得益 その1

「如来の滅後に於いて仏の所説の経の因縁及び次第を知って、義に随って実の如く説かん。日月の光明のよく諸の幽冥を除くが如く、この人世間に行じてよく衆生の闇を滅し、無量の菩薩を教えて畢竟して一乗に住せしめん。」

法華経「神力品」の一節です。地涌の菩薩が出現して仏教のために尽くす時の有様を、釈尊が誉め讃えた言葉です。法華経の流布を委託された釈尊の久遠の弟子である、即ち地涌の菩薩は、様々に説かれた経典が、どのよう必要性において説かれたかの因縁と次第を見極めて、その真の意義を明らかにしつつ説き、仏教の帰着すべき所を示さねばなりません。日蓮聖人は、「天晴れぬれば地明らかなり、法華を識る者は世法を得べきか」と言われていますが、世間の政治・経済・道徳と言うべきものも、すべからず法華経の思想・信仰を以て、理想的なものとなるよう調和統一していかねばならないのです。また、世間に行じて衆生の闇を滅するとは、社会に於いて積極的に活動し、一切の人々を菩薩として一乗の教えに安住せしめねばならないことであります。

一切の人を一乗に安住せしめるということは、個人の精神的な或いは物質的な苦痛を単に信仰の力によって除くと言った現世利益を願うが如きものではなく、次第に煩悩罪悪が除かれて、その人の人格を完成していくべきものであり、生きながら不滅の生命を覚って、現在の自らが抱える苦痛や罪悪と戦い、打ち克つことを意識させるものでなくてはなりません。そして、この個人的に考えられる理想と信仰による利益が、人類の文明に貢献して社会の理想化へと進んでいくような精神に導くのが、日蓮聖人の上行菩薩としての御決心であり、それに連なる私たちの実践すべき使命であります。

得益 その2 

「それ衆生あって仏の寿命の長遠なること是の如くなるを聞いて乃至一念の信解を生ぜば、所得の功徳限量あること無けん。もし善男子・善女人あって阿耨多羅三藐三菩提のための故に、八十萬億那由佗劫において五波羅蜜を行ぜん。布施波羅蜜、持戒波羅蜜、忍辱波羅蜜、精進波羅蜜、禅定波羅蜜なり、智慧波羅蜜をば除く。この功徳を以て前の功徳に比するに、百分千分百千萬億分にしてその一にも及ばず、乃至算数譬喩も知ること能わざる所なり。阿耨多羅三藐三菩提において退すといはば是の処りあること無けん。」


一切の道徳的行為は、信仰を本にして発動してくるものです。信仰を本として、様々な徳行が起こるのであります。一念信解とは、何も難しいことではありません。寿量品で説かれた本仏釈尊の永遠なる寿命を信じ、広大なる活動をなし、慈悲もあり功徳もあり、救済の力もある釈尊を渇仰することであります。そして、私たちがその救いに繋がっているということを了解することであります。

この一念信解の功徳には、菩薩の修行とされる六波羅蜜の内、布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を非常に長い間積んだとしても及ばないとされます。どんなに社会事業に寄付しようとも、或いは個人的に道徳を守ろうとも、人からの辱めを耐え忍ぼうとも、如何に仕事に打ち込もうとも、また精神の統一を図ることに長けていようとも、絶対的な本仏釈尊に対する信念がなければ、それは個人の満足であり、或いは偽善の如きものとなり、菩薩行は成り立ちません。いかに広大な功徳を積もうとも、台無しになるのであります。そういうことも解らずに、あれこれと理屈を付けては菩提の道に於いて退転し、如来との関係に安心立命することも出来ない者は、実に愚かなことであると釈尊は言われているのであります。


得益 その3

「大地は指(ささ)ばはづるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出るとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩人天八部等、二聖二天十羅刹等、千に一つも来って守り給はぬこと侍(はべ)らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失(とが)あらん。行者は必ず不実なりとも、智慧は愚かなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。袋きたなしとて金(こがね)を捨つる事なかれ、伊蘭をにくまば栴檀あるべからず。谷の池を不浄と嫌はば蓮を取るべからず。行者を嫌ひ給はば誓いを破り給ひなん。」

