夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その16 発行日 2000年8月31日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 夏休み明け、5ヶ月ぶりにジョギングをした。医者には、少なくても半年は控えるようにと言い渡されていたが、5ヶ月は半年と変わらない。振動が網膜剥離にとって良くないのは分かるが、半年ぶりのジョギングは、振動を与えるほどの動きにはならない。私は精一杯走っているつもりなのだが、傍らから見ると、多分楽しくのんびりと走っているとしか見えないだろう。1分、1秒速く走ることが目的でないからこれでいい。人生も、そうである。夕暮れ時、夏の終わりを告げるアブラゼミと秋の始まりを告げるアオマツムシが街路樹の上で啼いていた。
  言いたい放題
 ゆとりがない。自由主義経済のせいだろうか。競争社会のせいだろうか。10年前、20年前こんなにゆとりがなかっただろうか。効率化、生産性向上は、多くの無駄(?)を省いて達成されてきた。便利な物への指向は、この無駄を省くこと、楽をすることが目的となる。
 自動車、携帯電話と非常に便利である。早く、楽に移動ができ、場所の如何を問わず通信ができる。それまでは、決まった時間にしか来ない公共の乗り物を利用し、定置で電話をかけた。便利になったことは、確かである。無駄を省いたのである。事象と事象の間を無駄と考え、その間隔を狭めることが人間の心身にとって、本当によい結果をもたらすのだろうか。
 ゆとりは、時間だけが要因ではない。他者との関わり合い、機械との関わり合いも大きな要因となる。結局、他者や機械に振り回されて確固たる自分自身を創造することができない。既に、子どもの時からゆとりを失っている。ゆとりは、他者との関係を円滑にする。何もかも便利になった現在、ゆとりを得るには、別の意味でも努力が必要となるだろう。子どもが、思春期を乗り越えることができないという悲しい事態が、いつまで続くのだろうか。
  つくしんぼの詩
 先日、NHKのニュースを観ていると九州のある市の川で、以前放流した鯉が増えすぎて、元々棲みついている魚たちに重大な影響を及ぼすと言うことで、責任を取って捕獲し欲しい人たちに譲ったと云う報道がされていた。
 数年前、同じNHKで静岡県のある市で、川に錦鯉を放流すると云う美談の報道があった。私は、その映像を観て、NHKの報道倫理を疑ったものである。放流そのものが悪いのでなく、その内容が問題なのである。
  虫尽し
 7月韓国中南部の小高い山に囲まれた金泉という町へ行って来た。昆虫の国外持ち出し禁止の国なので、初めて採集道具を持たない身軽な旅行をした。カメラを片手に山野を歩いたのだが、ファインダーを通してみる世界は、やはり私には向かない。小さな虫、動き回る虫は、やはり手に取ってみないと種を同定することはできない。”うん!今のは、オニヤンマかな?”
  情報の小窓
 『「会社」が共同体の代わりになる、「会社」が「社会」を取り込んでいるというのは、どのように考えても正常な状態ではない。そして「会社」というビジネス・システムは、ついに本物の共同体になりえない。それは、たかだか、入社とともにはじまり定年退職とともに終わる、つかの間の疑似共同体にすぎない。』
 PHP新書「入門・日本の経済改革」佐藤光著 (社会経済学)

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