第151号     2002. 1. 1

 

 ながれ研究集団 発行

 

   正月の宮詣り              佐藤 浩 

 新年明けましておめでとう御座います。今年がお互いに良い年でありますように。 

 正月はお盆と共に日本人が宗教的な行動をする珍らしい季節です。お宮やお寺が賑わいます。宗教で言えば明治神宮や伊勢神宮という神道、川崎大師、成田の新勝寺のような仏教、なんだかよく分らない稲荷など、どこにも人が集まります。また同じ人が去年はお寺へ行って、今年はお宮へといったあんばいですから、外国人には日本人がどんな信仰を持っているのか全然分かりません。お詣りする方も、自分がそこの神様を信じているからではなくて、どこでも手頃なところへ晴れ着を着て散歩代わりに行ってみるだけのことです。現在の日本人の平均的な宗教心はそんなものでしょう。そんなわけで今回は、宗教について少し考えてみることにします。 

 世界中には数え切れないほどの宗教がありますが、差し当たり私達に関係の深いのは仏教でしょう。ほかにも神道や儒教もありますが、これらはただの祖先崇拝であったり、道徳の規準であったりで、信仰を含む本格的な宗教とは言えません。

 現在、日本での仏教は非常に衰退しています。ごく一部の人々を除くと、一般の日本人が仏教に接するのは葬式と墓参りの時だけです。江戸時代にはすべての日本人が仏教徒とされて、葬式も墓もすべてお寺に支配されていました。明治維新で信仰の自由が保証されましたが、キリスト教が爆発的に広がることはありませんでした。これは韓国などに比べると大きな違いです。我々も人が死んだときだけはお寺の世話になろうと考えますが、それ以外にはお寺の必要性を感じません。お寺はただ観光の対象に過ぎません。伝記を読むと、お釈迦様とその弟子達は何よりも修行を重んじていて、死んだ人の扱いは別の宗派の人々に任したとされています。それに比べると今の葬式仏教は大きな堕落と言えます。お寺の坊さんは戒名や、読経やらで法外なお布施を受け取ることに汲々としています。しかし私はそれを嘆きません。というのは宗教に無関心なことによって我々の社会が円滑に廻っているからです。日本の仏教には数多くの宗派があり、歴史的には色々ないさかいもありましたが、最近は信仰のことでの深刻な争いを聞いたことはありません。世界の中で宗教の違いをもとにした凄惨な闘争が多いのに比べると、こんなに結構なことはありません。また幸いなことに仏教の教義によって我々の理性的な判断がねじ曲げられることもありません。 

 世界中にある沢山の宗教の中では仏教は少数派です。影響力の大きいのはキリスト教と、イスラム教です。キリスト教は色々な分派を生み、変貌を遂げながら、今でも欧米を中心として強い影響力を持っています。日曜ごとに礼拝のために教会に行く人の数は決して少なくありません。またアメリカには学校で進化論を教えてはいけない州があります。というのはキリスト教では神は自分の姿に似せて人間を作った事になっていて、猿のたぐいからの進化で人間が作られたというのはとんでもないことだからです。これなどはまだ可愛いのですが、妊娠の人工中絶問題は深刻です。おなかの子は神によって与えられた生命なのですから、気に入らないからといって、勝手な中絶はまかり成らぬ、というわけです。中絶そのものについては道徳的、医学的にいろいろな議論がありますが、頭から中絶という選択肢を許さないというのは理性的とはいえません。 

 イスラム教は我々には無縁と思われていましたが、今回のアメリカによるアフガニスタン攻撃で急に身近になりました。本屋ではイスラム関係の本が飛ぶように売れているそうです。私はイスラムについては全くの無知ですが、伝えられたタリバンの厳格な戒律には驚かされました。私もアジア流体力学会などでイランの婦人に会ったことがありますが、イランではそれほど厳しくはない印象を受けました。現に今年の春には次の学会をイランのイスファハンという古い町で開くことにしたほどです。イランでは、男は酒が飲めず、女は頭にスカ−フを巻かなければならないと言うので、いささかげんなりですが仕方ありません。郷に入っては郷に従え、です。 

