夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その102 発行日 2009年7月19日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 先週から北海道も梅雨入り?したみたいである。ぐずついたどんよりした雲が、毎日のように空を覆っている。札幌郊外では、雑草の王様のようなオオイタドリが、私の背丈を遥かに超えて成長し、非常に不気味で異様な光景が広がっている。
 ところがこのオオイタドリ、花を咲かせ始めると、小さなルリシジミがこの花に産卵し、幼虫が育つ。異様に大きな草に小さく可憐なシジミチョウ、不思議な光景になる。さて、今年の梅雨明けはいつになるのだろうか?
  言いたい放題
 先週、50数年経て公害病の一つである水俣病被害者の救済法が成立した。高度経済成長の陰で公害が大きな社会問題となっていたその当時、水俣病、イタイイタイ病を始めとする公害病に対する加害企業の対応が、その後の私の企業嫌いを作り上げたものである。
 加害企業の周辺で、奇異な症状を発症した住民が増える中、"企業活動に原因がある"と分かった時点においても、加害企業は、"原因と病気に因果関係はない"と突っぱねて、その対策を取ろうとはしなかった。そのことが更なる被害を拡大させていった。学生だった私は、そのような企業の行動に、大きな不信感を抱いたのである。企業とは、利潤・利益のためなら、何よりも尊重されなければならないはずの人命をも切り捨てる組織であると思い知らされたのである。そして、国も同罪であると。
 同じく公害の一つに、大気汚染による喘息などの問題もあった。大気汚染は、企業だけの問題ではなく、マイカーによる排ガスという個人の問題でもあった。一人ひとりが便利さを追求した結果による公害問題であった。それに加え、車には、人が人を殺してしまうという交通事故の問題もあり私は、マイカーを持たないことにした。問題の全てが、他人の痛みを想像しようとしないことから始まっている。
  つくしんぼの詩
 脳死が人の死とする改悪臓器移植法が成立した。改正法では、「脳死が人の死とする考えがおおむね社会的に受容されている」としているが、どういう根拠からそう言えるのだろうか。患者の治療に全力を尽くすべきであるが、私は、脳死を前提とした臓器移植には問題を感じている。
 自民党、民主党などは、死生観は個人の問題として自由採決としたが、何故、法理でその死生観を強要されなくてはならないのだろうか。やはり。脳死は臓器提供の意思があるときに限るべきだと思う。
  虫尽し
 私のいつもの昆虫採集フィールドを歩いていた。深く削られた渓谷沿いの林道脇に咲いているヤマブキショウマの花に、今年初めて見たクロサワヘリグロハナカミキリがいないかと探しながら歩いていた。
 切り立った崖っぷちにいっぱい咲いていた花を、高い所が苦手な私なのだが、恐る恐る網で掬っていたら、突然、持っていた柄が軽くなった。"えっ!"網が柄から外れて、渓谷へと。膝をついて渓谷を覗いてみると、3mほど下の木に白い網が引っ掛かっていた。"取れるかな?!"
  情報の小窓
『「人は一人で生きられない」とよく言われます。それは経済的、物理的に支えあわねばならないという意味だけでなく、哲学的な意味でも、やはりそうなのです。自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認の中でしか、人は生きられません。相互承認によってしか自我はありえないのです。』
 集英社新書「悩む力」姜尚中著

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