仏教哲学(西洋哲学との比較)


ソクラテス

仏教哲学というのは、普遍的な真理(法)を説くものです。これは如何なる人生、如何なる社会を実現していけば善き結果をもたらすか、即ち正しさの根拠となるものであります。仏教では、この普遍的真理を悟った者を「仏陀」と言い、その悟った「仏の智慧」を授かろうとしています。この事を法華経においては、釈尊がこの世に出現した目的は、衆生の「開示悟入」即ち「仏知見を開かせ、示し、悟らせ、道に入らしめん」ためであると説いています。

これに対して「普遍的な真理」等はないと言うのを「相対主義」と言います。現代は、宗教の教育を疎かにしてしまった為、殆どがこれにやられて秩序を失いつつあります。「相対主義」では「人それぞれに正しさの基準は違う」「私は私、貴方は貴方」です。しかしながら、人間というものが社会というものとの関わりを持たなければ生きていけない以上、「私がどう考えようと、私がどう行動しようと勝手だ」では、様々な分野で矛盾を生じて衝突を起こし迷惑を掛け、解決の糸口を見つけることは出来ません。お互いが正しいと認識できる「客観的真理」を見出さねばなりません。また「私が正しいと考えること」が「客観的真理」と違えば、社会と切り離すことの出来ない人生は善き方向へは進むはずがありません。ここで言う「客観的真理」とは、その時の大多数の正しいと考えること、「多数決の原理」とは違います。

「客観的真理」を導き出すためには「理性」が必要です。釈尊より若干後に、ギリシャにはソクラテスと言う哲学者が世に出ましたが、彼は「理性重視」を以て西洋の哲学を基礎付けた偉人です。そして理性による「問答」によって、自分自身の思い込みや主観的な判断から、真の知識に至ると説いています。これを「帰納法」と言います。仏教が、理性あるものを「問答」として奨励し、理性なきものを「争論」として避けることと同じです。

ソクラテスもまた、「正しき知識」によって「正しき行動」はあると説きました。釈尊が、正しき見解を始めとする「八正道」や、「無明」によって生死の因縁である「煩悩」が生じることを説いたのと同じです。また、心を説く釈尊と同じように「汝自身を知れ」と、その魂・自己を深く洞察し、不善なる行為は「内なるもの」を破壊することだと言っています。この「内なるもの」とは、仏教では一切衆生に有る「仏性(仏になる潜在性)」と言っても良いでしょう。

ソクラテスは、如何に生くべきかを知る知識を目的とし、これによって道徳的行為も高められるとしました。そして、心の奥にある「神霊(ダイモニオン)」の声を聞いていたと言います。日蓮聖人もその重要な御遺文に於いて次のように仰られています。「是の如き仏陀(釈尊)をば、何を以て我等凡夫の己心に住せしめんか」(観心本尊抄)とは、当に釈尊の実在を覚り、私たちの心に住する釈尊の導きを聞かんがためであると言えましょう。

釈尊は現象世界の一切、物質的・感覚的な存在は、無常であり変移するものであると説き、その一方で常住不変なる涅槃の境地を説きました。また法華経は、娑婆即浄土と、苦しみに溢れていると見える現実世界が、実は釈尊の智慧と慈悲に包まれた浄土であることが説かれ、その理想の実現のための菩薩行が説かれています。


プラトン

ソクラテスの弟子にプラトンという哲学者がいますが、彼ももまた同じように、生滅を繰り返す現象世界に永遠の絶対的真実在があり、これによって現象世界に一定の秩序が保たれ、そしてその理想を実現するために活動があるのだと説いている一人です。この現象界を超えた真実在なる世界を、プラトンはイデアとしました。そしてこのイデア界とは、目に見えるような感覚的知覚の対象ではなく、理性的思考によって認識されるとします。そして、これに到達する理性的な方法を弁証法と言いますが、その一方でこれらの経験を通じて、イデアは超感性的な直接的な把握をされる、即ち知的直観によって想起されるべきものであることが説かれています。想起されるとは、人間の精神が遠い過去に経験していたイデアを思い出すと言うことであり、プラトンはこれを認識するところに人間の最高の悦びがあるのだとしました。

