夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その37 発行日 2002年9月15日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 啼き叫んでいたセミの聲も、すっかり聞こえなくなってしまった。馬肥ゆる秋の到来である。
 昨年もそうだったのだが、秋になると道行く肥えた芋虫ちゃんと出会す機会が増えてくる。ここ1週間の内に、?スズメやセスジスズメの芋虫ちゃんと出会った。既に?スズメは、蛹になった。ところが、セスジスズメは、放り込んだバッグの中から消えていた。口惜しいが逃げられた。そう言えば、部屋の中では育てていたシャクトリムシが、糞の後片付けをしている間にとんずらしてしまった。
 さて、次は何が見つかるのやら。
  言いたい放題
 年がら年中、企業の不祥事は報道を賑わしている。日本ハム、東京電力・・・。それが原因で、株価は下がってきたとか。そもそも日本の企業倫理を株主たちは、まともだと思っているのだろうか。
 数年前も企業不祥事が相次ぐ中、各企業は社内倫理規定なる物を規定化し発行した。規定の中には、「法を遵守する」とか美辞麗句で飾ってあった。企業において自らの首を締め付けるような規定は、世間体上作成しても社内的には何の効果も発揮しない。
 何故、効果がないのだろうか。それは、当然のことなのである。労働者にとっては、勤める会社の企業倫理がが全てであり、企業論理も全てなのである。多忙の中で社会との接点を失った労働者にとっては、企業が否定されると自己の基軸も失ってしまう。自己を犠牲にしてでも、社会通念から反していようとも、企業の利潤を追求していかなければならないのである。自己の確立が会社という特殊な社会の中でしか実現できなくなった偏った人間の集まりが、企業なのである。
 当然、企業は利潤追求も目的となるだろう。ならば、労働者は、如何にして社会通念と言う教養を身に付け、企業と社会の狭間の中で、確かな自己を持ち続けられるようにならなければならない。労働者が軸足を企業側に置いている限り不祥事は、この先も社会を賑わし続けることになるだろう。
  つくしんぼの詩
 夕方ジョギングしていると、お年寄りが杖を付きながらゆっくりと歩いていた。次の日も、次の日もゆっくりと歩いていた。
 車道では、車がひっきりなしに走り抜けてゆく。時間という呪縛の中で、自ら時間を追い抜こうと喘いでいる。ゆっくりと歩くことも立ち止まることも、時間との競争に忙殺されて選択肢から消えている。
 ゆっくりと歩いているお年寄りの行く手を遮らないように、ゆっくりと追い越して私のジョギングは続くのである。
  虫尽し
 オリンピア山の方へと農道を歩いていた。今日も快晴である。農家の人たちは、いつもの通り朝早くから野菜を摘み取っている。ここは、EU圏の東端ギリシャである。
 大きな網を広げて農道で、昆虫採集をしながら歩いている。農家の人たちが農道沿いで働いていたところを通り過ぎるとき、足下に私と同じように歩いていたゴミムシダマシを見つけた。早速カメラを取り出して、しゃがみ込んで写していた。周りの視線を気にもせずに・・・。
  情報の小窓
 『教師や親がよくやる失敗は、あまりきれいに説明しすぎることです。これでは子どもは口で反論できませんから、しかたなく手が出る、足が出るということになり、校内暴力や家庭内暴力に発展するわけです。子どもにしたら、暴れるよりしようがない。周囲がそのように仕向けてしまっているのです。言葉で攻撃できる余地を残すことが必要である。』
 講談社+α新書「人の心はどこまでわかるか」河合隼雄著

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