仏教って、すごいぞ!
仏教の大事な法門
「無量義経に華厳経の唯心法界、方等般若経の海印三昧・混同無二等の大法をかきあげて」(開目抄)
三界唯一心と言って、この現象世界は自己の心の映し出されたものであり、海印三昧と言って、大海がすべてのものを映し出すように、仏智は一切の法を有りの儘に心に映し出す。そして、諸法は空、無自性であって、一切のものはそれ自体で存在するものはなく、すべては多様な縁起の下に成り立つものである。いきなり難しい話で始まりましたが、法華経の開経とされる無量義経には、大乗の重要な法門が纏めて説かれ、そしてこれは法華経の中でも繰り返し述べられると共に、新たに最も大事な法門、十界互具に基づく二乗作仏と釈尊の久遠実成が明らかにされていきます。
私達は、存在するすべての物に名前を付けて、存在するすべての物を、自分の心に応じて、綺麗だとか汚いとか、好きだとか嫌いだとか形容します。即ち、私達が見る世界は、私達の心と何ら変わりは無い。この世界は、自分の心そのものであって、それは見る人それぞれの心の境遇に応じた世界である訳ですね。貴方の心と、貴方の見る世界が同じであるならば、貴方の世界を見る心を変えれば、世界は違って見えて来ます。貴方の心と、貴方の見る世界が同じであるならば、貴方の心を変えれば、世界が変わってきます。即ち、もし自分の心を自由自在に変えることが出来るならば、貴方は自分の身の回りの世界を自由自在に変えることが出来る訳です。ところが、自分の心と言いながら、一向に自分の思う通りにはならないのが、自分の心です。そこで、お釈迦様は自らの心を統御することを説く、心を自由自在にする方法を説かれる訳です。
修行とは、我が人生という映画を作ること
自分の心を自在に出来るようになると、自分の人生を思うように変えていくことが出来る、理想に向かって、使命感を持って、思うような人生を創り上げていくことが出来る訳ですね。勿論、因果を説く、道理を説く仏教ですから、行ったことによってしか結果は出ませんが、行ったことは必ず何時かは成果となって返ってきます。そういうことを理解しながら、自分で自分自身の映画を作る訳です。自分で脚本を書いて、自分で主役を演じて、自分で監督をして、感動的な人生の映画を作る。ただ、人より美味い物を食って、楽をして、だらだら生きる、自分だけ楽しけりゃいい、そんな退屈な映画を見せられたら、誰だってウンザリします。繰り返し生まれ変わるからといって、毎回そんな駄作を作っていたら少しも修行にはなりません。苦しい時はとことん苦しい、もがく時はとことんもがく、根性の悪い輩はこれでもかと攻撃して来る、中途半端じゃ面白くありません。それでも歯を食いしばって頑張る、目標に向かって踏ん張る、打ちのめされること度々なれど、人に尽くし人に助けられて、何時でもどん底から這い上がって歓喜の時を得る。そして、ああ今回の人生は面白かった、色々あったけど実に感動的だったねぇと、幕を閉じる訳です。苦難も悪人も、感動的な映画を作る為に、皆自分で脚本に書き入れたことですから、心底心配する必要はありません。勿論、感動のエンディングも自分で用意していますから、何も心配する必要はありません。どの道、人は生老病死、憂悲苦悩から逃れることは出来ません。だから、どんどん盛り込んであって良いのです。今からでも遅すぎることはありません。そして、来世も感動的な生き方が出来るように今から準備しておくことが大事なのです。
智慧を得るということ
心に自在を得ていなければ、人生はなかなか自分の描いたシナリオ通りには行きません。自分の中に存在する魔というものは、いつも間違いを起こさせ、苦しみを増さそうと耳元で囁いているからです。もし、理想の人生を送りたかったらならば、正しい信仰、確固たる信念が必要です。心の中、そしてこの世界には魔が居ると同時に、この世に実際に現れて教えを説かれたお釈迦様、そのお釈迦様の本体も、実は私達皆の心の中に存在して、そして大いなる慈悲を持って智慧を授けて下さっているからです。私達は自分の都合によって、歪んだ眼で世界を捉えようとしますが、お釈迦様は、有りの儘に真実を映し出し、そして真理を応用したる智慧によって、私達を最善の道へと導かれています。そこで、お釈迦様の導きを得たかったならば、お釈迦様ならば如何に考えるだろうか、お釈迦様なら、どうしろと言われるだろうかと、真摯に自問自答することが大切になる訳です。ここで注意しなければならないことは、正しい信仰を得ていないと、天魔がお釈迦様に化けて、お釈迦様の振りをして嘘を教えようとすることです。それに惑わされないようにするためには、事前にお釈迦様の優れた人格、その類い希な智慧と慈悲、そしてどのような教えを説かれるのかということが、ある程度しっかりと心の中に定まっていなければなりません。
釈迦如来って?
