夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その114 発行日   2010年9月19日
編集・著作者     森 みつぐ
  季節風
 暑くても、確実に季節は移り行く。街路樹も空き地の草花も枯れた葉が目立ち始め、秋色が濃くなってきた。風に揺れるオオアワダチソウの黄色い花は、秋そのものである。
 そして秋の虫、カンタンの鳴き声がルルルルと、やはり愁いに満ちた秋にふさわしい雰囲気を醸し出している。アスファルトの上に日向ぼっこのアカトンボが翅をいっぱいに広げて止まっているので、ジョギングや自転車に乗っているときには、踏み潰しはしないかと気の抜けない秋となってきた。
  言いたい放題
 先週の新聞に、次のような記事が載っていた。「収入が上がるにつれ生活の満足度は上がるものの、必ずしも幸福感が増すとは限らない・・・(省略)・・・年収と幸福の関係を統計的に分析した。暮らしに対する満足度を10段階で自己評価してもらう「生活評価」の数値は、年収が増えるにつれ一貫して上昇した。しかし、「昨日笑ったか」「昨日悩んだか」などの質問で測る「感情的幸福」の度合いは、年収7万5000ドル(約630万円)前後で飽和、頭打ちになった。・・・」(読売新聞)
 ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)が日本企業でも、取り組まれてきているようにも思えるが、まだまだ掛け声だけで道半ばである。記事は、アメリカでのことであるが、日本でも全く同じであろう。年収約630万円が日本に当てはまるかどうかは分からないが、仕事に終われて家庭を顧みることができないような生活に幸せを感じることができるとは、到底思えない。地位が上がり自分の時間が減るにつれて、幸福感が減るのは、普通の人間であるように思える。
 仕事と生活の時間の調和が重要なのである。家庭の中で生きる、地域社会の中で生きる、職場の中で生きる、いずれも大切なことであり、どれかに極端に時間を占有されることは不幸なことである。何事にも、調和が求められるのである。
  つくしんぼの詩
 何回書いても書き過ぎることがないのが、車の交通マナー問題である。スーパーマーケットの駐車場から出てくる車のマナーの悪さが、いつも納得できないのである。駐車場から歩道に出るとき、一旦停止するのがルールのはずだが、ルールを守っている車を見たことがない。歩行者が歩く歩道を塞いで、車道の手前で止まるのである。
 先日、交通整理員がいたのにも拘らず、車を車道の手前の歩道で停めて、歩行者や自転車を危険な車道に誘導して歩かせていた。これが当たり前だと思って、何も疑問に思っていないのだろう。車優先社会は、倫理・道徳の崩壊した社会そのものである。
  虫尽し
 すっかり秋めいてきた定山渓の林道を歩いていた。先週まで啼いていたセミの聲もすっかり途絶えてしまい、枯れ葉をまとった木々が、秋の終わりを告げているようにも思える。またアキアカネ、コノシメトンボも動作が鈍くなっているように思えるのである。
 帰り国道に出てバス停へと歩いていると、足元に秋色の翅をしたチョウを見つけた。車に撥ねられたエルタテハの雌だった。今年も、この道で車に撥ねられた虫をいっぱい見た。ミヤマカラスアゲハ、オニヤンマ、キイロスズメバチ、アオカナブン・・・、秋深し。
  情報の小窓
『そうした在り方を美しく表現した言葉がある。私の好きな言葉なのだが、「水月の道場に坐し、空華の万行を修す」という。水は月を映そうと思っているわけでもなく、月も水に映りたいわけじゃない。しかしお互いの心が共振し、感応道交する状態。この「水月」の関係こそ悟りの心の対人関係そのものだろう。その心があればどこもかしこも「水月の道場」だ。しかし実際の現場は、「空華」つまり眼にゴミが入ったような妄想に支配されており、次から次に虚仮なる現象への応対を迫られていく。これは大変な辛労と云えるだろう。しかし「水月の道場に坐し、空華の万行を修す」とスラッと言われると、いかにもそれを転々とこなしていく感じがするではないか。この言葉が好きな所以である。』
 ちくま新書「禅的生活」玄侑宗久著

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