これは釈尊が、仏道を求める者が真摯に行学に励むならば、やがて仏界を顕わし、仏を拝することが出来ると説く法華経と同じ事でありましょう。仏界とは、理性的に把握される真実在の世界であり、実現されるべき理想世界であります。そして、プラトンが知的直観によって遠い過去を想起すると言ったことは、仏界を顕わし永遠なる過去から久遠実成の釈尊の化導にあった我が身を自覚することと同じであります。日蓮聖人が法華経寿量品の信心を堅固にし「一心に仏を見たてまつらんと欲して、南無妙法蓮華経と唱えるのだ」「霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見し奉らん」と弟子・信者に説いたのと変わらぬ思想であります。

プラトンの説くイデア界は、即ち人間の理想の世界であり、真実在の世界です。この真実在の世界を認識して理想を求めるからこそ、現実との矛盾に葛藤し、そして理想の世界を実現させようとの活動もあるのです。仏教で説く、彼岸に渡るということも、現実の世界から真実在の世界へ入るということです。

ところで、プラトンのイデア論は、イデア界と現実世界は別にある、現実世界はイデア界(実体)の模像とする二元論的世界観でした。一般的に宗教を信じる人、或いは自称宗教家の多くの人が、死んで往くべき別の世界「あの世」だとか「霊界」があると考えるも、この二元論的世界観と同じです。

しかしながら、法華経では「釈尊は常に私たちを離れて存在していない」「娑婆(現実世界)は即ち常寂光土(理想世界)である」と説かれ、日蓮聖人は「我が己心の仏界を顕わすなり」とも云われています。つまり、これらの世界は私たちに内在するものであり、私たちの精神と離れたものでもなく、この現実の世界の他にあるのでもないと云うことです。


アリストテレス


プラトンの弟子にアリストテレスがいますが、彼も同様にプラトンの二元論的世界観を批判して、イデアは内在しているものであると説きました。そして、すべてのものは、イデアに相当する「形相」と材料である「質量」との結合体であるとします。「形相」とは仏教で云う「心」に相当し、「質量」とは「色」に相当するものと言えましょう。法華経の統一的世界観においては、「一切のものは、色(事物ないし身体)と心はそれぞれに独立にして存在するものではなく、互いに関わり合って存在する」即ち「色心不二」と強調されるものです。

アリストテレスは、この「形相」こそ基本であり本質であるとし、「普遍的存在」「究極的存在」「根本的原理」を探求する第一哲学、即ち形而上学を打ち立てた哲学者です。そして、存在のあり方を「カテゴリー」という10の形式に分類しました。
@実体ABC関係D場所EF能動G受動H状態I所有態です。仏教もまた存在論について説いていますが、特に法華経ではこれを「諸法実相」と云い、「相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等」の「十如是」において知られると説いています。アリストテレスは、事物の生成・変化に四つの原因を挙げました。質料と形相、そして作用と目的です。アリストテレスがこの作用と目的に持ち出したのは「不動の動者」、もはや実現されるべき如何なる可能性もなく、最高度の現実性を持っているものであり、一切の運動の始源である者、即ち「神」でありました。仏教では、存在物を構成する根本元素を「五大(六大)」(地・水・火・風・空、識)とします。密教の空海はこれに法身・大日如来が相即相入して宇宙の万有が成立している、一切万有は仏の姿にあらざるはなしと説いていますが、即ち日本の密教もまた仏を「神」にしてしまったと宗教と言えるでしょう。

ところでアリストテレスは、すべてのものには目的があり、すべての行為は究極の目的を目指していると説きます。そして、人間には理性があり、理性の活動(徳)を完成することが最高の幸福であり、最高善であるとします。法華経で釈尊は、一切の衆生に仏性があり、一切の仏道における徳行は、すべて仏(人格の完成者)になるためであると説かれています。

アリストテレスは、理性を働かせた「観想」を通じて、そして最高の真理であり永遠である神の存在に触れるならば最高の幸福があると述べました。これは、法華経で釈尊が自らの常住不滅を明かし「一心に仏を拝したいと願うのならば、姿を現して法を説く」と仰られ、日蓮聖人も「題目」にこの想いを込めるように述べていることと同じでありましょう。

