夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その177 発行日    2016年6月26日
編集・著作者    森 みつぐ
  季節風
 6月に入ってから天候不順の日が続いている。晴れた日が続かないため、5月下旬に室温が24.5℃になってから、今は、23℃前後と部屋ではまだ薄いセーターを羽織っている。それでも季節は進み、山中から始まったエゾハルゼミの啼き聲も、今は、住宅近くで啼いているのを聞くようになってきた。
 最近、親の庭に見慣れない青い意外と可愛い花を見つけた。そう言えば、街路樹の根元、アスファルトの隙間や民家の庭でも見かける。調べてみると北米原産のムラサキツユクサであった。あまり蔓延ることがなければ、このまま庭の一員として迎え入れようと思っている。
  言いたい放題
 つい先日の新聞に、やんばる国立公園の陸域の範囲が載っていた。沖縄本島北部の東側の大部分が米軍基地となっているので、国立公園の範囲外は、西側の村落とその周辺だけのようであった。昆虫採集を趣味とする私にとっては、非常に大事なことである。沖縄本島で採集したのは、1988年が最後であった。
 日本では国立公園でも、全区域が昆虫採集禁止ということではない。一般的に特別保護区域内がその制約を受けるのであるが、最近、その制約区域が広がりつつあるようなのだが、実際、どうなっているのかは知らない。本島北部で採集していた頃は、西岸から東岸まで横断して、また引き返したこともあった。大した距離ではなかったことを覚えている。西側の村周辺で採集しているうちに、知らぬ間に国立公園内に入り込んでしまいそうである。
 しばらくの間は、遠出の計画はないのだが、歩き回るのが好きな私は、このままということはないだろう。そのとき、沖縄本島もダメ、奄美大島もダメ、八重山諸島もダメ、ここもダメ、あそこもダメとなっていたら、どんなに寂しいことであろうか。今のままの自然保護では、名も存在も知られないまま小さな生き物たちは、この世から消え去るばかりである。
  つくしんぼの詩
 秋田県で、連続してツキノワグマに襲われ、山菜採りの人が殺傷されたということが起きた。山菜採りに夢中になっているとき、クマと遭遇してしまったのであろう。同じツキノワグマだったとしたら、最初の一人は、クマも驚いてのことだったかも知れないが、二人目以降は、山菜採りの人間を狙い撃ちにしていたかも知れない。
 私も山に行くが、歩くのは見晴らしの効く林道や山道である。藪の中に入ったとしても数mである。藪の中を分け入ることはない。それは、方向感覚を失ってしまう恐れがあるからである。そんなところでクマと遭遇したら、まして北海道のヒグマは半端ではない。命あってのものだねである。
  虫尽し
 6月初旬、今年もいつもの定山渓の林道を歩いた。歩き始めてすぐに、ヤナギの葉に黒っぽい小さな幼虫を見つけた。“チョウ?ガ?ヤナギの葉を食べるこんなチョウの幼虫はいないよ!”帰りに頂くことにする。
 ずっと歩いてゆくと、ミズナラの葉に若齢のヒメヤママユの幼虫を見つけた。ヒメヤママユの幼虫は、イタヤカエデとミズナラで見つけている。帰りにヤナギの葉に見つけた3匹の小さな幼虫を1匹だけ持ち帰った。ヤナギの葉を食べるがヒメヤママユの幼虫のようにも見えるしと思っていたが、まもなく脱皮した幼虫を見たらやはりヒメヤママユであった。1齢幼虫は、ちょっぴり若齢幼虫と違って見えた。
  情報の小窓
『ただ、この「人の意見」に影響されやすい弱点があるからこそ、私たちは比較的安全に生きているのだ、という側面もあります。他人の意見を聞く、オープン・マインドな部分があるのなら、人生を改善していける可能性もあるのです。もしも心の窓を閉じてしまうと、その先の人生は大変危険なものとなります。やがて、社会から孤立し、反社会的な妄想を延々と回転させてしまうかもしれない。その先にあるのは、犯罪などの大事件だけでしょう。危険な心の暴走も、自我中心の考えによって起こる現象です。心の暴走は「我は偉い」という自我中心に起こるものなのです。』
 角川SSC新書「ひとりで生きるということ」アルボムッレ・スマナサーラ著

Copyright (C) 2016 森みつぐ    /// 更新:2016年6月26日 ///