夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その62 発行日  2005年6月12日
編集・著作者   森 みつぐ
  季節風
 イワサキヒメハルゼミの大合唱の中を歩いていた。11年振りの石垣島万勢林道は、すっかり舗装されて様変わりしていた。24年前、バンナ岳の林道は、既に舗装されていたのだが、その後、その林道は拡張され観光道路となってしまった。そんなこともあって、バンナ岳より万勢林道を歩くことが多くなっていた。
 イシガケチョウが湿った路面にべったりとしがみついていた。車がそんなこととは、全く関係なく通り過ぎてゆく。誰の為の道なのだろうか、自然なのだろうか。“今年こそは、イワサキヒメハルゼミを掴まえたいものだ”と考えながら、イシガケチョウが翔び上がるのを見ていた。
  言いたい放題
 私の勤める職場でも、成果主義に基づく能力給の給与体系に移行した。サービス残業をやってでも成果をより多く出すことが求められる。法律とは、全く無関係に作り出された会社にとって都合にいい管理職は、ほんの一握りの人を除いて給与は、低く押さえ込まれ、地位や肩書きだけで働き続けさせられる。
 私みたいに成果を出す出さないと言う以前に、残業をやらない人間は以ての外、まして有休を使い切る人間なんて会社にとって論外なのである。もともと成果の目標値は、そんなところに設定されていない。私みたいな人間が、目標値を達成できたら、目標の設定が甘いだけと言うことになるのである。
 成果主義は、限りあるパイを皆で奪い合うという競争なのである。私は、皆の背中を見ながら、のんびりと歩く。楽しい人生は、ここから始まる。
 成果主義、能力給、目標管理・・・社会が荒む一方の日本、まだまだこの流れは変わらないだろう。企業の横暴が続く限り、民間に出来ることは民間にと民間至上主義を説く政府が続く限り、人々の心への負担は、ずしりと重さを増してゆく。
  つくしんぼの詩
 私のジョギングコースに植えられている街路樹のプラタナスは、晩秋になると無惨な状態になる。夏の間は、大きな葉っぱで覆い隠されているが、晩秋になり枯れた葉を落とすと、ばっさりと切られた幹や枝が露わとなる。
 私が高校生の時、門の所に並んだ木々も葉を落とすと、切り落とされた枝が瘤のような根っこのようになっていたことを思い出す。何とも哀れであった。
 計画性のない景観、プラタナスの木立が冬になると泣いているのが感じられる。
  虫尽し
 ドミニカの高地の街コンスタンサに泊まって、採集していた。山中に入るには、民家の庭を通り柵を越えてゆく。その民家のおばさんとは、毎日行きと帰りに挨拶を交わして通り抜けてゆく。
 今日も山から下りてきたら、子どもたちが待ち受けていた。子どもたちに採ってきたチョウを見せたら、喜んでいた。そして畑の間を通って歩いていると、山では見かけなかった黄色い大きなフトオビアゲハが畑の中を横切っていた。“え〜、こっちへ来てよ!”
  情報の小窓
『市場一元支配社会に代わる多元的経済社会とは何でしょうか。私は次のように解釈してきました。今日、「市場にまかせさえすれば全てはうまくゆく」「良い会社、悪い会社は市場決める」「市場が撤退を迫る」「時代遅れの商店街は市場が新陳代謝を促す」など、「市場主語」が長い時間、この国の経済学、それに支援された経済政策形成者の領域を占拠してしまった。いまなお彼らの認識は変わっていません。それ以前から私たちの社会が抱えてきた前近代的なるものの改革、清算を進めることもなく、かのラテン・アメリカ諸国と同じように、ラジカルな自由化、市場開放、規制緩和など、いっ気に新自由主義路線をひた走ったのでした。結果において、たとえば日本企業社会の歪みは働く人々の上に「加重」される結果となっています。・・(省略)・・ひとたび会社の利益となれば、簡単に働く人々を差別化し、幾層にも階層化した労働の相互の入れ替え、人間リストラによって、会社は未曾有の利益を上げる、などです。』
 日本放送出版協会「NHK人間講座 「共生経済」が始まる 競争原理を超えて」内橋克人

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