第15号    1990.9.1
 
     ながれ研究集団 発行
                                       原爆を憎むの記     佐藤 浩
 
 今年も原子爆弾の日が来ました爆弾が落されてから45年という、きりのいい年です。今月号では私の経験を記して、後世に残したいと思います。永い年月の間に私の記憶も薄れました。いささか不正確なところもあるかと思いますが勘弁を願います。.
 
 1945年の8月のはじめ私は千葉にいました。東京大学第二工学部の3年生として、卒業を9月に控えていました。ほんの1月ほど前に1年数カ月の勤労動員から帰ってきたばかりでした。大学を卒業するには卒業論文を出きなければなりませんから、そのために3カ月ほどの暇を与えられたわけです。私のたったひとりの兄は陸軍の少佐で、偶然にも総武線の稲毛駅のそばの高射砲学校の教官でした。父は海軍の少将で、呉にいました。父が若くて、私連が小きいあいだは私達の家族は大湊、横猿賀、呉、佐世保と軍港から軍港へと引っ越してばかりいました。私も小学校を三回も変わりました。しかし4年生の時に広島に定着しました。子供の教育の為で、父は単身赴任というわけです。しかし大抵は海の上にいるのですからさしたる違いはありません。海軍軍人の家庭は母子家庭で、私も父に遊んでもらった記憶はありません。私が幼かった時に父が海上勤務から久し振りに帰ってきた時、私が”あのひと誰?”といって陰に隠れたといって母が嘆きました。 私は小、中学校、旧制の高等学校と広島で育ち、大学になって東京に出てきたのです。私達の家は牛田という、市の東北のいわば新興住宅地にあり、当時は母が独りでそこに住んでいました。8月7日の新聞に、広島に新型爆弾が落ときれて、死傷者が出たことが報道されました。詳しいことは知らされませんでしたが、だんだんこれは普通の爆撃ではなく、広島全市はほとんと壊滅状態であることが分かってきました。私は高射砲学校へ行って兄に面会して相談した結果、兄には暇が取れないので、私が独りで広島へ行くことになりました。兄は情報を持っていて、広島は全部やられた、母も死んだに違いないから遺骨を持って帰ってくれと頼みました。私はすぐに準備にかかりました。当時大変だったのは汽車の切符を手に入れることです。爆撃や艦砲射撃で輸送力がひどく低下していますから、汽車に乗れるのは戦争の遂行に直接関係のある人だけに制限きれていました。ここで役にたったのが海軍の航空技術廠に動員きれていたときに手に入れておいた鉄道の割引証でした。これはとりもなおきす私が軍務で出張することを証明してくれます。そのおかげで手にいれた切符と、遺骨をいれる小さな箱と、兄嫁が作づてくれた弁当と、兄が工面した少々の旅費とが私の持物のすべてでした。
 20時間ほどの苦しい旅の後で、9日の早朝にやっと広島駅に着きました。駅の建物は残っていましたが、改札もなく、駅員もいません。何の照明もありませんでしたが、朝の薄明かりの中に大勢の人が座ったり、歩いたりしているのが見えました。そしてひどい血の臭いです。そぼに寄ってみると、どの人も火傷をしています。頭に包帯をしたり、首から手を吊ったりしているのはまだいいほうで、手の皮がはがれてだらりと垂れたり、血管や紳軽が外からも見える人も沢山いました。ほとんどの人が何も言わないで汽車を見ていました。逃げ出したいがその気力がないといった風でした。私は気がせいていますから、まっすぐに家に向かいます。歩いて30分ほとの距離です。太田川の東岸を上流に向かって歩きます。その道筋の右側には陸軍の第二総軍司令部かあるのですが、そこに近ずくと道一杯に兵隊さんの死体がならんでいます。そこで死んだのか、よそから持ってきて並べたのか分かりませんが、何しろびっしりと並んでいますから、死体を踏まなければ歩けないほどでした。踏んだときの足の裏のぐしゃりとした感覚は今でも忘れられません。しかし恐ろしいもので、沢山の死体を見ていると段々と何とも感じなくなりました。