 宗教がどのようにして出来上がったのかを詳しく、正面から解説することは私の能力を超えています。しかし宗教について、はっきりした二つの面を指摘することは出来ます。一つは人間社会を住み良くするための道徳的な面で、もう一つは死後の世界についての信仰です。道徳というものを人々に強制するためには何かの権威が必要です。何故人の物を盗ってはいけないのか、何故人を殺してはいけないのか、という質問に答えるには、神がそれを禁じているからだ、というのが一番わかりやすい説明です。有名なのがモ−セの十戒です。モ−セという知恵者が山に登って、神がこのように言われた、といって十戒を読み上げました。そしてそれによって崩れかけていた人々の社会を引き締めました。神の与えた戒律に従わなければどんな罰を受けるか分からないと言われれば、従わないわけにはいきません。このような戒律はキリスト教とイスラム教でははっきりしています。そこでは神が恐れられる存在です。神はあらゆる機会をつかまえて人々を懲らしめます。神の怒りに触れれば日蝕が起きたり、干魃になったり、怖い病が流行したりします。人々にとっての不具合はすべて神の意志によるというのです。何とか神の怒りに触れないように礼拝をしたり、犠牲を捧げたりします。それによって社会が安定して、繁栄してきたのです。 

 第二は死後の問題です。仏教では人々は何とか極楽往生をしたいものと希望しました。おどろおどろしい地獄の絵を描いたり、恐ろしい閻魔さんで脅して、極楽へいけるように信心を促しました。しかし今では地獄や極楽を信じる人はほとんど無くなりました。それでも人が死ぬと、日本人は、”冥福を祈ります”と軽く言います。これは宗教的な発言ですが、大体冥福というものは何でしょうか、死んだ人がどうやって福を得る事が出来るのでしょうか。まして祈るというのは誰に対して祈るのでしょうか。仏さんですか、神さんですか、しかも祈ります、と言うだけで、実際に祈っているとは思えません。日本人の宗教に対するいい加減さがこの言葉にはっきりと現れています。

 キリスト教では信心深い人は死後に神様のそばで憩えることになっています。しかしキリスト教を信じる上で最大の難関は、この世の終わりに神様が”最後の審判”をして、良い人と悪い人を区別するということです。この審判が本当に行われると信じることは非常に難しいことです。イスラムの方はもっと直截簡明です。イスラムに敵対する者達と戦って死んだ戦士はアラ−のそばの楽園に生まれかわることができるというものです。 

 宗教ができた当時の戒律は非常に常識的で、有効なものでした。イスラムが禁じている豚を食べることは古くなった豚肉を食べて沢山の人が死んだためでしょう。またアルコ−ル飲料の禁は酔っぱらって喧嘩や人殺しが頻発したからに違いありません。周囲を敵対民族に囲まれて戦いに明け暮れた時代に自分たちの民族が生き延びていくために一番いいやり方が戒律になっています。今では不道徳の代表のように言われている一夫多妻制も戦争で男の数が少なくなった時に、できるだけ多くの子孫を残すためのやむをえない知恵であったに違いありません。

 しかし時代が移っていくと、戒律の中のあるものは社会に受け入れがたいものになってきました、宗教の恐ろしいのは信仰が理屈を超えていることです。科学的にはっきりと解明されていることも受け入れないで、ただただ戒律にしがみつくことです。宗教はアヘンだと言われるのはこのあたりのことです。信仰によって思考が停止し、理性的に十分賛成さるべき事も戒律を理由に拒否するということになれば、社会生活が成り立っていきません。             