法華行者の祈りは必ず適うということを、力強く示された祈祷抄の一節です。如何にあり得ないことが仮にあるとしても、法華行者が祈るならばその感応を受けないことはない。法華行者が誠意を以て祈るのに、菩薩や諸天善神が御守り下さらないわけがない。なぜならば、それは釈尊に対しては誓いに背き、衆生に対しては約束を反古にすることだからである。

人徳ある立派な人物でなくとも、智慧は愚かであっても、自分の身は不浄であっても、戒徳を備えていなくとも、南無妙法蓮華経と、釈尊に命を奉って妙法蓮華経を受持し、どうか私を世のため人のため、正しい法の為にお使い下さいと祈るならば、菩薩及びに諸天善神は必ずやお守り下さると言われているのであります。我等、凡夫にとっては大変有り難いことでありましょう。

これを曲解して、徳は入らぬ、智慧はいらぬと言う者が中にはありますけれども、それは勿論大きな間違いであります。「袋きたなしとて金を捨つるなかれ」の金(こがね)とは、信仰の黄金であります。そして「伊蘭をにくまば栴檀あるべからず」の伊蘭とは悪臭を放つ毒草であり、私たち凡夫の穢れた生活の一面であります。それを信仰によって自覚するからこそ、そこに香り高き栴檀も生やそうとするのであります。「谷の池を不浄と嫌はば蓮を取るべからず」とは、煩悩あり迷いや濁りのある私たち凡夫の生活を嫌ってしまうならば、そこに蓮の花は咲かせないのであります。即ち、善き信仰によって導かれるならば、徳もなければ智慧もない凡夫が、徳もあり智慧もある釈尊の愛子として向上していくのであります。そのような法華行者を必ず守ると、諸天善神は仏前にて誓われたのであります。

得益 その4

「諸経は智者猶仏にならず、此の経は愚人にも仏因を種べし。不求解脱自至(解脱を求めざるに、解脱自ずから至る)等と云々。我並びに我が弟子諸難ありとも疑ふ心なくば自然に仏界にいたるべし。天の加護なきことを疑はざれ、現世の安穏ならざる事をなげかざれと、我が弟子に朝夕教えしかども、疑いをおこして皆すてけん。つたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし。妻子を不便とおもうゆえ、現身にわかれんことをなげくらん。多生昿劫にしたしみし妻子には心とはなれしか、仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし。我れ法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返ってみちびけかし。」

開目抄の一節です。法華経は愚かな者でも仏因を種えるというのは、仏性論を明らかに説いているからであります。他の経典とは異なり、女人と雖も悪人と雖も皆仏性が有るという根本から法華経は説かれているのであります。「不求解脱自至」とは涅槃経の文でありますけれども、このところが明確になれば、自分に有るところの徳を向上心を以て現わし、自然に仏の果報も出て来るのであります。

「法華経を信じれば幸福になると言っていたが、法華経を弘めようとして日蓮も弟子も迫害に遭ったではないか。だから法華経の信仰は間違いだ。」等と言われて、正法正義の観念を失って目前の利益を求めるようでは駄目であります。凡夫は天の護りがないと心配するかも知れぬが「天の加護なきことを疑はざれ」、目前の生活が苦痛であると考えるかも知れぬが「現世の安穏ならざることをなげかざれ」と、そんな事に疑いを懐いて正義の精神を狼狽させてはならぬと仰られているのであります。正法を弘めようと思えば、必ず反対も苦難も起こるのであります。平和な時には、正しい行いの者には幸い来たりて、邪な行いの者は罰せられますが、世の中が乱れている時には邪が勢力を得ている時でありますから、正法の行者に苦難も迫害もあるのは当然のことであります。故に、そんな事によって信心に疑いを起こしてはならぬと朝夕教えてきたが、大切な時に限って忘れてしまうのが拙き者の常であると、日蓮聖人は仰られております。