 まもなく牛田に入りましたが一面の焼野原です。やっぱり駄目かと観念しました。しかし段々と家に近ずくと焼け残った家が見えはじめました。どの家も変な具合に傾いています。やっと我が家が見えたとき思わず駆け出しました。家が残り、壊れた壁のかげに蚊張が吊られていたのです。お母さんと呼んで、返事か帰ってきたときは涙かこぼれ、肩のカが抜けてしまいました。父も蚊張の中にいました。昨日呉から駆け付けたということでした。母の話ではピカドンが落ちたときには茶の間でお客と世間話をしていたそうです。爆風で天井が落ち、そのかけらで体中に切傷ができましたが、家の中にいたことが決定的に有利でした。火傷をしないですんだのです。庭に爆弾が落ちたと思ったそうです。隣組の組長をしていたので、落ちてきた物の下からはい出して10軒ぼかりの家を見回ったそうです。声を掛けられた人は元気に返事をしたそうです。しかしそのうちの何人かは一週間以内に死ぬことになるのです。この人達は外にいて、軽い火傷を負ったのですが、それが命取りになりました。私の家は爆心から直線距離で約2 kmです.最初の放射線照射で直接に発火することはありませんでした。つぎの衝撃波でおしつけられ、そのあとの膨脹波で梁のかみ合せがはずれました。日本家屋は圧縮には強く、引張りには弱くできています。壁が落ち、屋根のところところがはがれました。それでも一応は住めるのですから有難いことです。もうひとつの幸運は風です。原爆が爆発した時にできるきのこ雲から強い放射能を帯びた雨が降ります。そのときの風の方向によってどこに降るかがきまります。あの日、あの時の風は東でした。そのため爆心の西の人々は大きな被害を受けましたが、私達のところはまぬがれました。電気、ガス、電話はすべてとまりました。
 あくる日から私は街に出ることになりました。一つは近所の行方不明の人を探すことと、もう一つはどんな被害があったのかを見たいという好奇心でした。暑い、かんかん照りの日です。牛田から対岸にわたる神田橋は橋脚がはずれて、X字形になり、通れません。一つ下流の常盤橋をまわります。市の中心に近ずくと家という家はほとんと焼け落ちて平らになっています。ただ福屋という大きなデパートと、あとで有名になる産業奨励舘のドームだけが見えました。広島で一番賑やかなところは本通りですが、そこも平らになっています。ここにはあの店があった、ここはよく行った喫茶店の跡だと見ていくと涙が止まりません。もっともこのような光景はいままでも何度も見てきました。本格的な空襲を受けた町はみんなこのようでした。ただ異様なのは住んでいる人が一人もいないことです。焼跡ではどこでも防空壕の中や、焼けトタンの下で人々が生きているものですが、ここでは道を歩く人はあっても、住んでいる人はいないのです。東京の銀座に相当する革屋町では
住民が文字通り全滅しました。小きな火はまだいたるところで燃えています。このような大きな被害の時、警察や消防は何の役にも立ちません。警官自身が死んだり、火傷をしています。また消防署そのものがこわれてしまいました。助けてくれといっても誰もが他人のことなどかまってはいられません。市の中心といえる紙屋町の交差点に立って四方を見渡すと、遠くに家が見えますが、広島の三角洲をとりかこむ低い山の木は茶色に焼けていました。呆然とした後で段々と腹が立ってきました。川にかこまれたこの美しい広島の町をこんなに無残に焼きつくし、また残酷なやりかたで何万人という人を殺した。よくもこんなことをやりやがったな、と怒りがこみあげてきました。戦争ですから人か死ぬのは覚悟の上です。しかしこの殺し方はあまりにも無残です。この仇は必ずとってやる、と誓いました。私の怒りは戦争が終わって、平和が戻ってきても消えません。今でも私の心の中に重く澱んでいます。歩くにつれて道の左右には死体がありますが、馴れてしまって何も感じなくなりました。しかし走っている筈の無い市電の中に人影があり、近付いててみると、座席に座ったまま死んだ人々だとわかったときには驚きました。探す人は見付からず、街へ出るのも2日、3日となりました。あとで考えるとこのときに大量の二次放射線を受けたのです。馬鹿なことをしたものです。そのうちにつぎの大きな問題が持ち上がりました。私達の町には爆心から逃げてはきたものの、力尽きて倒れた人々が道にほったらかしにされていました。牛田という所は袋小路のような行止りで、北の方へ逃げるには太田川に沿って上っていかなければならないのですが、道を間違えて迷いこんでしまったのです。この行き倒れの死体が腐敗をはじめて、烈しい臭いを放っています。それを片付けてくれる人はありません。何とか死体を焼かなければなりません。少しでも元気のいい人を動員しました。家にある薪を持って小さな公園に集まります。その一角に薪を積んでその上に死体を乗せて火をつけます。物凄い臭いです。町の中には死体の腐った臭いと、死体を焼く臭いが漂って、ものを食べる気にもなりません。また死体というものがひどく焼けにくいことが分かりました。手や足はわりに簡単ですが、難しいのはお腹の部分です。そこで先の尖った木でお腹を突きます。皮か破れて、汁かでてくると、やっと焼けます。骨になったら穴を掘ってそこに投げ込みます。正気ではとてもやれない地獄の作業です。一日の仕事を終わって家に帰ります。