 今の世界で戦争が起きる可能性を考えてみましょう。帝国主義といわれる植民地獲得競争は今ではほとんど終わってしまいました。人々が殺し合う原因の一つは同じ国を構成する異民族の間の抗争です。アフガニスタンの内戦も、バルカンのコソボも、パレスティナの長い争いもその例です。そしてそれに重なるのが宗教の違いによるいがみあいです。個人の信仰は自由で、誰にも干渉は出来ないはずですが、集団としての異教徒の間の争いの歴史は古く、規模も、激しさも大きいのです。人類の長い歴史の中でキリスト教とイスラム教は世界的な規模で流血の争いをしています。本来人間を幸せにするための宗教で人々が殺し合わなければならないと言うのは何たる矛盾でしょうか。こうなると宗教が地球上のすべての人々の幸せに役に立っているのかどうか分かりません。色々な宗教を始めた始祖を恨みたくもなります。 

 イスラム教の戒律では男と女の役割をはっきりと区別しています。男は外で働き、もしくは戦い、女は家を守る。しかも不倫のようなトラブルは男の働きを不安定にしますから厳重に禁止します。家庭に安定がなければ命を懸けて敵と戦うことはできません。そのためには女は屋外で他人に肌を見せてはなりません。女の仕事は沢山の子供を産み、それを立派に育てる事です。それには女は教育を受ける必要はないし、外で働く事はもってのほかです。このような戒律はイスラム教の成立の時代には当然として受け入れられたのでしょうが、現在の男女共生の理想には真っ向から対立します。しかしこれは価値観の違いで、信仰は自由ですから、その信仰に基づいた社会を作っている人々を外部の人が非難することは出来ません。 

 このことは宗教が時代と共にどのように変化すべきかという根本的な疑問を引き出します。宗教はそれを受け継ぐ人々によって変化することがあります。時代が移るにつれて人々の考え方や、価値基準が変わっていくからです。宗教の方ではその変化にどう対応するかを迫られます。一番明快ですが、一番難しいのは、最初の戒律や考え方をそのまましっかりと守って揺るがないことです。キリスト教にもそのような一派がああります。しかしそれでは多くの人々が離れていきます。それを縛り付けておくには強権を使わざるをえません。それがいわゆる原理主義の強制です。

 一方で時代に対応して長生きする宗教があります。その例が日本の仏教です。庶民を取り込むために教義を分かりやすい方に少しづつ変えていきました。そして、しまいには南無阿弥陀仏と唱えるだけで仏になれるというインスタント成仏が発明されました。これなどは苦しい修行を根幹としたお釈迦様の到底考え及ばなかったものです。しかしそれでも人々を強く仏教に繋ぎ止めておくことはできませんでした。それというのも日本民族には宗教がそれほど必要ではないという隠れた性質があるからです。 

 イスラムの戒律の対極にあるのが現在の男女同権の主張です。現在の日本では女性は男性と同じ教育を受けて社会に進出し、経済的にも自立しています。男と女は社会と家庭ではっきりした役割分担をすべきという主張は女性に対する差別として激しく反対されます。そして結婚年齢は高くなり、また結婚しない女性も増えています。これらは必然的に赤ん坊の出生数の減少を招きます。このままでは日本の人口は間もなく減少に転じ、将来は日本の人口は減る一方で、いつかは日本民族は消滅してしまいます。社会での活躍という女性の夢の実現が民族の人口の減少と、女性にとっての理想的な社会の滅亡につながっているとはいかにも皮肉なことではありませんか。別の言い方をすれば若い女性達は民族を維持するという崇高な義務を放棄しているわけです。男女共生の社会では男も家事を手伝ったり、料理を作ることは出来ます。しかし子供を産むことだけは出来ません。子供を産むか産まないかは個人的な問題とも考えられますが、100パ−セントそうだとは言い切れません。私に言わせると今の若い女性は男女の平等な権利の主張には熱心ですが、子供を産むという義務を自覚していません。“産もうが、産むまいが私の自由でしょ”という逃げ口上は通用しないのです。今生まれた赤ん坊の子孫が何十年、何百年先の日本人になるのです。女性を区別して、男を女の上に置く社会を声高に非難する女性が、今度は社会が女性に期待する義務をさらりと捨ててしまう事を許すわけにはいきません。

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