夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その44 発行日 2003年6月15日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 私の昆虫採集の場所は、人里離れた山奥ではない。マイカーを運転しない私は、公共の乗り物を乗り継いで行く。従って、歩く場所は、人里からそう遠くないのである。
 ところがそんな場所でも人と擦れ違うことは稀である。マイカーで来て、観賞用の花が植えられ整備された心地好い場所を歩いて、あら、キレイ!と言って、マイカーで帰ってゆく。その先には、山野の愛くるしい小さな花々が、ひっそりと咲いていることを知らないままに。
 でも、知らないでいた方が、自然にとってはいいのかも知れないが。私も、のんびりと虫たちにカメラを向けることができる。
  言いたい放題
 先月、新聞を読んでいると、「藤枝市は、市指定跡「田中城跡」の三ノ堀の水質改善に乗り出し、プランクトンを食べる小魚を捕食する鯉を移動させた」と言う記事が載っていた。
 日本の湖沼では、海外からの移入種ブラックバスなどが猛威を振るって在来種が減少してきている。鯉(錦鯉)は、外来種ではないかも知れないが、多くの池や川で見かける錦鯉は、元々そこにいた魚ではない。見栄えがいいから、ただそれだけで放流するのである。
 見栄えと言えば各地に良く見かけるホタルの里づくりも似ているが、ホタルの場合は、ホタルの棲むことができる水質を含めての環境整備が目的になっているのが普通である。
 ところが錦鯉の放流の場合の多くが、見栄えがいいからと売名行為だけで、自己満足だけで放流している場合が殆どであろう。そこに棲む他の生き物については、全く無関心であり、放流後錦鯉がどうなろうとも構わないのである。まして、他の生き物なんて知ったことではないのである。そんな放流が、今でも各地で行われている。
 そして、恥ずかしくもなく環境ISOに堂々と錦鯉の放流を謳っている企業さえもある。非常に破廉恥なことがまかり通る社会が、今も日本で残っている。
  つくしんぼの詩
 昨年辺りからだろうか、若い人たちのネット心中の報道が目に付くようになってきたのは。全く知らない者同士、数名集まって自殺を企てるのである。
 全く同じ目的を持った者同士が集まれば、すぐに意気投合するのであろうか。その目的が自殺であろうとも。ひとりでは踏み切れなかったことでも、2人、3人と集まってくると勇気?が湧いてくるのだろうか。そのエネルギーとは、どんな物なのだろうか。
 そのエネルギーを自殺以外のことに向けることができない社会とは、やはり悲しい社会であろう。日本社会の構造的閉塞感を彼らが一番感じ取っていたのかも知れない。
  虫尽し
 キューバのトリニダー付近で採集していた。やはり、ここでも採集場所探しで苦労していた。毎日、場所を変えて歩いていたのである。
 今日もぱっとしない採集を終えてトリニダーから1時間ほど離れた村を歩いていると、小さな黄色いチョウが目の前を通り過ぎてゆく。“あら!こんなのいたっけ!”また、いた。よくよく見るとチビキチョウである。採集を始めて4日になるのに。ほら、またいた。
  情報の小窓
 『・・・日本は「構造改革」「構造改革」と絶叫し、強者が強者として生きていく競争社会をめざしてきた。人間は利己心に支配された「経済人」であり、競争原理に支配された市場という神の見えざる手に、人間の運命をゆだねなければならないと教唆されてきた。
 そうした構造改革は、人間の社会を破局へとみちびきつつある。人間への信頼や人間へのきづなが喪失し、凶悪な犯罪、自殺、麻薬など社会的病理現象には枚挙にいとまがない。』
 岩波新書「人間回復の経済学」神野直彦著

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