銭湯歴史物語
ルーツは平安

 「一条の湯屋にでかけて、十一日は終日そこで過ごす。十二日夜になって帰る。」

これは今から、約九〇〇年前の大治四年〔一一二九年〕二月、中御門宗忠というお公家さんの書き残した日記〔中右記〕の一節である。一条は、京都の一地区を示す。だからこの湯屋は、その頃一条にあった営業用の町湯なのだ。京都市中の銭湯、町湯の始まりはいつ頃なのか、あまりはっきりとはわからないのだが、この日記によれば平安時代にあったことがわかる。一行でも貴重な資料なのだ。

 時代が下って鎌倉時代の末ともなると、「花の都」京都にはかなりの数の銭湯が出そろう。永享二年〔一四三〇年〕朝鮮からやって来た使節は、「お湯が沸きましたえー」という合図を聞き、湯銭を払って銭湯を楽しむ人々を見て、その清潔好きに感動、「わが国でも盛り場にはぜひ銭湯を」と報告書の中にわざわざ進言を書き残している。

 江戸の新開地に銭湯がお目見えしたのは家康入国の翌、天正十九年〔一五九一年〕の夏であった。伊勢の与一という者が銭瓶橋のたもとに開いた蒸風呂式である。江戸では、物珍しさから永楽一銭を払って押しかけ大騒になったらしい。大阪では江戸より一年早く、やはり同じ蒸風呂式の風呂屋が現れているが、この方式はもともと関西の伝統だった。

江戸時代の銭湯の様子

 蒸風呂式、蒸気浴が中心だった江戸時代の銭湯、地方では底の浅い浴室に出入り口の小さな引き違い戸になっている「戸棚風呂」が盛んに使われた。まるで戸棚の中で風呂を使うようなのでそんな名前がついたのである。

江戸や大阪のような大都市になると銭湯人口が多いので、引き違い戸を開けっ放しの「柘榴口」に改良した風呂がもてはやされた。この「柘榴口」には江戸は鳥居、大阪では破風屋根をかたどったが、どの風呂屋もいわば店の看板と同じ扱いに柱をうるしで黒塗りにしたり、板壁には牡丹や唐獅子の彫刻をほどこしたりして、それぞれに意匠をこらしたという。「戸棚風呂」に比べるとこちらの方は入り口が開放的だともいえたが、それでも浴室の陽気を逃がさないために、「柘榴口」は四つんばいでないと入れないほど小さくて狭かった。おまけに内部は板囲いの上、灯り取りもなくもうろうとたちこめる陽気でほとんど暗闇に近かったそうです。

銭湯での男女混浴禁止

 「入り込み湯」「打ち込み湯」といわれる銭湯での男女混浴は、足利時代にはじめて「湯女」が誕生したころからのならわしであり、人々はごく自然に従っていたが、風紀問題を心配したお上は再三、禁止令を出した。(その後男の三助が誕生した。)もともと「混浴」とはいっても天保の頃までは、江戸も大阪も男は湯褌、女は湯巻を着けるのが蒸風呂でのエチケットであり、あがる時は洗濯をして持ち帰るので、流し場には専用の下たらいがちゃんと用意されていた。この頃の銭湯は、裸一貫、上下貴賤の差別をふっとばした情報交換の場であり、社交場として親しまれたが、とりわけ江戸の町ではほとんど各町内ごとにあって呼び名も「檜物丁の湯」「堀江町の湯」と町名がつけられていた。そこにいくと大阪は淀川の上流から風呂用の水を運ぶ水船の便のため、川ぶちの橋詰めにあるものが多く、「汐の湯」「桜湯」「大和湯」などとエレガントな響きのある名がこのまれた。

変りダネ銭湯

 江戸時代の銭湯の変わりダネには、風呂桶を人通りの多い街頭において湯を沸かし、通行人に入浴させる「辻風呂」、大阪や堺などの港に、碇泊中の船の人たちを目当てに商売をする「湯船」などがあった。それは、小船を改造して据風呂を設け、船から声がかかると客を乗り移らせて湯あみさせた。

銭湯の文明開化

 明治に入り、世は挙げて「文明開化」の波にさらされたが銭湯に押し寄せたのは「入れ込み湯」禁止のきついお達しである。トップを切ったのは大阪府、慶応四年に二十日以内を限りに男湯、女湯の仕切りを作り、入り口も別々にするようにとの布令をだす。ちなみに東京の方のお達しは一年遅れの二月だった。

 明治十年、これまでの浴室を一新させるような画期的な発明が完成した。温泉からヒントを得た「改良風呂」である。ざくろ口を取っ払い、天井に湯気抜き窓をつけ、浴槽を板間に沈めて湯をたっぷり入れる。明るく清潔で開放的、という意味ではまさに銭湯の「文明開化」である。浴槽のふちを少し高くして洗い場の汚水の入らぬように工夫を重ね「改良風呂」は都市を中心にし次第に広がっていった。

 「柘榴口式浴場」が終に禁止されたのは、明治十七年、警視庁のお達しによりである。

 タイル張りが普及してくるのは大正十年代、湯ぶねも大正ロマン風ハイカラとなり、昭和に入ると、いよいよ上がり湯が湯槽の汲み置きからカラン式になる。そして現代の銭湯のご登場、という次第である。

トップに戻る