そもそもお釈迦様って、何でしょう。キリスト教なんかでいう所の神みたいな、宇宙を支配する超人的な存在なのでしょうか。いいえ、お釈迦様の本体は私達の心の中に存在します。ここが他の宗教と仏教が大きく異なる所です。仏教は、心を中心として教えを説きます。仏教では心と世界は何ら違わない、世界は私達の心がそのままに映し出されたものであることを覚ろうとしますから、心の根底に居らっしゃるお釈迦様は、同時にこの世界にも客観的に存在すると観ます。そして、この世界にお釈迦様が実在するという信仰を以て、その導きを得ようとするのです。逆に言えば、この世界に確かに実在するという宗教心が無ければ、お釈迦様の導きは得られない訳です。勿論、私達の心の中に存在するのは、お釈迦様の精神だけではありません。それを分かり易くするために、仏教では十界として、私達の心には例えれば餓鬼・畜生・地獄の精神界、天・人間・阿修羅の精神界、仏道を歩む声聞・縁覚・菩薩の九つの精神界と、そして悟り得ている精神の仏界が同時にあることを説きます。この悟り得ている精神である仏界が、お釈迦様であると考えて良いでしょう。これは、自分の心の中だけの話ではありません。世間を見渡せば、実際に餓鬼・畜生・地獄の精神世界に生きているような人達を沢山見ることができます。歴史上に悟りを開かれた釈迦牟尼仏は、この心に存在する仏界を自らの全身全霊に顕されて、そして迷える人々を救うために教えを説かれた方ですから、歴史上の釈迦牟尼仏と私達の心の中に存在するお釈迦様には違いはありません。ですから、架空の仏様では無く、実在の釈迦牟尼仏を通して、私達の精神に実在するお釈迦様の人格を知り、そしてその大いなる智慧と慈悲に触れることが大切です。信仰を持ち、仏様という絶対者を心の中に意識すれば、人は悪いことは捨てて善いことをするようになる、怠け心を捨てて努力するようになる、怒りや妬みを捨てて感謝するようになる、我欲を捨てて社会のために尽くすようになる、諸天善紳の御加護を得て幸福となるために必要なことすべてが身に備わることになります。
真理
この私達の心に実在するお釈迦様、そして世界に客観的に実在すると信仰するお釈迦様には、真理と智慧と慈悲の三つの大きな特色があります。仏教では、真理を体とする仏を法身、智慧を体とする仏を報身、慈悲を体とする仏を応身というのですけれども、お釈迦様はその三つの性質を兼ね備えている訳です。それでは、真理を体とする仏様とは何でしょう。真理とはこの宇宙を統べている法のことです。この世界、宇宙全体には様々な現象が起きていますけれども、その背景には実はこれらを統べて調和統一しようとしている法則が働いています。一見無秩序のように起きている現象の世界ですが、それはすべて因縁果報によるものであり、そしてその奥底には必ず真理の働きがあります。そして私達の心は、この世界を映し出している所謂鏡のようなものであって、しかもそこに映し出されているのは現実に起きている現象、因縁果報だけではない、容易に意識することは出来ないけれども、その背景にある真理というものも確かに映し出されている訳です。宇宙には法という真理があり、その法は私達の心の底にも常に映し出されている、私達は容易にその真理に達することは出来ないけれども、私達の精神は真理を内在するものとなっているのです。その真理によって、私達の心や身体も機能している、宇宙全体と同じように様々なことが起きている心と身体ですけれども、そこにはそれを調和統一させようとする真理も働いている訳です。そうであるのに、私達は現実に起きている現象を自分の都合によって曲げて見る、正しく因果応報というものを見ないばかりか、そこに働く真理の働き、法を悟ろうとする人も希であるのです。
智慧
次に智慧を体とする仏様です。少し難しい言葉で述べると、仏教の智慧とは、事とされる相対的差別相の現象と、理とされる絶対平等の真理とを明らかに見極める能力のことです。この智慧は、体験的直観によって発揮されると思ってよいでしょう。今起きている現象が一体どういうことであるのか、そこにはどんな働きが今後起こり、どのように落ち着いていくべきであるのか、目前の出来事や直後の結果に囚われずに正しく見極める能力です。実は、この直感的な判断に必要となる過去の膨大なデーター、計り知れない程の因縁果報の経験を私達は心の中に内在しているのです。例えとして、科学的な方面から考えてみましょう。例えば、現在の人類ホモサピエンスが東エチオピアから世界中に広がってからでも約6000年、現在のホモサピエンスになってから約25万年、それ以前の所謂ヒトからでは200万年、今居る私という存在の生命は、遺伝子的に言えば一度も絶えたことがない、一度でも途中で絶えていたとしたら、今ここに存在していない訳です。