私の昆虫採集変遷 |
2001年12月30日 森みつぐ 昆虫採集をするしないを問わず子どもの頃は、動く物に興味を持ったのではないだろうか。私も御多分に漏れず、虫が大好きだった。外では、道を歩くことはなかった。野原を駈け巡って、虫を見ていたのである。
[小学生時代]
札幌で過ごした私は、最初、北海道大学(北大)の近くに住んでいた。北大のポプラ並木で、セミを採ったり、その付近の小川で鮒などを掴まえていたものである。
小学2年生の秋に北東の方へ引っ越したのだが、転校した小学校の前には日の丸公園があった。多分、ここで昆虫少年としての私が育っていったと思われる。網と籠を持って、よく通ったものである。日の丸公園は、札幌の平地に遺された貴重な雑木林だった。
[中学生時代]
中学1年の夏、初めて出会ったシンジュサンが、次の年から本格的な昆虫採集を私にもたらした。ファーブル昆虫記との出会いも、この頃だったと思う。私の周囲には、昆虫に興味を持っている人はいなかったが、何故か、一人でも歩き出したのである。そして、昆虫なら、何でも好きだった。
中学2年から始まった昆虫採集の舞台は、やはり日の丸公園だった。
中学3年の時には、理科クラブに入って文化祭の時、数少ない私の採集品を2箱、出展したものである。採集地も藻岩山、円山方面へと郊外に拡がっていた。
[高校生時代]
高校に入ったら、まっ先に生物クラブに入ろうと思っていたのだが、クラスの担任が、生物クラブの顧問をしていて、“今のクラブの生徒たちは、非常に質が悪い!”と言うクラブ批判を聞いて、入部することを止めてしまった。一人で、昆虫採集を続けようと思ったのである。
高校時代は、青春の真っ只中で、“昆虫採集なんて子どものすること!”とか、大学受験などで2年以降は、余り採集にも行かなくなった。
そして、私の大好きだった日の丸公園は、ブルドーザが入り、単なる木立だけの公園になってしまった。このショックは、大きい。
[大学生時代]
下宿生活をしていたため、夜とか休みの日をどう過ごそうかと思ったとき、やはり、それは趣味でしかなかった。大学の裏には、山があり、そこで休みの日は過ごしていた。この時代に、趣味を持っていることの尊さを知る事になった。
昆虫採集は、自分の住んでいる町の近くに拠点を持って、そこでのんびりと楽しめばいい。わざわざ遠くまで行って、昆虫採集をしなくても十分楽しめると心に決めたのも、この時期である。
[サラリーマン10年間]
社会人になり沼津に住み、やはり近くで採集していた。会社では、長期休暇の後には、あっちに行って来た、こっちに行って来たという話が耳に入るようになってきた。それに加えて、自分の自由になるお金も貯まってきて、子どもの時に見た図鑑の中の色鮮やかなチョウを見たくて、沖縄に旅立った。
時間とお金がある限り、自分の足で歩いていろんな昆虫を見てみよう。それが無くなったときは、近くの自然で楽しめばいいと云う考えに発展していた。
[サラリーマンその後]
沖縄の八重山諸島に採集に訪れると、必ずと言っていいほど、迷チョウに会う。そんなことが、ずっと続いていると、その先に行ってみたくなる。そして海外での昆虫採集が始まり、今でも続いている。
個人の自由な時間は、労働者の権利として会社から勝ち取るものである。旅行費用は、無駄な生活をしなければ、十分まかなえる。普通に思っている以上に、法外な費用にはならない。年に4回海外に行って、その上、貴重なプライベートな時間を無駄にしたくないから生活の目処が立ち次第、なるべく早く定年を迎えようと計画している。そんなことが、実現できる費用なのである。
ところで私は、昆虫採集するに当たって、昆虫(自然)との間に取り交わした規則を明記しよう。とは言え、いつも完璧とはいきませんが。
私は、どちらかと云うと受け身的な昆虫採集をしている。それは、昆虫たちと対等に向き合うためである。“虫を殺してはいけないよ!”と言う人こそ、命の大切さを身に沁みて分かっていない。昆虫とはなんぞかも分かっていない。この地球は、昆虫の惑星である。昆虫の権利を守るため、人間側が節度ある付き合い方をしなくてはならないだろう。
その後、私がどうなったかは、このホームページを見続けていただれば・・・。
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Copyright (C) 2002 森みつぐ /// 更新:2002年4月26日 /// |