誤解された国 イラン
佐藤 浩

第158号  2002. 8. 1

ながれ研究集団 発行                                                                   
            
   
金曜日のモスク 
 イスファハン
 5月の終りにイランで第9回のアジア流体力学会がありました。私はそれに出席するために家内と一緒に10日ほどイランに滞在しました。会の学問的な面については別に報告される筈ですので、私はイランという国、我々が訪れた町、我々が会った人々について述べてみたいと思います。             
 
 まず言いたいのは我々日本人はイランという国、またイラン人について、とんでもない誤解をしているということです。これは今回イランへ行った30人ほどの日本人が口を揃えています。誤解の責任の大半は日本のマスコミにあります。マスコミはイランについて客観的で、正確な報道をしないで、日本に住んでいるイラン人を”悪漢”として描いています。マスコミによると、不法に入国して食い詰めたイラン人は、強盗をしたり、麻薬を扱ったり、とにかくろくなことをしない厄介者です。この印象は彼らがひげをぼうぼうと伸ばし、鋭い目つきをして、日本人の感覚では見るからに悪漢の姿であることからきています。しかし当然のことですが、顔つきで人を判断してはなりません。悪いことをする人たちは決してイラン人の代表ではありません。
 
 私と家内が成田からイラン航空の747に乗り、14時間の飛行のあとで降り立ったのはテ−ランです。イランのすべての国際線はここの空港に集中しています。この市の名前は日本ではテヘランと呼ばれますが、よく聞くと、このヘという音は非常に軽くて、テ−ランと書く方が本当に近いようです。空港に着いたのは真夜中でしたが、学会の世話係の人がにこやかに迎えてくれたのにはまず感激しました。目つきは鋭く、髭は濃いのですが、人柄は実に柔らかく礼儀正しくて、好感が持てました。その人の車でテ−ランの下町にあるシャ−ホテルに落ち着きました。
 まずイランという国について簡単に解説しましょう。イランは昔のペルシャだと理解している人がいますが、これは完全に正確ではありません。正確には昔のペルシャは今のイランの一部分だということです。紀元200年頃、有名なササン朝ペルシャが成立しました。そしてゾロアスタ−教(拝火教)を国教にしました。これはやはり一神教ですが、ムハンマドの始めたイスラム教とは違います。やがて強力なムスリム(イスラム教徒)の侵入に敗れて、イランは数世紀をかけて徐々にイスラム化しました。バグダ−ドのカリフが名目的な支配者です。その後いろいろな興亡がありましたが、モンゴルによる支配の後で1500年頃サファヴィ−朝が興き、イスファハンを都としました。これからの200年ほどがイスファハンの黄金期です。この王朝は完全にイスラムです。壮麗なモスクが次々に作られました。これが現在の観光資源になっています。やがて、この王朝はアフガン人に滅ぼされました。最後の王朝がパフラヴィ−朝です(日本ではパ−レヴィ−といわれています)。そして1979年にホメイニ師の指導のもとに革命が成功し、王朝を倒してイランイスラム共和国となりました。政権の中では聖職者と政治家の間に確執があるようですが、庶民の生活には大きな影響はないようです。
 
 テ−ランの一夜が明けてまず驚いたのは自動車の洪水です。ホテルの前の道で車が溢れています。しかも追い越し、割り込みは烈しく、ひどい運転マナ−です。横断道路には歩行者用の信号はありません。横断は命がけです。日本車はあまり見あたりません。後で聞いたことですが、輸入車には400%もの関税がかけられているそうで、輸入車は少なく、大部分はいわゆる国産です。プジョ−とか大宇といった外国のメイカ−がイランで合弁生産をしているのです。国産の保護に熱心ですが、競争がないので品質は低いとされています。家電製品などもすべて国産されています。飛行機の製作会社もあり、50席ほどの旅客機IR140が完成して、最近試験飛行に成功したそうです。これについても国際競争力は疑問です。
 テ−ランは100万都市ですが、新しい首都ですのであまり歴史的な遺跡はありません。それでもパフラヴィ−朝の作った宮殿があるというので、タクシ−を雇って出かけました。テ−ランの北には5000メ−トル級の山が雪を頂いて連なっています。宮殿はその麓にあります。庭園の広さに驚きました。世界一の大きい絨毯を敷いたり、世界中の珍しいものを集めた贅沢な建物です。これはすべて国民の汗と涙の結晶です。これでは革命が起きるのも当然です。近くにあるバザ−ルにも案内されました。食料をはじめとする日用品が豊富に並び、物凄い活気です。カスピ海で獲れたという魚もありました。イランには乞食がほとんど居ません。インドでは子供が小さな手を差し出して小銭をねだるのに泣きたくなりますが、イランにはそれがありません。みんな程々の生活は出来るということでしょう。タクシ−の運転手は英語が出来るのでいろいろと話をしていたら、帰りがけに、うちに寄っていかないかと言われ、びっくりしました。私もいろいろなところに行きましたが、運転手に招待されたのは初めてです。彼の家はまずまずの広さのアパ−トで、贅沢ではないが、おだやかな生活と見ました。西瓜をご馳走になりました。イランの人のおおらかさを経験した思いでした。
 テ−ランで3泊してイスファハンに移りました。この名前もエスハファンと書かれることもあります。イとエの間のような発音です。テ−ランの南400kmほどです。
 ハジュウ橋 イスハファン  シェイク・ロトフォラ− モスク
                 
