第114号 1998.12.1
 
    ながれ研究集団 発行
   
  ある海軍軍人の生涯
   −−亡父追悼
       
             佐藤 浩
 
 年を取ったせいで昔のことがやたらに懐かしくなります。父が亡くなってから間もなく20年になりますが、生前に色々と聞いておいた資料が出てきました。私事で恐縮ですが、一人の海軍軍人としての父の生涯は歴史の一齣として伝えられてもよいのではないか思い、筆を取ることにしました。史実としてやや正確さを欠く部分もあるかと思いますが、勘弁願います。佐藤家の歴史に関しての資料は京都府舞鶴市大泉寺に残る過去帳と過去帳裏書によっています。
 
 佐藤家は平将門を討った藤原秀郷(俵藤太)の末流とされています。過去帳に現れるのは、宮津藩主細川忠興(1564−1645)が関ヶ原の役の恩賞で熊本に増禄、移封されたとき(1600)のことです。細川氏の後を襲った牧野氏が田辺藩舞鶴城(3万5千石)に入ったとき、加佐郡川口村地頭の佐藤嘉右エ門なる人物が御家人として召し抱えられたことで始まっています。
 系図は命日を示す過去帳から構成されました。父(名不詳1754没)と母(名不詳1774没)から始まります。この夫婦には男子がなく、茂右エ門を養子としました。 茂右エ門の跡取りは長男の源左エ門で、1827年に二人扶持、定番に採用されました。妻との間には子がありません。加佐郡白杉村の茂右エ門を養子としました。この茂右エ門は二人扶持、大納戸支配で、妻との間に2人の男と、2人の女をもうけました。長男の角次(1844−1899)は父の跡を継いで、6石取りになりました。1865年、主君の供で父とともに参勤交代で江戸に滞在しました。ホ−ムシックになり、同僚と”舞鶴に帰りたい”と叫んだと伝えられています。その時の土産で、佐藤家には江戸の浮世絵が多数残されていました。
 1868年が明治元年で、角次は禄を離れ、扶持のかわりに支給された国債の利札を切り取って生活しました。明治9年に大阪府巡査、15年には加佐郡の郡長に次ぐ地位の書記官となり、32年には旧藩主牧野家の内家勤として、同家の倉庫を宰領しました。33年11月に病死しました。
 角次の妻こうは竹屋町植羅太右エ門の長女です。植羅家(辰巳屋)は代々魚問屋で、店の裏には船着場があり、漁船から上がってきたばかりの魚を手広くさばいていたといいます。舞鶴は日本海に面した良港で、魚の取引で栄えました。下級武士と富裕商人の縁組みは珍しくありませんでした。なかなか子ができなかったので同藩の谷口家の5男の亨貞(みちさだ)を養子としました。こうは29歳で勉(私の父)を生みました(1890)。勉は実質では長男ですが、形式的には次男で、家督は亨貞が継ぎました。
 勉は厳しく育てられました。行儀作法、剣術を仕込まれました。屡々、父に竹刀で叩かれ、庭に立たされました。このころはまだ士族と平民の間には差別があり、士族の住家は集まって士族町を形成していました。士族の男子は学校でも特別な待遇でしたが、一方では厳格な言動が求められました。明倫小学校(4年)を終えて、明倫高等小学校(4年)に入学、1年生の時、父角次が死没して、植羅家に同居しました。その後伯母スミの養子の小林隆一(陸軍軍人、善通寺師団勤務)に引き取られ、丸亀中学校に入学しました。4年生で宮津中学校に転校、農家の離れを借りて、1里半の道を通いました。42年同校卒業。友人2人と共に東海道を歩いて上京して、同郷の牛田海軍少将の書生になりました。
 明治42年海軍兵学校を受験し。20倍の難関を突破して入学して、45年7月に卒業しました。成績は145人中30番でした。同期に、岡新、多田武雄、山口多聞、宇垣纏などの秀才がいます。大正元年12月、オ−ストラリア一周の遠洋航海に出発して、シドニ−で初めて活動写真を見ました。同2年、少尉任官、”笠置(5000トン)”に乗艦。
