第149号  2001.11.1             

ながれ研究集団 発行
北京 昔と今

佐藤 浩

 乾 隆 帝

 8月上旬に北京で乱流についての国際サマ−スク−ルがあり、日本からは京都の巽友正さんと私が講師として招かれました。私は家内と二人で、北京大学の中の宿舎に一週間ほど滞在し、もと我々の研究室に来ていた魏慶鼎教授の世話になりました。このスク−ルは主題を”乱れの統計的、階層的構造”という、国際理論及び応用力学連合(IUTAM)の主催によるものです。学生の流体力学への興味と理解を促進するための結構な試みですが、実効となるといささか疑問があります。というのは講義をする数人の先生はすべてその分野の専門家で、最先端を走っている研究者です。その人達が得意分野の最近の発展について短い時間に講義をすれば学生はついていけません。結局は講師の間での議論になってしまい、誰のためのスク−ルか分からなくなりました。しかしここではその問題に深入りはしないで、北京で見聞したことを書いてみたいと思います。
 私は過去に10回近く中国を訪問していますが、最後に北京に来たのは10年前です。一言でいえば、この10年の間の変化は驚異的です。高いビルが文字通りの林立で、まるで別の町に来たような感じです。ここでの3つの話題を取り上げます。
 最初は道路です。かってはくねくねとして狭く、汚なかった道路に取って代わって、まっすぐな高速道路が、四方八方に延びています。立体交差も見事で、広いところは片側4車線です。速度制限は色々ですが最高は120km/hの由です。ただし運転は乱暴で、かつての日本の神風タクシ−を髣髴とさせます。信号を出さない車線変更は朝飯前で、隣の車に1cmほどにも近付きます。北京見物の人が必ず行く王府井も昔のごみごみした道とは様変わりです。今では歩行者天国のある、清潔で広々としたショッピング街になっています。銀座並と言えましょう。自動車を持つのは庶民の夢ですが、簡単には届きません。人々の収入と自動車の値段を考えると、小型車が日本での300万から500万円の感じでしょうか。
 次はテレビです。全国では60以上のチャンネルがあるそうで、まさに百花斉放です。私達の部屋のテレビでも20チャンネルほどを見ることができました。北京市内の局は勿論ですが、雲南放送などと言う、とんでもないものまで飛び込んできます。番組の内容は少ししか分かりませんが、ニュ−スには迫力が足りません。中央電視台、北京電視台などを除けば、ひどい局では実況放送が無くて、アナウンサ−の原稿の棒読みです。これではテレビとは言えません。将来は局が系統化されて取材力を強化することになるでしょう。ニュ−スでは日本のそれと違って、強盗や殺人などの悪い話題はありません。良い話ばかりです。これは放送局の自己規制によるもののようです。女性アナウンサ−は魅力的で、昔の印象とは一変しました。これは化粧の仕方が西洋的になったからだというのが家内の意見です。多チャンネルのテレビ放送のために北京の中央にテレビ塔が建てられました。高さが400mで世界で5番目と言うのが北京っ子の自慢です。私達も巽さんと一緒に魏さんに連れていって登ってきました。展望台からの眺めは圧巻で、北京の東西南北、すべてが一望の内です。
 3番目は携帯電話です。日本の新聞でも報じられましたが、中国での発展はめざましく、台数は1億2000万になり、アメリカを抜いて世界一になりました。人口比では10人に1台で、日本やアメリカの2人に1台には及びませんが、それでも驚くべき普及です。電話機の値段も高くはなく、大決心をしなくても誰にでも買えるようです。序でのことですが、中国での賃金はかなりの速さで上昇しています。正確な統計は知りませんが、中国の大学教授の収入は日本の1/3か、悪くても1/5のようです。10年前に比べれば何倍もの上昇です。物価の安さを考えると日本の大学教授との生活レベルの差は非常に小さくなりました。
 