最近の科学では、遺伝子に残されたデーター分析することによって、世界中のどの地域を通って東エチオピアから現在に生まれるに至ったのかが分かるそうですから、解明されることのない膨大な遺伝子のデーターには、過去の計り知れないほどの経験、こうしたら、ああなった、その後には、こうなったという過去世が刻まれているのかも知れません。成功したことや失敗したこと、偶然と思えることもあるかも知れません。また、識のデーターですから、自らが体験していなくとも、他の人の為した事を見たり聞いたりして強く影響を受ければ、それもまた蓄積される訳です。その膨大な経験のデーターと、そしてこの現象世界に働く真理というものを照らし合わせることが出来たなら、一体私達はどういう能力を得る事が出来るでしょうか? そうです、針の穴を通すように、如何なる時にでも最善の判断が出来る、直感的に最善の選択が出来るようになるのです。
慈悲
理屈の上では真理も智慧も内在している私達ですが、だからと言って「俺の心には真理もあれば智慧もある、俺は仏と本来同等だ」などと慢心しても、凡夫である私達がそれを自分の力で知ることは到底出来ません。仏教では、瞑想によって心の中を観る修行などをしますけれども、心を観察して、自己の力によって宇宙の真理とそれを応用せる仏の智慧に達することは、相当の修行を経た智者を以てしても容易な事ではないのです。まして、様々な煩悩に惑わされて、世間の柵(しがらみ)に囚われて、しかも自我を捨てきれない私達普通の人間が、自分の力で悟ることなど出来る筈がありません。そこで、そういうものに惑わされない完全な第三者、真理に於いても智慧に於いても完成し、そして慈悲を以て教えを説く絶対的な人格者が心の中に実在する必要があります。その人格者は既に人類史上に如来として現れた、印度の太子であった瞿曇悉達多(ゴータマ・シッダールタ)の身の上に釈迦牟尼仏として実際に現れた訳ですから、そのお釈迦様を渇仰という信仰心を以て心に現しめる、どうか姿を現して教えを説き、私達をお導き下さいと願うことが仏教で一番の大切な事となります。それが慈悲を体とする応身の仏様、私達の信仰の渇仰に応じて現れるところのお釈迦様です。お釈迦様を通して、私達は真理を応用したる智慧を聞くのです。如何に優れた哲学や心理学があったとしても、それを飽くまでも冷やかな理屈で考えていたのでは、如何に優れた潜在能力を自己に秘めていたとしても実用の仕様がありません。所詮は心なのですから、それを情操的に捉えることが出来なかったならば感動は起きない、そこに感動が起きて心が変わらなければ、人生も社会も変えることは出来ないのです。だからこそ、人類はそれを宗教として信仰する訳ですね。
お釈迦様に出会うには
仏教では、仏性という、一切の人々が仏になる可能性を有していると説きます。だからと言って、何だ、俺は仏と同じように真理も智慧を持っているのか、ならば俺は頭が良いから、自分でそれを利用出来るだろうなどと自惚れてはなりません。ただ必死に真言や念仏、題目のようなものを呪文のように唱えたからと言って、そういう能力が得られるはずもありません。そういう自我に囚われた心では、決して正しい道は切り開けません。そういう場合に囁いてくるのは、煩悩という名の魔ばかりです。心の底からお釈迦様は実在する、お釈迦様は常に慈悲を以て私を導いて下さっているはずであると信じ、お釈迦様なら如何に考えるであろうか、どのようにすべきと言われるであろうかと考える、自我を離れた謙虚なる心があって、初めて私達は道理に基づいた最善の方向に自ずと導かれて行くのです。それでは、お釈迦様を心に観念するだけでなくて、目の当たりにその姿を拝することが出来るのでしょうか。勿論、出来ます。これを仏教では見仏と言いますが、正しい信仰を以て修行が進めば誰でもが体験出来るものなのです。彼の有名な法華経に、お釈迦様が詳しく述べられている通りです。そんな馬鹿なことと思ってはなりません。皆さんは、よく夢を見ますよね。夢を見ている間は、実際に起きていることと何ら変わりなくそれを体験しているはずです。そして、その夢というのは、皆さんの心の中に存在する意識の因縁果報が無秩序な状態で、映像として現れているものです。ならば、もし修行を通して心を制御することが出来たならば、目を覚ましている状態でも、心の中に存在するものを目の前に現すことが可能となります。だからこそ仏教では、静かに坐り、目を半眼にして、瞑想によって心をコントロールするトレーニングを行っている訳です。