電気もガスもありませんが、水だけは豊富です。というのは私達の町の隣に水源池かあるからです。水道管がこわれて水が出っぱなしです。電気が来ないのでラジオは聞けず、新聞も来ませんから、どこで何がおこっているのか何もわかりません。ただ毎日死体焼きの仕事か続きます。いつのまにか8月15日は過ぎていました。17日か18日になって、日本は負けたらしいという噂が飛びました。ある年寄りは憤慨して、そんなデマを流す非国民は殴り殺すといきり立ちました。しかしまもなく新聞が配達されるようになって、敗戦が現実のものになりました。20日ごろでした。その頃にはやっと死体も片ずきました。何体焼いたか記憶はさだかではありません。20体ぐらいだったでしょうか。女の人と、子供が主だったと思います。今になってみるとその人達の名前や住所をきちんと残しておかなかったことを申し訳なく思います。しかしもし記録があったにしても、どこの誰にそれを渡せばいいのか分りません。警察などは何のたよりにもなりませんでした。この頃になって、はじめは元気だった人か死んだという知らせがぼつりぼつりと入って来ました。私達の所でも直接被爆は致死量であったということです。ピカドンの時、外で新聞を読んでいた隣のおじさんも亡くなりました。
 生活について言えば食料はどこの家でも一カ月ぐらいの貯えはあったようで、米の配給がとぎれてもひどいパニックにはなりませんでした。肉や魚はもともとほとんど手に入らなかったのですから不自由とも思いませんでした。まわりには田や畑が残っており、大抵の家では自家菜園を持っていましたから野菜はそちらからとることができます。しかしそれが悲劇の始まりであることは誰にも予測できませんでした。幸いに晴天続きだったので、野宿同然のすまいでもなんとかやっていけました。電気がなくても、明るくなったら起き、暗くなったら寝るというやりかたはあまり苦にはなりませんでした。しかし、やがて体に変調が始まりました。下痢です。段々とひどくなり、母も私も苦しみました。やがて血便が出はじめ、衰弱しました。近所でも同じ症状を訴えています。はっきりとは分かりませんが、私は放射線を浴びた野菜を食べたのが原因だと思っています。
 敗戦の何日かあとで父が呉から帰って来ました。父の40年の海軍生活も終わりました。父の同期の人々は大部分か戦死しました。同期で特攻作戦を指揮した大西瀧治郎中将が自決したニュースもはいりました。この頃になると、新聞には広島には今後何十年も人は住めないという記事か出ました。いつの時代でも新聞は半分は嘘と思わなければいけないのですが、この記事のおかげでみんな浮足立ちました。現にどこの誰が死んだという知らせは相変わらずです。このままでは死を待つばかりという気がしてきました。父の決断は迅速でした。私達は母の実家に移ることにきめました。香川県の、最近有名になった坂出です。家財は焼け残ってはいますがそれを全部持っていくことはとてもできません。汽車は復員の人達で一杯で、引越荷物なとを受け付けることはありません。そこで宇品港から船で脱出することに決めました。今治までの定期船か辛うじて運行していることが分かりました。荷物を持って来るなら積めるだけのものは運んでやろうと言ってくれました。今治から先は?神のみぞ知る、です。
 日取りを覚えていませんが8月の末、早朝に家を後にしました。この家は借家なので、その点は気楽でした。しかし家財道具や思い出につながるいろいろな物を置去りにしていくのは身を切られる思いでした。なまじっか焼けてしまわなかったので未練が残りました。金目の物をできるだけ荷作りしてリヤカーを引いて、宇品まで約6 kmの旅です。前途は不安に包まれています。自分の健康にも自信がありません。しかし今はこのリヤカーを引く以外にはないのです。やっとの思いで宇品を出た小さな船は新しい困難にぶつかりました。台風です。船は激しく揺れ、瀬戸内海の難所といわれる来島海峡にさしかかったとき揺れは頂点に達しました。父は職業がらある予感があったらしく、私達に靴を脱ぐように言いました。着ているものはそのままにしました。私は子供の時から太田川で鍛えていますから、5 kmぐらいは泳ぐ自信かありました、しかしそれは海が静かな時の話で、この大波ではとても駄目です。船はそれこそ木の葉のように翻弄されましたが、やっとの思いで今治港にたとりつきました。台風で駅が混乱しているのに乗じて、こっそりと汽車に乗りこみ、やっと母の兄の家に着きました。とにかくここで”戦災者”、”被爆者”としての生活が始まりました。
 
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