銭湯の豆知識

福沢諭吉先生も銭湯経営者

 明治の福沢先生は、三百年も続く封建制が大反対で階級の上下、職業の貴賎については、子ども時代からの不満であった。そこで幕末以来、自由平等論を唱え、有名な「学問のすすめ」の冒頭に「天は人の上に人を造らず…」と、あの名言を掲げられたのである。しかしこの本は明治中期から軍国主義にわざわいとされて、終戦までは一時全く忘れられていた。ところが敗戦という有史以来の一大改革により、自由平等の趣旨による新憲法も制定され、民主主義の本義として唱道した。先生は、明治初年の人々に、自由平等をわかりやすく説明するために、万人に親しみのある銭湯風景をとりあげて湯屋の湯に入り、身辺一物なくして丸裸なるに、なぜ士族は旦那と呼ばれて威張り、平民は貴様と軽べつさせられて恐縮するのか…(「民権論」)と、銭湯には上下貴賎の別なく、みな生まれた時の姿、なんら変わることのない人間ではないかと、大喝したわけである。今日、この銭湯、すなわち公衆浴場の現状では、自由平等を履き違えて、すいぶん他人の迷惑とか、目をひそめさせるものがあることは残念である。ところによっては、小学生のために「浴場教室」を設けて指導にあたり、ひいては成人にも反省を求めている。戦後、家庭のシツケをないがしろにしているところが多い。この教室は時宜に適した試みである。

また先生は、職業に貴賎のないことを知らせるために、三田道りで銭湯を経営していた。もっとも直接の営業ではなく、人に貸して揚銭をとっていたのである。

洗い粉・ヌカ袋・石鹸

 私達が、日常洗面、入浴の時、体を洗うために石けんの使用が一般化するまで愛用されたものは、洗い粉とヌカである。仏典の「温室経」に沐浴に必要なものとして七物の一つに豆をあげている。豆とは、大豆などの豆類を粉として洗浴に用いていた。また、皇室でも早くより使用され、庶民も寺院の施浴(功徳として無料で入浴させること)で豆類の粉を洗浴に用いることは知っていたようである。しかし、当時としては大豆、小豆の入手は容易でないことから、ヌカを豆類の粉の代用にしていた。さいわい我が国は、米食国で、原米を白米にするときにヌカが多量に出るので皇室でも明治中期までは、このヌカを混ぜたものを使用した。ヌカは布の小袋にいれて湯でよくもみ出し、流れる白い液を顔、体に使用したものでこの布の小袋をヌカ袋といった。このヌカ袋の中に豆粉を混ぜるほかに、漢方の調合から「ウグイスの糞」を少量入れたりした。「ウグイスの糞」は、大変貴重であったが大流行した。男女の髪洗いには、古くから豆粉、米ヌカ、ツバキの絞り粕、白土などを混ぜ合わせた

粉を使用したが、明治以後は化学薬品などを加えた改良のものが婦人髪洗粉として製造された。

 石けんは、今日では洗顔、入浴に欠くことのできぬ日用品とされており、この文字は和製でなく、中国よりの輸入である。中国で言う石けんは、今日一般に使用するものとは異なっている。明(みん)で徳川家康の江戸入国の天正十八年に刊行の「本草網目」によると、中国の山東付近で造り出したものである種の樹木の灰汁に麦類の製粉をまぜて固め、これを洗料として使用するものということである。仏典の「温室経」にある七物の一つにあたるものであろう。ところで我が国でいう石けんとは、南ばん人渡来当時から明治、大正まで、一般に称呼してきた「シャボン」のことである。この「シャボン」の渡来は南ばん人来航後間もないものと推察されるが「シャボン」の外来語の語源については色々な説がある。一説では、もともとイスパニア語であるザンボンがポルトガル語になまって日本に伝えられたという。この「シャボン」の伝来当時は、一般にはキリシタン物としていやがられ、個人が洗用として使用し始めたのは幕末頃である。明治初年には、「シャボンだまとんだ」という話があるようにこれを原料としたシャボン水は、めずらしいものの一つとして買う商人がいたほどである。我が国のシャボン製造は明治六年頃、堤という人が横浜で外人に習って製造工場を建てたのが最初といわれている。要するに、中国では我が国よりも早くシャボンを輸入し、それが産出の石けんの効果とよく類以することから、シャボンに「石鹸」の漢字をあてるようになり、これが我が国に輸入されたものとみるべきである。これで明治初年から一般に「石鹸」の文字が使用され始めたのである。

アカすり・軽石

 湯具にアカすりといい、手足、背中のアカをすりおとす布がある。これは「ころ」といって羊毛や硬い繊維の織物で、昔は輸入物でこの三、四寸四方くらいなキレを手ぬぐいにかぶせて体をこするとアカがよく落ちたものである。また軽石は足の裏の汚れた皮膚をこすり落すもので、火山から噴出す溶岩の一種で軽くて水に浮くので、この名がある。

風呂敷

 風呂敷は、もと他家でのもらい湯とか銭湯におもむく時、入浴の必要品を包む布で、入浴の時は自分の着物類を風呂敷に包み、他人のものと間違えぬようにしたもので、後に他人と区別するために家紋とか模様を染めたものである。この風呂敷は入浴以外にも利用するとことから、入浴具を包むものを湯風呂敷と呼んで区別していた。

湯屋の看板

 江戸時代に入って町湯の看板に類するものとして、その湯屋の屋根に「矢」を揚げたものや、軒端に「弓に矢をつがえた」ものをつるし、また紺地に「男女ゆ」とか、単に「ゆ」と染めぬいた穴きれをつるした。この「矢」には、ゆにいいるとの謎や「射入る」「湯に入る」言葉近きを似て湯屋の屋根に「矢」を揚げた。この看板は寛政の頃まであった。その後「ゆ」が公衆浴場の看板になり現在の看板(昭和六十三年七月)に至ったのである。

三助の語源

 この三助は本人の名前でなく銭湯の流しの男衆の総称で、その由来については伝承や、もの本などに色々出ている。一般に言われることは、越後から江戸に出稼ぎに来た兄弟三人が、銭湯に奉公したが入浴客に親しまれ、三人ともその名に助がついていたので、入浴客はだれともなく三人を三助さんと呼んだことから始まるという。この三助の三人は長く奉公して主人や親方の世話で一軒の湯屋の主人になったという出世物語がついている。

入込湯

 入込み湯とは、男女混浴のことで、この混浴は西欧にも若干類例はあるが、我が国では神代の昔から、こんこんと涌き出る温泉を人々が利用し、奈良時代の「風土記」の通り老若男女の別なく、みなよろこんで入ったもので、これが混浴の起源である。

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