 サマ−スク−ルの終わった次の日の金曜日に承徳への旅をしました。昔のことを覚えている人には懐かしい、日本軍の熱河作戦の目的地です。承徳は満州の西南部にあって、清朝の離宮、避暑山庄のあるいところです。北京からは北東250kmで、ほぼ3時間のドライブです。北京より3度か5度くらい涼しいということで、東京と違わない暑さにうだっていた我々には大歓迎の旅行でした。朝7時に宿舎を出発しました。北京大学の運転手と、魏さんと、我々夫婦の4人旅です。高速道路は田園地帯を貫いてどこまでも続きます。有名な居庸関で長城を越えて旧満州に入ると間もなく承徳市です。
 避暑山庄は清朝の始め、康煕帝の時代に作られた、周囲10km という広大な荘園です。あとで乾隆帝によって改修されました。世界遺産にも登録されています。歴代の皇帝は大抵毎年ここで夏を過ごしたようです。輿と馬車で北京から1−2週間の旅でした。ここで清朝の歴史を整理しておきましょう。清が北京を占領してこれを国都としたのが1644年です。日本では将軍家光時代の後期にあたります。康煕帝は1662年に即位し、在位はほぼ60年です。1723年からの短い雍正帝の時代の後、1735年に乾隆帝の60年の治世が始まります。このあたりが清國の最盛期です。ちなみに徳川吉宗が将軍になったのは1717年です。
 何故わざわざこんなところに荘園を作ったのかという疑問があります。それに答えるには清王朝の成り立ちから説き起こす必要があります。漢民族の明王朝を倒して、満州族の清が短い期間に全国を統一できた秘密は4族、すなわち満,漢、蒙古、西蔵の協調にあるといわれます。 その協調を守るために清の皇帝は徳川幕府の参勤交代のようなものを考えた形跡があります。各族の首長は交替で大軍を率いて参勤し、ついでに狩りと称して軍事訓練を行って軍勢の精鋭さを保ったようです。そのためには山や河を含むこの広大な山荘が必要だったのです。乾隆帝はここで生涯のうちに虎を100頭以上殺したという話が伝わっています。涼しいからいらっしゃいと言えば良い口実にもなったでしょう。また各族を懐柔するために、山荘の周囲に各族の寺を造営して配置しました。乾隆帝は一つの寺は10万の軍勢に勝ると言ったそうです。民族と言えば中国には58の少数民族があるそうで、魏さんも母親が満州の錫伯族という民族の出だそうです。中国の歴史には少数民族の蜂起が数多く残されています。現在の中国政府は民族の融和を大切にしていて、少数民族を色々な点で優遇しています。
 荘園の中には数多くの建物がありますが、麗正門の奥にあるのが正殿で、正式の行事が行われる所です。これは北京の宮殿の縮尺版で、すべてが楠の木で作られていて、楠御殿と呼ばれています。回廊で囲まれた庭には松が植えられています。こじんまりしてなかなか良いたたずまいです。ただ暑さは北京と変わらないので、不平を言ったら、朝夕は涼しいと言われました。一隅に建物が焼け落ちて、礎石だけの所があります。これが日本の関東軍の熱河作戦の“戦果”です。中国側の説明では、日本軍はどこかを占領すると、あまり重要ではない小さな所を焼いて、占領の記念にしたということです。
 正殿の後ろの斜面には30を越える数の大小の建物が配置されているそうです。そうですというのは山登りの嫌いな私には確かめようがないからです。荘園面積の1/3を占めるのは大小7つの湖です。湖のそばには見事な建物が建っています。承徳は元の熱河省の首都ですが、何故熱河という名前が付いたのでしょうか。熱河という名の河は存在しません。熱河泉という泉があり、その泉がとれて地名になったという説があります。この泉は今もあり、冬には暖かい蒸気を噴きだしているそうです。
 昼になって食事を摂ることになり、ここの名物の鹿を注文しました。いためた鹿肉は柔らかく、油も少なくて本当に美味しいと思いました。ちなみにここの名産品は玉(ぎょく)で、それを彫刻したものを売っています。しかし玉はもろく、店の人がこれはどうですか、と言って差し出した鹿の頭がとれてしまいました。面白いのは玉の短冊を編んだ玉枕です。これはひんやりとして、夏の夜にはもってこいです。おみやげに貰って楽しみました。
 昼からは山荘を取り巻くお寺を見物しました。その一つが普寧寺です。この寺の建立は乾隆20年(1755)です。高い塔があって、その中に高さ25mという千手千眼仏の立像がしまわれています。この仏像は色々な木の組み合わせでできています。階段を登って高いところから仏様に対面です。腰回り15m、(全備)重量110トンの由です。
  もう一つは北京の天壇を模して作られたという普楽寺です。これはラマ教のお寺で、仏典に”天下太平、普天同楽”とあるそうです。少数民族がお参りしたり、住んだりできるようになっています。
 お寺はまだまだあり、有名なものもあるそうですが、遠慮して帰途につき、居庸関に寄ることにしました。居庸関に着いてみると物凄い人出です。駐車場には遊覧バスが溢れています。長城の上は押すな押すなの、蟻が砂糖にたかっているような有様です。高い所から地勢を観察すると、ここは北から南に通じる谷間で、ここを破られると一気に北京に攻め込まれる、文字通りの要衝であることが分かりました。
 
 次の日は妙なところに行きました。ガイドブックにも載っていない新しい名所、龍慶峡です。北京の北西にある、作られてから5年ほどしか経っていない新しい名所です。ここにはもと小さなダムがあったのですが、ダムで出来た人工湖の中に面白い形をした岩がにょきにょきと立っているのを見た知恵者が、それを観光に利用する事を思いつきました。ダムの下から水面まで世界で一番長いと称するエスカレイタ−を取り付けてお客を運び上げ、水面に船を浮かべて池の中を遊覧します。このアイディアは当って大評判になりました。外国人は殆ど来ていませんが、大勢の中国人のお客です。我々も船に乗り込んで30分ほどの航海を楽しみました。池の中の岩は高く切り立っています。長江の三峡のようだといううたい文句ですが、小さな桂林といった雰囲気もあります。池を渡る風は涼しく、十分に愉しみました。
 
 明日は帰国という日曜日に圓名園を訪ねました。ここは北京大学からも、頤和園からも近い清朝の離宮です。正確に言うと離宮の跡です。清の最盛期に康煕帝がヨ−ロッパから設計者を招いて、中華とヨ−ロッパを融合した洋風建築の離宮を計画しました。完成したのは乾隆12年(1747)で、東洋のベルサイユと呼ばれました。大きな池が幾つかあり、岸辺は柳の並木です。池には蓮がびっしりと植わっていて、大輪の花が咲いています。ここは宮城に近いので歴代の皇帝に愛されました。しかし阿片戦争のあとで北京が占領された時(1860)にイギリスとフランスの連合軍が園に乱入して、めぼしいものをすべて盗み出した上に、火をつけて何もかも焼いてしまいました。今残っているのは石で出来た部分と、礎石だけです。ほぼ100年の栄華でした。再建しようという計画もありますが、英仏の暴虐の証拠を残そうという意見もあるそうです。
 私達の1週間の北京滞在は終わりました。帰ってきた東京は相変わらずの暑さでした。
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