西洋の哲学者が考える「神」とは、宗教の説く宇宙創造の神ではなく、実は「仏」のことであり、日本では密教の影響によって「仏」がいつのまにやら「神」にされてしまったようです。
諸行無常、是生滅法」釈尊は、森羅万象の一切は変化・生滅を繰り返すものであると説きました。そして「生滅滅已、寂滅為楽」と永遠に変化・生滅も法(ことわり)のない涅槃を指し示します。この人間の求めるべき「永遠なるもの」への到達を、西洋の哲学者や神学者も臨みました。

新プラトン派の創始であり、神秘的汎神論的観念論者であるプロティノス(3世紀)は、「世界は、すべての存在を越え、すべての思考を越えた絶対的な聖なる「一者」即ち「神」に基づくものであって、「神」は世界が流出する永遠の源泉である。」と説いています。そして「まず宇宙理性が、ついで世界霊魂が、さらに身体としての個々の霊魂が生み出される。」とし、「精神力を展開して、この「神」に合一し、エクシタシス(忘我恍惚)を得るとします。これはバラモン教や、バラモン教の影響である密教・中古本覚思想、昨今では創価学会などが盗用している内容と似たものであります。


アウグスティヌス

新プラトン派の哲学をキリスト教の教義に統合したのがアウグスティヌス(4〜5世紀)です。彼も、幸せになるためには「永遠の真理」を認識すべきと説きました。プラトンは、イデアが真実在であり、この世界は仮象であると考えましたが、彼はこの世界にあるものも真であると説きました。

法華哲学では、実相は三千の諸法が実在することを認め、そして特に本仏・釈尊の実在を確かめ、仏と衆生の関係(十界互具)が宇宙法界の真実であると説いています。しかしながら、アウグスティヌスは、世界の一切のものは真理「神」によって計画的に創造されたもの(予定説)であり、そして救済も神の恩寵であるとしました。この神の恩寵は人間には計り知れないけれども、教会の秘蹟(儀式)が恩寵にあずからせるとし、中世の社会に教会を権威づけていきます。釈尊の教えを離れて、神々を霊力によって動かすという密教の祈祷によって、人々の信仰と権威を得た中世の仏教と考え方は似ていると言えるでしょう。

彼は「時間は心の中に存在し、神は時間の外にある。過去も未来もなく、すべては同時に存在するので、神は永遠である。」と述べています。法華経では、本仏釈尊の教導は、過去・現在・未来の三世わたる永遠なるものであると説かれています。

トマス

13世紀にトマス・アクィナスというスコラ哲学の大成者がありました。スコラ哲学というのは、キリスト教の教義をアリストテレスの哲学によって理性的に論証し、調和させようとしたものです。本来の釈尊の仏教が、理性的な哲学(思想)から展開していったのとは大きな違いですが、「理解するために信じる」或いは「信仰は理解を求める」という理性と信仰の調和に努めた彼の姿勢は、「仏」が「神」のようになってしまって、理性を切り離して盲信的な信仰を放置している日本の宗教界が是非とも考えねばならないことです。

トマスは「神」の存在証明を試みました。「すべてのものは運動する。動かし動かされるものがある。動かすものの究極的原因『第一動者』が存在しなければならない。」「諸物は生成消滅の途にある。存在することも存在しないことも可能である。存在するには、存在をあらしめるものがある。」「自然物は認識能力を持っていないが、ある一つの目的に向かうものである。これは、その目的に導く『第一知性』があるからである。」と。

これは釈尊の仏教とは、大きく異なります。現象界における「諸行無常、是生滅法」は、因縁果報、即ち縁起によるものですが、それは神の意志によらない「真理」であるからです。仏とは、これらの原理(真理)と一切の因縁を遍く悟って、私たち衆生を導く存在であり、原理(真理)そのものではありません。自らの存在、或いは世界を理想化することは、私たちに委ねられたものであるということです。

仏教当初、釈尊の生身に対して、釈尊の説かれた正法や功徳を「法身」としていましたが、大乗仏教に入ると絶対的な真理を「法身」と人格化するようになります。そして、バラモン教の影響を受けたて密教哲学によって、真言宗等の「法身」中心の思想は、上記スコラ哲学のような「神」の地位を与えて、一元論化します。そして、これに影響を受けた日蓮門下等も、「法身」(宇宙の真理)として「南無妙法蓮華経如来」等と言い出す始末です。