法のため社会のため、覚悟を以て犠牲的・献身的な精神を貫くことは容易なことではありません。いざ自分の生命に及ぶ問題の時には、妻子が不便(ふびん)等と考えて迷いが生じるものでありましょう。「志を同じくする者よ集まれ」と言った時には、非常に数も減ってしまう如きであります。しかしながら、考えて見ねばならぬと日蓮聖人は申されています。幾百万遍も生まれかわりした長い間に、ああこれで良いと納得して妻と別れたことがあるであろうか、或いは仏道のために妻と別れたことがあるであろうか。結局別れる時には、いつも寿命が尽きて「嗚呼、別れたくない」と嘆きのうちに仕方なく別れ、何度も同じことを繰り返してきたのではないのか。ならば別れは辛いものであるけれども、同じ別れなれば今度こそは、清き法華経の為に身を捧げる決心を以て偉大なる功徳を積まねばならぬ。「我れ法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返ってみちびけかし。」と、その正しき信仰を貫いて霊山浄土に参り、そして翻って娑婆に戻った上で妻子を救うということを考えるべきであると、日蓮聖人は仰られているのであります。

加護なき事を疑わず、法華経の信心をやぶらず、そのような信仰を以て正義を貫ける所が即ち、日蓮聖人の説く法華経の大きな御利益であります。

得益 その5

「月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり。其の中に羅什三蔵一人を除きて前後一百八十六人は純乳に水を加え、薬に毒を入れたる人々なり。此の理を弁へざる一切の人師末学等、設(たと)ひ一切経を読誦し十二部経を胸に浮かべたる様なりとも、生死を離るる事かたし。また一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王魔民等守護を加えて法に験(しるし)の有る様なりとも、終(つい)には其の身も檀那も安穏なるべからず。」

諫曉八幡抄の一節です。御利益があったから等と、その教えが正しいとか信仰に誤りはない等とは言えません。また、霊験があった等と思えるようなことは、仏教以外の教えにも似非宗教にも少しはあるのであります。そのような神秘的な或いは奇跡的なことを称して、宗教を選択することは非常に危険であると、日蓮聖人は誡めておられます。法華経を信仰する私達は、そのような間違った性質の利益を考えてはならないのであります。

日蓮聖人は、インドより中国に渡った仏教を、正しく翻訳したのは羅什三蔵を除いてはないと言われています。仏教の思想・哲学を了解し含蓄出来る鳩摩羅什だからこそ、正確な仏教の根拠となるものであり、他の人師や末学の者達が、純乳に水を入れたような、或いは毒を入れたようなものを幾ら学んでも、生死を離れることは出来ない、正しき思想には達せられないと仰られております。

少しばかりの霊験が見えたからと言っても、天地を知る程のものとしては現われず、天魔が迷わすために某等の験(しるし)を与えているようなものであります。したがって、そんなものは結局「其の身も檀那も安穏なるべからず。」でありましょう。霊験が有る等と祈祷者が愚かなる人々を迷わしておりますが、そんなものは他の宗教の俗信・迷信にもあることで、そこから必ず邪教は起こってくるのであります。邪教に身を任せれば、必ず最後には酷いことになるのであります。

社会の安泰や理想的発展等を祈ることなど、正しい意味での祈願祈念は否定されるものではありません。しかし、それらは平生常に祈るべき事であって、各々の実践に活かされるからこそ利益となるのであります。「法華にはこんな御利益がある」「それも法華経拡張の一部だ」等と法の邪正を争う者、「利いたとか、利かぬとか」な卑近な事を日蓮聖人の門下が言うことも願うことも間違いであります。「天も捨て給へ、諸難にも値え」(開目抄)と覚悟して、正法を護らんとする観念と実践なくして、本来の利益はないのであります。


                                        目次に戻る