夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その 発行日 1999年5月31日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 先日、身延付近の山に行って来た。渓流沿いの道を上ってゆく。2時間ほどゆくと民家があり、一人のおじさんと出会った。「ギフチョウか?」『いえ。』「他に珍しいチョウがいるのか?」『歩くのが好きで、ついでに昆虫採集しているんです。』・・・「何で来た。」『駅から歩いてきました。』「こわいこった。こわいこった。」・・・帰り道で、道を補修工事していた人も、この前までギフチョウを採りに他県の車が来ていたと云っていた。一匹1万数千円とのこと。地元の人も、神経質になってしまっている。ちょっと、悲しいね。
  言いたい放題
 アメリカ・コロラド州の高校で銃の乱射事件があった。今更、驚くことではなく起こるべきして起こったことと思われる。行き過ぎた自由のなれの果てである。日本でも帯刀の自由が、未だにあれば、ナイフの事件どころではないだろう。日本も、すっかり戦後半世紀の間にアメリカ的になってしまった。アメリカの価値観を、日本が無批判に受け容れてしまったのである。豊かさを得るために。今、多くの開発途上国も日本が歩いてきた道を、同じように歩みだしている。アメリカは、自国の価値観を、普遍のものとし、他国の特有の価値観を軍事力で、経済力で変えようとしてきた。しかし、銃規制は、アメリカの価値観を、他国からの価値観で変えようとするものである。あの偏屈なアメリカが、変わるであろうか。
 情報氾濫の中で、自分に必要な情報を取捨選択する能力が育たない。深く考える能力が身に付かず、表面的な善し悪しで情報を選択する。当然、アイデンティティは、育たない。自由崇拝の経済優先社会では、情報の質は、問われない。子どもたちの規範となる大人たちが、変わらない限り、相談することもできず、ひとり悶え苦しみ続けるだろう。
  つくしんぼの詩
 今年に入って臓器移植が、脳死の患者から2度行われた。ドナーカードは、私も2つも持っているが、○は3(私は、臓器を提供しません。)を囲っている。脳死は、医療技術の向上に伴って臓器移植を前提として考えられた人の死である。臓器等を部品と見なすことによって、正常に機能しなくなった部品と交換するのである。与えられた命が短かったとしても、障害者と同じように、ありのままを受け容れるのではいけないのだろうか。あなたは、どう思う。
  虫尽し
 ボリビアのアマゾンへ行って来た。町からバイクで30分ほど走った川沿いの森林で採集していた。開けた場所の浮き草が覆った沼の水際には、白・黄・茶など色鮮やかなチョウが吸水しに来ていた。沼では、魚が銀色の腹を光らせて水面を跳ねていた。そして、時々息継ぎのためカイマンが、プハーという音とともに浮かび上がってくる。
  情報の小窓
 『優秀な連中が大蔵省にはいると、朝から晩まで働いて残業もして、さらに夜は接待のどんちゃん騒ぎが待っている。・・・これを二、三年やっているうちに、やはり存在が意識を決定するというか、どんな文化的関心があった人でも、体育会的官僚システムに見事に染まっていきます。仮面のつもりがやがて素顔になる。そうならない人はドロップアウトするしかない。』
 文藝春秋6月号「学校は権威ある頑固親父に徹せよ」浅田彰著(京大助教授)

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