勿論、お釈迦様を心に思い浮かべることと、お釈迦様が目の当たりに現れることとは全く違います。お釈迦様が目の当たりに現れる時の存在感は、歓喜に身体が震えるほどの圧倒的なものです。そのお釈迦様が「私は常に此処にあって、汝を導いてきたのだぞ」と、その御手をもって頭を撫でた時、皆さんの人生には大転換が起こるのです。過去の様々なる出来事が走馬燈のように現れては、ドミノ倒しのように「嗚呼、そういう訳であったのか」とすべてが明らかになっていく、そして同じく未来がドミノ倒しのように開けて行く、見通すことが出来るのです。心の中にわだかまっていた一切の苦しみが消えて、未来に対する一切の不安が無くなる瞬間です。心の中に実在するお釈迦様が、心の外に客観的に実在することを体験する時、その時には一体何が起こっているでしょうか。そうです、遂に貴方の心と世界が一体となったのです。貴方の見ている世界が貴方のものになった、即ち貴方が思い通りに描くことが出来る世界になった、そのための仏様の智慧を何時でも求めることが出来るようになった、それを実現させるための精進の力と、そして何事にも揺るがない堅固で静かなる精神力を得ることが出来たのです。無論、人や社会に尽くせる力、進んで善いことをする力、困難にも耐え得る力を得た事は言うまでもありません。もう貴方は、これまでの貴方ではありません。お釈迦様の遠い過去からの弟子として生まれ変わった、そしてその恩に報いるために、お釈迦様の働きとなる時が来た、人々をお釈迦様の教えに導く時が来たのです。
誰でもが体験出来るといっても、お釈迦様を目の当たりに拝することは容易ではありません。それでは、一体どのような時に仏様はその姿を現わされるのでしょうか。法華経には「常に悲感を懐いて心遂に醒悟し」とあります。順調な歩みを得ていても、如何に努力をしていても、ある日突然に大きな壁に阻まれる、崖っぷちに立たされる、孤立無援に追い込まれるのが人生というものです。こんな道理はあるものかと、懸命に尽くしてきた人ほど、その時の悲感も並々ならぬものでしょう。しかし、その時こそが新たなる自己に覚醒する時なのです。自分は優秀だ、善人だなどと自惚れていては、けっして迎えることの出来ないチャンスです。今度ばかりは自分の力だけでは克服出来そうもない、自分の一体何が間違っていたというのか、この愚かなる自分には、どうしても仏の答えが要る、どうかお釈迦様と必死にその教えを求め、その教えに自らを照らし合わせ、自分の存在をも否定する程の深い懺悔に入る時、初めて自我が完全に墜ちて迷いから目が覚める、お釈迦様が慈悲を以て現れる精神の状態に至るのです。ここで大いに注意しなければならないことは、前にも述べたように、正しい信仰に基づき、正しい方法を以てしなければ、そこに現れるのは天魔であるかも知れない、またお釈迦様の姿をしていても、その実は天魔かも知れないことです。心が天魔に惑わされれば、自らの人生も社会も破壊する大変なことになります。だからこそ、お釈迦様はどのような真理を悟られたのか、どのような教えを以て人々を導かれたのか、そのような基本的なことを私達は学んでおく必要がある訳です。
輪廻
一般に仏教の思想と思われているものに、六道の輪廻があります。六道とは、天・修羅・人と餓鬼・畜生・地獄であって、前世の業(カルマ)即ち行為によって生まれる境界が決まるというものです。この因果応報の思想は、実はお釈迦様が教えを説かれる前からあったものです。しかしながら仏教では、畜生に生まれ変わるといっても、犬や猫に生まれ変わると言うのではありません。前世は、驢馬や豚であったという訳ではありません。お釈迦様が教えたことは、世間を見てそこに様々な境界の人が居ることをまず知りなさいということです。天人のように裕福な人も居れば、修羅のように争いに明け暮れる人、苦楽はあれども人として相応に生きている人、三悪道と言って、常に欲に飢えている餓鬼のような人もあれば、道徳など構わずして畜生のような生き方をしている人も居る、そして地獄のような責めを常に受けている人も居る訳です。そして一方に、身分の高い者は身分の高い者に、身分の低い者は身分の低い者に、金持ちは金持ちに、貧乏人は貧乏人に生まれ変わるのは決定しているとか、いいや人の与えられた境界は単なる運であって偶然であるというというような輪廻を否定した思想があれば、その誤りを正したのです。人として今ある境界は、今までの為してきた行いの結果による、それは今回オギャーと生まれてきたからの行為によるものばかりではなく、前世以前の過去より人として魂を受け継いできた、そこに蓄積された行為の結果でもある訳です。しかしながら、仏教は悪しき境界を因果応報だから諦めよと言うのではありません。そして、善い境界にある者に対しては、甘んじてはならぬと説きます。何故ならば、悪しき境界は何時でも変えることが出来る、善き境界も何時変わるか分からないものだからです。