 大正4年、中尉。戦艦”敷島”の後、第11潜水艇乗務。これは排水量50トン、魚雷発射管は1本、乗員20名のドンガメでした。これが潜水艦との長いつきあいの始まりです。5年5月、香川県坂出の中井フジノ(20歳)と結婚しました。さきの小林氏の世話による写真だけの見合いで、結婚式で初めて本人に逢いました。同年末、水雷艇乗務、旅順在勤。フジノを呼び寄せ、旅順での新婚生活を始めました。同7年、大尉。長男誠出生。第15、第13潜水艇勤務。同12年、第40潜水艦(ロ22号)艦長。青森県大湊在任。13年次男浩出生、大湊で生活。少佐へ昇任。昭和2年イ53号艦長、単独長距離航走試験実施。5年、中佐、第1潜水隊司令、3隻を隷下に置く。7年11月、母こう没。昭和9年、大佐。11年”球磨(5600トン)”艦長、揚子江へ赴く。13年”衣笠(8000トン)”艦長。14年、”扶桑”艦長、呉在任。15年、少将、第3潜水戦隊司令官としてロ号潜水艦9隻を指揮しました。日本海軍の潜水艦はイ号とロ号に分類されており、イ号の方が大型で、強力とされていました。
 昭和16年8月、第1潜水戦隊司令官。旗艦イ9号(3700トン)坐乗。10隻の潜水艦を指揮下に置きました。これは大型艦から編成されていて、3つの潜水戦隊の中では最新鋭でしたが、新造艦のため訓練が不足していました。この時期が父の海軍軍人として最大の華の日々でした。10月のある日、私が高等学校の野外訓練で中国山脈の麓で野営していたとき、父は車に黄色の将官旗を翻して、面会に来ました。えらく晴れがましいことで、父が何故わざわざ私に会いに来たのか不思議に思いました。父は何も言いませんでしたが、後で思えば死を覚悟して、別れを言いにきたのでした。呉軍港で特殊潜航艇5隻を積み込みました。誰がこの超小型の潜航艇のアイディアを出したのか分かりませんが、父は初めからその成功には懐疑的でした。11月24日、横須賀発進、12月4日頃オアフ島付近に到達。8日”ニイタカヤマノボレ”受信、3つの潜水戦隊は散開して、空中攻撃を避けて真珠湾から脱出する敵艦を待ち伏せました。二人乗りの特殊潜航艇が発進しました。しかし予定時間に待ち合わせ地点に現れません。防潜網に引っかかって自由を失ったものと判明しました。戦果は全くありませんでした。戦死した潜航艇の乗員は軍神として国内では大いに騒がれましたが、これは決して帰還のない特攻ではなく、計画通りに行けば安全な収容を予定したものでした。真珠湾から脱出したアメリカ空母一隻を発見したとの報に接して、東進、追跡しましたが捕捉できず、アメリカ西海岸に到達しました。サンディエゴ軍港を砲撃、雷撃しました。このクラスの大型潜水艦は小型水上飛行機を分解、搭載しています。その飛行機を飛ばして偵察、爆撃しました。これは大戦を通じて唯一のアメリカ本土攻撃でした。17年2月初めクエゼリン基地に帰投、静養しました。守備隊の司令官が同期生で、酒を酌み交わして談笑しました。翌朝出航の直後に基地が空襲されて、その友人が戦死したことを知りました。大きな打撃でした。その後、横須賀に引き揚げました。
 3月、発熱、鎌倉で休養しました。肺結核の疑いが濃厚で、司令官解任、休暇を命じられました。日頃健康で、病気をしたことのない人でしたが、長年の無理な潜水艦勤務が原因でした。4月15日呉鎮守府出仕。6月、呉海兵団長、呉鎮守府警備司令官。その在任中に瀬戸内海での戦艦”陸奥”の爆沈事故がありました。一部は警備司令官の責任でした。
昭和18年11月、予備役編入で、少将として30年の現役生活を終わりました。
 直ちに充員召集されて、護衛船団の指揮をとりました。19年、第8護衛船団司令官。潜水艦のことを良く知っているからでした。当時南方と内地を結ぶ航路はアメリカの潜水艦の攻撃で大きな損害を受けていました。この生命線を如何にして保持するかが戦局の行方を左右するものでした。敵はまず船団の旗艦を狙い、指揮系統を乱してから、一隻ずつを血祭りにあげるという戦術を使うので、旗艦を頻繁に変えて、対応しました。足が遅く、訓練の未熟な船を連れて歩く苦労は大きかったようです。石油の輸送船は一発の雷撃で轟沈するので船員の間に恐怖が拡がり、いやがる人をピストルで脅すようにして乗船させるのは辛かったと述懐しました。足の長いアメリカ人が潜水艦でこんなに攻めてくるとは予想しませんでした。数回の往復の後、20年1月、喀血、入院。引退が確定しました。8月の敗戦で召集が解除されました。
 
