夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その20 発行日 2001年1月31日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 週末の雨は、今でも続いている。早春、太平洋高気圧の勢力増大に伴う太平洋沿岸部の雨は、2月後半頃からである。寒い日もあるが、やはり温暖化のせいだろうか。
 冬、民家の庭々の木々は、青々とした葉を落とす。蜜柑の多い静岡県の民家周辺には、春以降アゲハをよく見かける。蜜柑は、アゲハの幼虫の食樹である。見晴らしが良くなる冬、食樹の近くで蛹をたまに見かける。昨年の暮れ、自宅の近くで珍しい蛹を見つけた。この辺りでは、余り見かけることのないクロアゲハの蛹である。残念ながら、蛹は抜け殻であったが、また見つけたいものである。冬は、そんなものに焦点を合わせながら歩くことにしている。
  言いたい放題
 相変わらず続く少年たちの事件、余りにも幼稚な新成人たちの騒動、そして我が子を虐待する身勝手な親たち、権力者たちの名誉欲と金銭にまつわる不祥事と今年もこの手の話題に事欠きそうにもない。
 次の世代を担うだろう少年たちの事件や数年前から始まった成人の日の荒れは、ただただ情けなく思うだけである。今や精神的自立は、30才になろうとしている。その前に結婚して子どもを育てることになると、子どもの虐待へと繋がってゆく可能性が高くなる。この悪循環は、かなり強力になってきたように思われる。責任感に全く欠けた親や一般常識に欠けた親に、子どもを任せてはおけない。大人には、既に子どもの躾をする資格を失いつつある。とは云っても、このまま日本がじり貧状態で沈んでゆく訳にはいかない。全ての問題が、私たち大人に帰結すると考えなければ、明るい日本の未来は見えてこないだろう。全てが、己と無関係ではないのである。私たち大人一人ひとりが、子どもたちに語り継げるものを持っているのだろうか。自信を持って自分の生き様を語ることが出来るのだろうか。そして夢を語ることが出来るのだろうか。
 今年も、ひと月が経ってしまった。
  つくしんぼの詩
 冬枯れの歩道を歩いているとすっかり葉を落とした街路樹が、一直線に立ち並んでいる。細い枝々までが、凛として立っている。しかし、どうであろうか。電線に邪魔された木々は、枝々を切り払われ痛々しく瘤となって立ち竦んでいる。植えた街路樹が、どれだけの大きさになるかは、最初から分かっているはずである。植物だからいいのだろうか。為す術もなく、余りにも悲惨で醜いものとなってしまっている。ただ救いなのは、春ともなるとまた、ふっくらと蕾が膨らんでくる。
  虫尽し
 西アフリカを、初めて歩いた。外務省の海外危険情報をいつも賑わしているアフリカの国々の中では、珍しく危険情報のなかった国ガーナに行った。往きも帰りも真夜中の飛行だったので、サハラ砂漠からガーナにかけての景色を見て取ることはできなかった。しかし毎日、これが西アフリカのチョウというものに出会した。
 ”よし、入った!””あら、何処行くの!?”・・・
  情報の小窓
 『資本主義自身が、人々の欲望を生みだしていかなければならない。アメリカ資本主義は、移民社会、大衆社会という条件のもとで、人々の「相互視線」を、そこからくる強迫観念を、不安感を「欲望」に転化していったのである。・・・モノによってしか、自分をアイデンティファイできないのが現代の大衆なのである。自動車、ファッション、住宅といったモノに託して自分を他人の眼差しにさらし、そのことによって自分を認定してもらう、このようにしてしかセルフ・アイデンティティを確認できないのが大衆社会なのだ。』
 講談社現代新書「「欲望」と資本主義」佐伯啓思著

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