さて、六道に流転輪廻する根本となっているものが、惑・業・苦の三道です。人は惑うが故に誤った業を為し、誤った業を為すが故に苦しみを得る。そして苦しむが故に、また惑うという悪循環を繰り返しています。そうして、どんどんと苦しみ多き人生に陥ってしまう訳です。その悪循環から解き放たれるために、まず仏様は「逆観」の教えを説かれます。この惑・業・苦の順を逆に観て行く、即ち惑わなければ正しい行為が為せる、正しい行為を為せば苦を得ずして楽を得る。そして、楽を得て苦しみなければ惑うことも無いのですから、悪循環を脱して人生を素晴らしいものへと好転させて行くことが出来る訳です。これを更に詳しく説いたものが、無明から始まり、行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有、生老死に至る十二因縁と言われるものです。無明によって惑・業・苦を繰り返し、その因果として生老死がある。ですから、無明を滅せれば、惑・業・苦の悪循環を起こすこと無く、生老死も滅すと説きます。これを灰身滅智と言って、小乗仏教では、もう本当にこの苦しみの世界には生まれて来ない、完全に消滅してしまうことを理想としていましたが、大乗仏教ではお釈迦様の真意はそういうことではない、生死を超えた生命とも言うべき人生を得て、そして仏となるまでは、人々を導くために何度も菩薩として繰り返し生まれて来るのだというように解釈しています。今ある人生を否定的に捉えるのではなく肯定的に捉えて、そして人生を、永遠の魂をより善きものに変えて行かなければならないからです。
十二因縁
無明とは、諸法の実相に無知であること。行とは、それ故に為す行為で、識とはその結果が蓄積される意識です。そして、この潜在意識が名色という心と身を得た時に、知覚の働きとして成立するのが、六入とされる眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官、その感覚器官が対象と接触するのを触、感受作用を受、そして起こる欲求が愛、それに執着することが取となります。この執着が次なる生の有となり、そこに生まれては老死の苦の他に病、愛するものと別れなければならない愛別離苦、求めて得られない求不得苦、憎むべきものと会わなければならない怨憎会苦、そして一切が無常であるが故に、身心を構成する色・受・想・行・識が得るところの五陰盛苦と、所謂四苦八苦の様々な苦しみを体験する訳です。そのような訳も分からずに生死を繰り返すのが、天・修羅・人・餓鬼・畜生・地獄の境界、そしてそのような輪廻を出離しているのが、四聖といわれる声聞・縁覚・菩薩・仏の境界です。法華経では、声聞・縁覚も無明を断って、悟りへの道である菩提を得るのであるから、菩薩とは別の教えがあるわけではない、菩提を得て仏の境界に至るものであると、声聞・縁覚・菩薩の三乗を統一して仏教を纏め上げます。法華経は菩薩の自覚に至らしめるものである、そして菩薩とは、自らの菩提を求めるだけではなく、苦しみ迷う者を救わなければなりませんから、今度は自ら進んで六道に、一切衆生を菩提に導く目的を持って、それが餓鬼・畜生・地獄へでも、敢えて身を変じて行き来する訳です。
三毒
六道に輪廻し、様々な苦しみに導く無明から生じる代表的な惑、所謂煩悩に、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒があります。飽くなき貪欲は餓鬼界へ、憎悪に基づく瞋恚は地獄界へ、道理を弁えぬ愚痴は畜生界へ、所謂三悪趣の境界に私達を誘います。この三毒は、すべて生存への執着心より生起するものです。財力であれ権勢であれ名誉であれ、人より多くを得れば生き延びることが出来る、敵対する者を打ちのめせば生き延びることが出来る、自分が生き延びるためには、他人や社会との調和など構ってはいられない、自分だけはという生存本能の煩悩によって、人は道を誤り三悪趣の境界へ、絶え無き苦しみの原因を作り出しています。そこで、お釈迦様は「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と説く訳です。人間も含め、あらゆる存在は無常である。これが、この世における生滅の法(ことわり)である。その生滅に囚われる心を滅し、覚悟を以て生死を超えるならば、そこに静かなる安らぎの境地、涅槃の楽を得るのだと。この偈は、お釈迦様の過去世の因縁、雪山童子として修行中の物語に説かれたもので、人の血肉を食らう鬼との約束により、この偈を完全に聞くことを得ると、雪山童子は後世の為に岩に書き残して、そして高い木よりその身を投じます。実はこの鬼は、真理を求めるために雪山童子に命を惜しまぬ覚悟があるかどうかを試す帝釈天の仮の姿であって、雪山童子が地面に叩き付けられる寸前に、元の姿に戻って優しくその身を受け止めたのは言うまでもありません。
四諦
