことであろうかと、日蓮聖人は悲しんで云われております。

仏道修行の上から考えれば、人生の一期などは程なく過ぎ去ってしまう短いものであります。ならば、志を懐いて理想の為に闘うと決めたならば、如何なる強敵が迫害を重ねてきても、けっして退転してはならぬのであります。あらゆる世俗の人生にあっても、法華経の行者として信念を持って生きるのならば、釈尊並びに十方の諸仏は法華経を説かれた時の約束通りに、寂光の本土即ち実在の世界へと、直ぐにお迎え下されるのであります。

信仰 その6

「今此の三界は皆 是れ我が有なり、その中の衆生は悉く吾が子なり、而も今 此の処は諸の患難多し、唯我れ一人能く救護を為す。」

法華経・譬喩品の一節です。此の一節は日蓮門下において有名な主・師・親三徳有縁の文と云い、私たち衆生の帰依すべき絶対の仏が、釈迦牟尼仏であることを説かれたものです。三界とは、欲界・色界・無色界を指しますが、「此の三界は皆是れ我が有」とは即ち天地宇宙一切は、釈迦牟尼仏の悟られた宇宙の真理に適うものであり、そしてその真理を悟られた釈迦牟尼仏によって、一切は統率し導かれんとしていること、「主」としての徳を説かれたものです。西洋の宗教のように、宇宙を創造し支配するものが神であるとか、宇宙を支配する真理そのものが神であるとか言う意味とは違います。

「衆生は悉く吾が子なり」とは、神によって生まれたとか、生かされていると言う意味ではありません。一切の人々は、釈尊と同じ仏性を持つ人々であり、菩薩の行に歩んで遂には仏になるものでありながら、煩悩に迷い、そして精神に於いて苦しんでいるものであります。親が子供を慈愛を以て導き育て、子供は親の慈愛を渇仰して救われるように、迷える一切衆生とそれを憐れんで導かんとする釈尊の結びつきは、その様な意味で父と子の関係であり、ここに釈尊の「親」としての徳を説かれるものです。そして「唯我れ一人能(よ)く救護を為す。」とは、ただ慈愛のみで救うのではなく、釈尊が模範を示し智慧を授けて、そして衆生自らが如何なる行為を以て改善すべきであるかを導くところに「師」としての徳を説くのであります。

そして日蓮聖人は、釈尊の「主徳」を報身如来、「師徳」を応身如来、「親徳」を法身如来とし、法華経によってそれまでの他宗の学説である法身は無始無終、報身は有始無終、応身は有始有終の考えを斥け、三身即一の釈尊常住を説いています。

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