夢惑う世界 草紙<蜃気楼>
夢惑う世界 蜃気楼 その83 発行日   2007年9月16日
編集・著作者     森 みつぐ
  季節風
 9月も中旬になった。気温が高めに推移している折、定山渓方面に、歩きに行ってきた。秋の気配が漂う中、バスを降りると、歩道には、クスサンが地べたで、車の煽られて揺らめいていた。
 渓流沿いの林道を歩いてゆくと、エゾゼミだけがまだ元気に啼き、モンキチョウとこれから冬を越すシータテハだけが、真新しい服装で翔び交っていた。そして、アカトンボたちが、捕虫網の柄にひっきりなしに止まりにやってくる。
 ヒグマの足跡と大量の糞が転がっていた秋だった。
  言いたい放題
 先月末、中央教育審議会が、ゆとり教育脱却の素案を示した。学力低下が指摘される中、日本の子どもの学力低下が国際学力調査で明らかになった。それを受けて、授業時間を増やし、主要教科を強化することを示したのである。
 現行の学習指導要領による完全実施は、2002年のことである。この5年間における、「ゆとり教育」の成果と検証は、どうなっているのだろうか?「学力低下」が叫ばれる中、ゆとり教育反対論者から、その犯人として「ゆとり教育」がヒステリックに取沙汰された。「ゆとり教育」と「学力低下」の因果関係を検証することなく、学習指導要領を改訂しようとしているのである。
 教育は、子どもたちを取り巻く環境が問題となる。学校、家庭、地域社会が一体となって、子どもの教育に当たらなくてはならない。ところが、「ゆとり教育」が始まって以来、「ゆとり」は学校の教師にも、家庭の両親にも、そして地域社会にも取り戻されることはなかった。その中での、子どもへの「ゆとり教育」は、未だ、不完全なものと、私は思っている。
 周囲の環境を整えず、「ゆとり教育」を行っても、成果を得ることは難しい。今回のゆとり教育脱却の素案も、何ら変わらない。学力が向上したら、別の面での破綻を起こすことだろう。その繰り返しの犠牲になるのは、子どもたちである。この日本は、教育するための環境が、破壊されたままなのである。
  つくしんぼの詩
 今日、自転車に乗っての買い物の帰り、豊平川の架かる橋の歩道を走っていると、トンボがひっくり返っているのを見つけた。ヤンマみたいだったので、自転車を止めて、拾い上げた。
 札幌に引越して来て以来、多くの昆虫が交通事故で打ちのめされているのを見た。モンシロチョウ、モンキチョウ、エゾヒメシロチョウ、クロヒカゲ、アキアカネ、ノシメトンボ、そして今回のルリボシヤンマなどである。そして、これらと同列に、人も加わる。弱者は、いつも強者によって虐待され続けている。問題は、強者が、そのことを認識しようとしていないことにある。
  虫尽し
 台湾東部の花蓮市に宿泊した。駅の裏遠くには、山があるのだが、歩いて行くには、1時間は優にかかりそうである。
 そんな山へと行ってみた。山には、ハイキングコースがあり、市民たちも軽装で散策に来ていた。中腹にある展望台からの眺めは、格別である。私の前には、若い男性が陽の照りつける暑い中を登っていた。すると、その後ろにきらっと光ながらタマムシが飛んできた。若者に気付かれぬように、こそっと網を振り、何食わぬ顔をして追抜いて行った。
  情報の小窓
『歴史学者のケネス・ジャクソンは、「アメリカのドライブイン文化が支払った大きな犠牲は、コミュニティ感覚の弱体化である」とし、こう書いている。「社会生活はより私生活化Privatizedする傾向にある。家族の隣近所に対する思いやりや責任の感情が減少している。・・・(中略)・・・真の変化は、われわれの生活が今や、隣近所や地域社会ではなくて、家の中に集中していることである。自動車利用の増加とともに、歩道や庭先での暮らしは消滅した。・・・(『孤独なボウリング』三浦訳)』
 朝日新書「下流同盟 格差社会とファスト風土」三浦展

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