私達は、仏の教えにより物事を恣意的に見ること無く、有りの儘に観察し、そこに正しい道理を見極めなければなりません。正しく道理を見極める力を養うことで、正しい選択をし、正しく努力をし、望むべき結果を得ることが出来る訳です。そこで、お釈迦様はまず因果の道理を教えるために、苦・集・滅・道という四諦を説かれます。苦諦とは、憂悲苦悩、即ち精神的な病を正しく見ることであって、これは医師に例えるならば診断に相当します。何の病であるかが診断できなければ症状を悪化させる、診断を誤れば薬の処方も誤る訳ですから、病を治すことは出来ません。そして、病を悪化させないためにも、病を繰り返さないためにも、その原因を知ることが集諦となります。そして病が完全に治って、健康な状態とは如何なるものであるかというのが滅諦、そこに至るにはどうしたらよいか、所謂治療方法となるのが道諦です。仏教とは道理ですから、実に科学的に物事を考えて行くものであって、まずは状況の認識、原因の分析、あるべき理想の確認、そして効果的方策の実践を取ります。したがって、その内に何とかなるさと運任せ、あるいは神頼みにするようなことや、呪術的祈祷によって奇跡を起こすようなことは、本来の仏教の考え方にはありません。達成すべき目標を掲げたら、そこに至る過程を逆算して、為すべき事を確実に行っていく、そして効果的に成果を上げる、その為の思考力と実行力を与えるのが仏教の目的です。
見思の惑
この四諦の道理に迷うことを見惑、そして分かっちゃ居るが出来ないことが思惑で、合わせて見思の惑と言い、この見思の惑を断じることにより私達は生死を超越することが出来るとされます。本能や感情に支配されず、物事を論理的に考えることが出来るような理智に長けた人ならば、余り道理に迷うこともありませんが、それでも人は様々な現象に惑わされて、あれこれと出来ない理由を探しては実行に移すことが出来ません。その自分の弱い心を打ち破るのに必要なものこそが、信仰が与える大いなる力なのです。絶対の人格者である本仏・お釈迦様が、常に我が身と共にあって、そして正しい道を貫くために叱咤激励して導いて下さっている、正義を以て奮闘するならば、必ずや諸天善神が御加護を保証して下さる(まあ、怠けていれば罰も与えますが)、そういう強い信念に基づくならば、人はどんな困難にも臆することなく実践の力を得ることが出来ます。確かに報われない努力もあるかも知れません。しかしながら、努力をしなければ報われることはないのです。そして直ちには報われなくとも、人生を長期的に見れば、努力したことは必ず何らかの形を以て、縁を巡って報われるのは間違いありません。その確固たる道理を疑わないためにも、信仰に基づく強い信念を持たなければなりません。何時までも親が面倒を見てくれる訳ではない、国が安楽な生活を保証してくれる訳ではない、誰かが常に助けてくれる訳ではありません。しかしながら、絶対的な人格者である仏は常に我を導かれている、諸天善神は必ず我を御加護されるはずである、そのような信仰に助けられて、自らは正義を打ち立てて、困難に打ち克って安穏の楽を得る、そしてその信仰の力と喜びを同じく迷える人々に分け与えなければならないのです。
解脱
四諦を以て人生を観れば、「諸行無常」なるが故に「人生は畢竟して苦である」と、お釈迦様は言われます。この世のありとしあらゆるものは、時々刻々と、刹那の間に移り変わり去りゆくものであって、人生もまた例外ではなく、何一つとして確実であることは無いからです。ところが多くの人が、この果無(はかな)く苦しい人生に安閑と楽観している、苦しい情けないとの自覚を得ず、悲観することもありません。苦の自覚なくしては、苦の原因である煩悩による惑を断って、穢れることもない、滅びることもない、悦びに溢れた自由自在の境地、涅槃の境地を得ることは出来ないにも拘わらず。その有様を、お釈迦様は次のような譬えを以て教えています。狂った象に突然襲われることになった旅人は、驚き恐れて懸命に逃げると、運良く空井戸を見つけて、これ幸いと藤蔓(ふじづる)を伝って中に身を隠すことを得ます。ほっと一息、ふと下を見ると井戸の底には、大きな毒蛇が口を開けて待ち構えている。そればかりではない、上を見ると今度は命綱である藤蔓を白と黒の二匹の鼠がかじり始めている。その絶体絶命の危機に、蜂の巣からぽたりぽたりと蜜が口の中に落ちてくる。その蜜の甘さに旅人は、身の置かれている窮地を忘れ、恐怖を忘れて酔い痴れていたという話です。
八正道
苦を自覚し、苦から脱却するために、道諦としてお釈迦様が説かれた実践徳目に、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の所謂八正道があります。道理を正しく見る、道理を正しく思惟する、その上で正しく語り、正しい行いを為し、正しい生活を送り、正しい努力を怠らず、正しく心に念じて、正しく心を統一して禅定を得る。ところが、人間は我見や偏見に囚われて、まず正しく見る、正しく思惟するということから難しい。実践することは更に難しいことであるのに、そもそも正しい、正しいとは簡単に言うけれども、何が正しいのか、どう考えるのが正しいのか判らない、自分に都合の良いこと、自分を正当化することを正しいと思うような有様です。そこで、仏教では般若心経に「色即是空、空即是色」と説かれるような、「空」を観じるトレーニングをします。