日蓮聖人が、開目抄で「他の大乗経典が説く法身(この場合は本来の真理)常住は当たり前であり、法華経は報身・応身の常住を明かしたのだ。」と主張するのは、上記の真言や真言に影響を受けた中古天台の思想を批判するものと言えましょう。



デカルト

近代哲学の父と言われるデカルトは、17世紀の数学者でもあります。彼は数学者としての立場から、確実な真理を探究するために徹底的に疑う「方法的懐疑」の手法を採りました。そして一切のものは、何一つ確実なものはない、幻であるかも知れないと気付きます。これは仏教で、一切の現象を「有為法」とし、「空」とする思想と変わらないものでありましょう。そして、しかしながら疑うものとしての我は確実に存在するというところから、有名な「われ思う、ゆえにわれあり。」と云う「第一原理」を導き出します。

これは、「われ」というものは「思惟」そのものであり、それを精神の本質とします。仏教での「自我」とは、有為法即ち現象において「我」を認めるようとする過ちよって意識されるものですから、これは「無我」として一旦斥けられます。近代の西洋思想が、自我の確立、個人主義に基づいているのに対し、東洋思想(仏教)では自我を否定し、社会性のある自己の実現を目指してきた違いがあるのはこのような理由があるからだとも言えましょう。法華経では、社会的実践を通して、深層の、無為(常住不変)の精神、即ち仏界に限定された菩薩としての「自覚」を導かんとしています。

デカルトは、「物心二元論」と言って、精神と物体を次元の異なる実体であるとしました。そして精神が、感覚的なものを除いて外部の存在を正しく捉えれば、即ち主観と客観が一致すれば真理であるとします。この辺は、仏教の「無常」なる世界を「ありのままに見る」という教えと、基本的に似ています。では、正しく捉えているかどうかはどのように判断され、保証されるのでしょうか。「私」が疑うと言うこと自体が、自分の不完全さを意識していることでありますから、そこには完全性なる観念があると言えます。これを「人性論的証明」と言いますが、デカルトはここに完全者である神の存在を証明し、人間や世界を超越した神によってその理性的観念「生得観念」が私たちに植え付けられているとします。この完全なるものがなければ、一切の存在は証明も肯定もできず、世界も疑わしいものとなってしまうからです。これに対して仏教(日蓮)では、超越した神の存在ではなく、一切智を持つ完全なる本仏・釈尊が、私たちの精神に内在し、かつ本仏・釈尊の精神に私たちが包摂されていることが、法華経によって説かれています。

釈尊が、現象世界を「諸行無常」と正しく見て、それに最善の手段を説いたように、デカルトがキリスト教のような目的論的世界観ではなく機械論的な世界観を持ったことは、その後の西洋の科学の発展に大きな功績を残したとも言えるでありましょう。その一方で、日本の仏教思想は様々な仏を超越的な存在として、現象世界をその恩恵であるとただ肯定する、或いは厭離する思想が中心となって、哲学的なことは停滞していたと言えます。

デカルトは、理性によって欲望を統制し、自由なる意志を得ることが神に近づくことだとしました。これは原始仏教で、強い意志を持って煩悩を除き「解脱」を得て、仏に近い「阿羅漢」を目指した考えと似ています。一切の人々を救わんとする大乗仏教の法華経では、本仏釈尊の導きを得るという信仰の力によって、釈尊の智慧を得て、欲望や情念に妨げられることなく、理想を達成しようとします。


スピノザ

仏教では、相対的・弁証法的世界である現象界に於いて、精神と物体のどちらにも実体はないとしますが、デカルトは、精神と物体にそれぞれに独立の実体があるとする「二元論」でした。しかしながら、デカルトの説では心と身体の関係、精神と行為の相互関係が解決されません。哲学的体系の再構築が必要です。相矛盾するものが互いに影響しながら存在するところに実体を「神」としたのが、オランダのスピノザです。自然界である世界は、即ち「神」そのものの現れであるという「汎神論」であり、超越的な人格神を認めません。「絶対一元論」を説く真言宗の法身思想、これに影響された中古天台思想などと同じような説です。