 海軍の勤務態様は3つに分けられます。
 第1は陸上勤務で、東京の海軍省や軍令部で、必要な指令を発信している秀才集団です。海上勤務の実務経験が浅いので、時に不適切な命令を出して不興を買いました。横須賀、呉、佐世保の3軍港には鎮守府があって、ここにも陸上勤務がありました。
 第2ははっきりした母港に停泊する軍艦での勤務です。これは会社のサラリ−マンに似ていて、自宅から出勤します。訓練のための短時日の出航はありますが、原則としては家族と一緒にいられます。
 第3が遠洋航海勤務で、これこそが海軍の華です。3−4隻の潜水艦で編成される潜水隊、さらに3ケ潜水隊で作られる潜水戦隊を作ります。これらは時に合流し、ときに分解して長期間の訓練を繰り返します。他の艦種との合同演習も珍しくありません。それは半年から1年にわたります。補給のために各地の港に入ることもありますが、家族はそこにはいません。妻が対面の為に呼び寄せられることはありますが、子供は1年ぶりに父親の顔を見ることになります。この勤務は辛いのですが、ここで鍛えられた海の男が精強な日本海軍の背骨となったのです。父は勤務の3/4をこの遠洋航海で過ごしました。
 
 少尉任官当時は海軍が飛行機と潜水艦に力を入れ始めた頃でした。海軍の中では戦艦、巡洋艦が主流で、潜水艦は”どろ亀”と馬鹿にされ、”潜水艦が軍艦ならば潜望鏡に花が咲く”と囃されました。軍艦の艦首を飾る菊の御紋章も潜水艦には与えられませんでした。一方の飛行機も揺籃期で、同期の大西滝次郎などの暴れん坊が航空母艦からの離艦に失敗して何度も海に突っ込んでいました。この人物は後に特攻隊の生みの親となり、敗戦と共に敵艦に突っ込んで果てました。華やかな飛行隊に対して、潜水艦の方は忍耐の連続です。狭い艦内で、閉鎖感と呼吸困難と戦い、大波に翻弄されました。浮上するのは夜間に限られるので、長い訓練から帰ったときは顔が真っ白になっていました。海の男らしからぬ姿です。父は海の荒れは全く気にならぬ体質を持っていて、荒れれば荒れるほど、揺すぶられて腹が減る、と称していました。新造の潜水艦の試験航行をして、同乗の技術士官が船酔いでグロッキ−となったとき、”この船は瀬戸内海で戦争するように作られているのか”、と悪態をつきました。長期間の航海で一番こたえたのは食料です。大きな軍艦は冷蔵庫は勿論、アイスクリ−ムを作る機械まで持っていましたが、潜水艦にはそんな物はありません。肉や魚は古く、乾燥野菜は新聞紙のようで、とても食えたものではない、と嘆きました。潜航している間の唯一の”眼”は潜望鏡で、それを使っての航行も、魚雷の発射も、すべてが艦長の責任で、一瞬たりともそこを離れることのできない、緊張の連続です。
 
 大東亜戦争の時の潜水艦は、航空隊の派手な戦果に比べて、大した仕事はできませんでした。父はその原因として4つを挙げています。
1.海軍は伝統的に大艦巨砲による海戦を予想して、潜水艦にもそのための任務を与えて。訓練していたいた。しかしそのような海戦は実現しなかった。
2.潜水艦の設計技術は明らかにアメリカに劣っていて、性能が低かった。攻撃力を重視するあまり、居住性が極端に悪かった。これが長期作戦での士気の低下として現れた。作戦的には潜水した時に相互の通信が出来ないことが致命的で、連係行動がとれなかった。
3.戦況が悪化して前線への補給が困難になると、潜水艦を攻撃よりも、主として輸送に使うようになり、腕の見せ所がなくなった。
4.レイダ−技術の発達で、夜間の浮上も困難になり、空気の交換ができなくなった。またレイダ−によって多くの艦が沈められた。
 敗戦が父に与えた打撃は測り知れないものでした。半数を超える同期生を失い、自分だけが生きていていいのかと悩みました。戦争中に大切にされた軍人が、敗けたとなると掌を返したように、負けたのは軍人がしっかりしなかったからだ、と非難され、はては負けると分かっていた戦争を始めたのも軍人だと責められました。おまけに軍という、世間から隔絶された所しか知らなかった人間が、苦しい時代の社会に放り出されたのです。”大西はしあわせな奴だ”と時々呟きました。精神が不安定になって、私などにも不条理の喧嘩を売りました。30年ほど前に洗礼を受けていた母の説得でキリスト教に入信した頃からようやく安定をとりもどしました。
 1980年に病没しました。 行年90でした。
PREV