この世に存在する一切のものは縁起によって変移して行く無常なものであって、それ自体で存在しているものもなければ、固定的な性質も無い、美しいものが何時までも美しいことは無く、永遠に繁栄するものもないのであって、それに執着することは出来ない。運命は決まっているものではなく、束縛されるものでもなく、切り開いて変えることが出来るものであり、良くも悪くも、すべては自分の行為に関わっていることを教えます。また、この世の一切のものは相対的に存在するのであって、明が無ければ暗は無い、長が無ければ短は無い、善が無ければ悪もありません。ですから、本来は人に長所も短所もありません。積極的な人を、ある者は生意気な奴だと言い、謙虚な人を消極的な奴だと言う。寛容な人を、ある者は好い加減な奴だと言い、きめ細やかな人を神経質な奴だと言う。信念のある人を、頑固な奴だと言うように、本来は同じ性質であるのに、人は自分の都合によって一方的に決めつけたり、その逆の見方もしたりします。そして自分自身もまた、長所として発揮出来る性格を、道理を誤って短所にしてしまっていることが多々ある訳です。
六波羅蜜
我見や偏見に囚われれば、物事を正しく見ることは出来ずに判断を誤ります。それでは自分を不幸にするばかりではなく、他の人の助けとなることも到底出来ません。それでは、何のためにこの世に生まれてきたのか、この世で何をしようとしているのか分からなくなります。そこで仏教では、自分の利益や満足を求めようとする我欲を制して、そして大義に尽くそうとする修行、利他に徹しようとする菩薩行・六波羅蜜が与えられます。積極的に社会に関わって行くことにより、自己のアイデンティティーを得る、それは環境や時間の変化に左右されることない永遠の魂の存在を証明することになるのです。煩悩を滅して身を滅して、そしてこの世から何も無くなってしまうのが仏教ではありません。厭世の思いを懐いて、別の世界に生まれ変わることを夢見るのが仏教ではありません。また、無我だ、無私だと自己の存在を否定して、薄暗いところに何時までも籠もっているのが仏教ではありません。そういうものは、あくまでも迷いを断って社会に挑むための準備段階です。生きている限り煩悩を消し去ることは出来ない、ならば煩悩を意欲という善に転じ、個性を武器として社会に打って出ていかなければなりません。菩薩行は、自己を犠牲にするのではない、自らの身命を捧げることによって囚われた自我を捨て去って、そこに輝かしく強い真の自己を顕しめることにあるのです。
戒
さて、仏教修行の基本について学んでみましょう。まずは、大きな所からは戒・定・慧の三学があります。仏教の根本を説くものとして、有名な七仏通解偈「諸悪莫作、衆善奉行、自淨其意、是諸仏教」、即ち「諸々の悪を作すこと莫かれ、衆(もろもろ)の善を行い、自ら其の意(こころ)を浄くする、是れ諸仏の教えなり」があります。我が家でも子供が小さな時から高校卒業まで、皆で食事の前には必ず合掌して「悪いことをせず、善いことをし、心浄らかに、仏様の教え、頂きます」とお祈りをしていましたが、善悪が希薄になりつつある今日の時代には、皆さんにも是非勧めたい事と思います。戒には、仏教徒ならば誰もが守らなければならない五戒、「不殺生戒」乱りに殺生を為すなかれ、「不偸盗戒」他の物を盗むなかれ、「不邪淫戒」邪な男女の交わりを為すかなれ、「不妄語戒」嘘偽りを言うなかれ、「不飲酒戒」飲酒に耽るなかれという、人間として守るべき根本の戒があります。そして、この五戒が開いて八戒、十戒、二百五十戒、あるいは五百戒ともなっていきます。善として積極的に見る時には、前の四戒に「不綺語」諂ったことを言わない、「不悪口」悪口を言わない、「不両舌」仲違いをさせる二枚舌を使わない、「不慳貪」貪り惜しむ気持ちを捨てなければならない、「不瞋恚」怒り憎しみを克服しなければならない、「不邪見」因果の道理に違った見解を持たないという有名な十善戒もあります。これらは皆、私達が共に生活する社会の秩序のため、人として守るべきものを教えたもので、人間として共通の、所謂世界宗教に共有されている教えと言えます。仏教に他と異なることがあるとすれば、それはただ人の罪を罰するというのではなく、如何なる者も悔い改めるならば、必ずや善に導くことが出来るという、大いなる慈悲を根本としていることかも知れません。
定