仏教では「色心不二」と言いますが、スピノザは精神と身体とは、単一の実体の二つの属性であり、交互作用はないとします。また、スピノザにとって、神は原理であり必然的なものであり、偶然的ものでもありません。したがって、人間の意志は存在せず、今現在もまた神の様態であり運命であるとする「決定論」を説きます。自由だと思っていることがそもそも間違いなのであって、その必然性を理解するならば、かえって安心すると言うものです。中古天台思想の「現実肯定」と同じ理屈であります。そして、一切が一つの原理即ち「神」の現れであるとことを認識することが知的最高点としますから、中古天台思想の観心主義と同じものと言えましょう。



ロック

スピノザと同じ17世紀、イギリスにロックという「経験論」の哲学者が現れました。彼は生まれながらの心は「白紙」であって、一切人間は「経験」によって観念を持つのであると主張し、それまでの哲学者が説いてきた、人間が生まれながらに持つ知識「生得観念」を批判します。子供や未開の地の人々、或いは無学の人々には、同一、矛盾、因果等の原理や神の観念がないからだと言うものです。法華経では、衆生本具の仏智見の開示悟入を説いていますが、それはひとまず置いて、ロックが「生得観念」なるものを強く批判した理由は、原理(法)や神(仏)の実在を否定しているのではなく、不可知なものを自己の能力を超えて知ろうとしたり、生得観念なるものを信奉するようなことを否定し、知識の確実性に限界があったとしても、経験の中に於いて事物の知識(法)を得ることが出来るはずと考えたからでのことであります。仏教・法華経が仏知見の為に実践を説いているのにも係わらず、宇宙の真理が云々と崇めるようなことを言うだけで、一向に社会に対しての実践の伴わない仏教界の堕落、或いは人生に活かすべき信仰を説かない宗教界に対する批判と同じものであります。

仏教用語の「観念」とは、本来真理を観察思念することですが、ここで使う「観念」とは、意識の内容であり、思考における対象一般を表します。そして、ロックは観念のうち物体そのものにある形態性・固体性・延長・運動と静止などを第一性質としました。これは、仏教での地・水・火・風・空の「五大種」に相当します。また、物体の中に存在せず心の中に生じる観念、色・音・味などを第二性質としました。これは、仏教の感覚器官「五根」による色・声・香・味・触に相当するものです。これらの第一、第二性質とされるものを「単純観念」とし、これを基礎として能動的に様態・実体・関係の「複合観念」が構成されるとします。仏教の十二因縁の触・受・愛・取・有の流れ、或いは五陰の受(感受作用)・想(表象作用)・行(意志作用)・識(認識作用)に相当すると言えましょう。



バークリー
ヒューム

ロックの経験論を進めたアイルランドの聖職者のバークリーは、主観的観念論者とされます。ロックの「第一性質」(固体性・形態性等)は、「第二性質」(知覚・観念)を離れて存在しないことから、第一性質は第二性質に含まれるとします。即ち、知覚こそが存在であって、知覚を離れて外界に存在する一切の事物には実体がないと言うことです。現象界における事物に、実体はないと考えることは仏教の「唯心論」と同じです。そして、あらゆる観念を持つ精神を神の存在としました。

さらに、これを進めたのがイギリスの哲学者ヒュームです。彼によるならば心も実体として存在しません。心とは変化し継起する「知覚観念の束」であるからです。大乗仏教における「空」の考え方と同じです。即ち、色・心すべての実体は否定され初期化されます。また、彼は「懐疑論」の立場から、客観的に存在する「因果法則」をも否定しました。我々は、経験による事象の因果関係を習慣的に信じているに過ぎないというものです。仏教では、現象界における此等を自我として斥け、否定されることによって顕わされるところに実在を見ています。



ライプニッツ

ロック、バークリー、ヒュームの経験論に対して、合理主義のデカルト、スピノザに続く哲学者であり、客観的観念論の立場にあるのがドイツのライプニッツです。

彼は、世界の本体をなす実在として、能動的・表象作用を実体化した「モナド論」を立てました。モナドは「宇宙の生きた鏡」と言われ、各モナドはそれぞれに独自の世界を表現しますが、それら相互には対応関係があり、そしてモナドを創造した、理性的な精神の最高のモナドを「神」とし。神によって統一的調和と秩序が保たれると説きます(スピノザ等の機械的な必然性である決定論に対する予定調和の説)。法華哲学に於いて、精神による宇宙の十界常住(餓鬼・畜生・地獄、天・人間・修羅、声聞・縁覚・菩薩・仏)が云われ、仏界を最高とし、そして仏界に他の九界が具足されると説かれたのに相通じる学説です。

ライプニッツは、真理を「理性の真理」と「事実の真理」に分けました。理性の真理とは、普遍的・永遠的なる理を根本とするものであり、事実の真理とは歴史的な真理とも言えるべきもので、神の聖なる意志を根本とするものであります。日蓮聖人が、理法よりも本仏の意志を尊重して、「事の法門」を主張されたことに繋がるものでありましょう。

合理論というのは、理性による思考によって真理を見出そうとするものです。ところが、道理は間違っていなくても、それぞれの理性によって、導き出されたものには違いが出てきます。しかも、特定の学説を真理と主張するばかりですから、思い込みの「独断論」に陥りやすくなります。

これに対して、経験論というのは理性というものを疑い、すべては知覚による経験によって、認識が成立するに過ぎないと考えます。しかしながら、これは人間を含む「存在」の意味や、こうすればこうなると言うような法則性「因果関係」を否定する懐疑論に陥りやすくなります。


カント

独断論も懐疑論にも偏らない釈尊は、因果・存在等の「法」という真理を説かれ、そして、霊魂や宇宙の果てであるかのような人間にとって「不可知」なことについて論究することは避けられました。また、日蓮聖人は、経典による文証、思考による道理である理証、客観的な事実による現証を以て、真理たる基準とする態度を貫いています。

そして、18世紀のドイツに、独断論を排して懐疑論を克服しようとした哲学者にカントが現われました。「内容のない思惟は空虚であり、概念のない直観は盲目である」という言葉で有名なカントは、客観は主観によって構成されたものであり、世界とは私たちを離れて別に存在しているのではないと説きます。対象は感性によって捉えられ、先天的な悟性によって思惟されます。そして、悟性と理性の働きによって創り出された世界を、私たちは世界として認識しているわけです。カントは、これを「コペルニクス的転回」と名付けましたが、仏教が説いてきた心と世界の関係であります。

また、カントは経験不可能なことに理性を用いて、世界の根本的な問題を解決しようとすれば、対立し矛盾することが主張され「二律背反」に陥ると指摘しました。釈尊の教えは、この「二律背反」を融和させるものですが、日蓮聖人が「実践」を強く説いたのも、この理由によります。

すべては因果律・法則である。ここから、スピノザに代表される「決定論」者は、即ち自由意志等と言うものは実は妄想で、「一切は神が目的を以て決定していることである」とし、善も悪も一切の行為は必然的なものとの考え方に陥りました。日本の仏教が中古天台思想の影響を受けて法身仏を立て、「あるがままじゃ」「そのままでいいのじゃ」と言うのと似ています。

例えば、何か仕事をするときには、その報酬が与えられます。「AならばBである」、仕事→報酬の因果です。したがって、人は報酬を得られなければ、仕事をしないと判断します。しかしながら、これは、実は因果関係に支配されているのであって、自由ではないのです。もし、報酬が得られなくとも仕事をするのだというのであれば、これこそ自由なのではないでしょうか。

カントは、前者の最高原理に規定されることを「理論理性」とし、後者の目的に従って意志を規定することを「実践(道徳)理性」としました。そして、実践理性の立場にたつならば、認識不可能であった絶対的世界である叡智界の事実が実践的に確証されてくると説きます。ここで皆さんは、釈尊が単に真理を悟って真理を説いたのではなく、真理を悟って「〜すべし」と実践を説いたことを思い出して下さい。

カントは、実践(道徳)的であるためには、道徳的法則に従って意志を決定する能力を持たねばならない、意志を道徳律に一致させるには無限の努力と無限に継続する人格が要請されねばならない、そして世界全体の原因となるべき、最高善「神」の存在がなければならないと説きます。そして、因果律の支配する現象界のなかで、自由に基づく道徳的行為がその目的を実現しなければならない。それゆえ、感性界である現象界と、この超感性界が何らかの仕方で統一されねばならないと説きます。どうでしょうか皆さん、私には釈尊の説かれた法華経ならびに日蓮聖人の御指南を、まるでカントが聞いているように思えます。

ヘーゲル、ベルクソンなど
法華教学・日蓮聖人の思想等を解釈する上で、非常に共通する部分が多く大変に参考になる哲学です。是非、一度読んで頂きたいと思います。


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