「戒」によって非を防ぎ悪を止めたならば、次に心を静めるのが「定」です。妄想邪念を制して、心の散乱を防がねばなりません。水面が波立っていれば、そこに月の影は美しく映らないように、心が清く澄み切った状態にならなければ、「慧」という悟りを得る修行に入れないからです。この三学が、大乗仏教の利他という積極的な菩薩行に置き換えられた時には、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜行となります。布施行には、教えを説く法施、物を施す財施、そして人の心を安心せしめる無畏施があり、持戒行は前述したように五戒・十戒等を持っていくこと、忍辱行とは苦難や辱めを耐え忍び打ち克っていくこと、精進行とは善なることには一生懸命に精を出すこと、禅定行とは精神を統一して散乱を静めること、そして智慧行とは仏陀の智慧を得る修行です。ここまで聞いて皆さんは、仏教の修行は大変だ、自分みたいな凡夫には戒律を守ることさえ到底無理だと思われたかも知れませんね。それでは、一般の人は益々仏教に縁が無くなってしまいます。心配は全く無用です。もし、仏教が善人のためにだけあり、理智に優れた者だけ覚れるものならば、それは宗教として意味はありません。賢い人間だけ、善人だけが救われるような宗教には価値が無いからです。例え落ちこぼれであっても、悪人であっても、お釈迦様に仕える身となって、そして仏の智慧を得ることが出来るのが本物の仏教です。そのためには、何はともあれ、一番に大事なのが信心となります。勿論、「鰯の頭も信心から」と何を信じても良いという訳ではありません。迷信やカルト宗教の言うことに従っていれば仏の智慧からは更に遠ざかりますし、それが広く知られた仏教のものであっても、仏教には状況に応じて、また一時的に導くために応用された方便の教えが沢山あるからです。ですから、仏教の中心に置いて私達が信心するには、道理の行き届いた、お釈迦様の教えの真実、お釈迦様自身の真実、お釈迦様の御心を説いたものが必要となるのです。
慧
信が非常に大事であること、信行は智慧行に代替することを「以信代慧」と言います。何故ならば、「信智一体」と言って、覚りという智慧が開ける時、精神の根源で心理的な大変革が起きる時の宗教的体験は、正しく信心すべきものと同じことが目の前に起きるからです。現象の世界に起きる様々な事の背景に神や魔などの存在を意識し、そして精神の中に起きていることを実際に目に見える形に具象化したもの、即ち宗教化したものが仏教と言っても良いでしょう。その仏教を哲学的に徹底して学び、内観を凝らして瞑想し、様々な菩薩行を実践して漸く得ることの出来るような宗教体験が、法華経などの経典を信じて数々の困難を克服することによって全く同じように得られるのです。その宗教的体験は、単に瞑想するのとは違って、身体が震える程に悦びに溢れた圧倒的なものですが、もしそこまで至らなくとも、信心が本当に堅固ならば同じような効果、即ち利益が人生に得られるはずです。お釈迦様が目の前に現れるというようなことを体験しなくとも、お釈迦様が常に教えを説かれていると堅固に信じているならば、布施・持戒・忍辱・精進・禅定という菩薩の実践行の五つを経て、漸く智慧が開けてくるものが信行によって得られる、信心が堅固ならば、菩薩の六波羅蜜行は自ずと実践していることになる、お釈迦様ならどう考え、どうしろと言われるだろうかと自問して困難に挑むことによって、心の中に実在する釈尊の導きを、そして諸天善神の加護を自然に受けることになるのです。勿論、感動的な宗教的体験でさえ、菩薩行を順に修行したからといって得られるものではありません。最初の信が確かなものでなければ、如何に修行を積んでも、そこに至ることは出来ないのです。
法華経
信心によって仏性を奮い起こし、そして菩薩行に入るに、法華経は最も優れた経典です。「仏性の顕動」と「菩薩行」、そして「作仏」という、仏教に於いて最も大事なことを実践させる為に、本仏釈尊の心に到達した菩薩達が成立させた経典と言っても良いでしょう。苦しみに煩悶する中から、何とか乱れる心を整えようと、素直にその教えに入って行くならば、必ず久遠釈尊の客観的実在を意識し、その慈悲に感激し、釈尊と私達が父子の関係であること、そして久遠の過去に釈尊から直接教化を受けた弟子であることを覚るに至ります。深層心理学的に言えば、私達の精神の根幹にあって真理を映し出し、偉大なる智慧と慈悲を有しているもの、即ち仏と我との関係、そして真の自己に気が付く訳です。
この久遠の弟子とは、法華経において釈尊より召し出されて、大地を裂いて出現する無量の菩薩のことですが、この菩薩達は、志高く、心に畏れる所なく、そして如何なる困難にも耐え忍び打ち克つ力を有しています。人間にとって真の幸福感とは、何事にも脅かされることがないという強い精神力によって初めて得られることを考えれば、この地涌の菩薩に、迷える我に存在する真の自己を重ね、その信仰心を堅固にして努力して行くことが非常に大切なことになります。苦しみ迷っていた自身の本当の姿は、心に畏れる所なく、如何なる困難にも打ち克つ力を持ち、常に偉大なる仏の教えを聞いて実践し、諸天善神の加護を受けていると信じて、そして菩薩の道を行ずることが大事です。仏教で言う所の智慧と信念は、迷いを断ち、正義を打ち立てるに優れた洞察力と大いなる勇気を与えるものですから、必ずや私達は困難な事態を打破し、そして目標を達成することが可能となるはずです。
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