 ここはやはり100万都市です。テレビ局が4つほどあり、時間になるとイスラムの説教の放送があります。都心の北西郊外にイスファハン工科大学があります。これが学会の会場です。市の中心部からバスで30分ほどの所に広大な敷地を占めています。
 学会はイラン国歌とイスラムの祈りで始まりました。私もまじめに出席しました。市内からのこの遠さでは逃げ出すこともできません。1日、2日と過ぎて3日目は講演が無く、市内の観光に当てられました。この町はザ−ヤンデ川が東西に貫き、緑の多いところです。しかしこの川は下流に行くと砂漠に入って消えてしまうという、我々には想像もできないものです。川には300年も前に出来た、石づくりの美しい橋がいくつかかかっています。ハジュウ橋もその一つです。2階建てで、上をラクダが通り、下が人間用です。この町にはサファヴィ−朝時代の遺跡が沢山残っています。主なものはモスクと宮殿です。モスクは石や煉瓦積みで、タイルで美しく飾られています。すべてがア−チ構造の利用で、驚くほどの設計技術です。チェヘル・ソツ−ン宮殿も見ました。これは長い木の柱で屋根を支えた宮殿で、柱の数が40本と言う名前です。実際の数は20本ほどですが、イランの人には40という数が非常に縁起がよいのだそうです。宮殿の前に池があり、それに映るので40本になるという説明です。それで思い出すのは千一夜物語の中の、アリババと40人の盗賊の話です。縁起を担げば盗賊の数は40人きっちりでなくてはなりません。
 イスラム教国の衣装には厳格な規制があることはよく知られています。イランでは女性は体の線を見せてはならず、ほとんどが黒のマントのようなものを着て、頭にスカ−フを巻いて、髪の毛を隠しています。しかし顔の全体を覆う必要はありません。外国人にもこのル−ルは適用されるので、私の家内を含む日本の奥様方は慣れぬスカ−フ姿でした。とても面倒です。こんな馬鹿な女性差別があるか、という運動は起きないのかとイラン女性に聞くと、強い反対運動はないそうです。これは一つには信仰の問題であって、信心深い女性は反対しません。信仰のない日本女性とは考え方が違います。もう一つのうがった見方は、黒いスカ−フは顔をきれいに見せるというものです。事実イランの女性は平均として日本女性よりずっと美人揃いです。若い男に聞いてみると二つの意見に分かれます。一つは隠れているところを想像するのが楽しいというもので、もう一つは隠れているところがどうなっているか不安だ、というものです。イラン女性はスカ−フの蔭にだけ隠れているわけではありません。女性の社会進出は盛んです。その証拠に大学の学生数は女性の方が男性より多いことで分かります。一方で、イランには日本が100年か、150年前に放棄した大家族主義が残っています。そのおかげで、働く女性の、職場をとるか、育児を大切にするかという悩みは軽くなっています。お婆さんや、おばさんが子供の面倒を見てくれるからです。もちろん嫁、姑の摩擦は我慢しなければなりません。どちらが良いかは難しいところですが、結果的にはイランの女性はうまくやっているということになります。ついでですがイランの男性は公式的な場面でもネクタイというものを付けません。ネクタイはイスラムの敵、という言葉があるそうです。私はこれには全面的に賛成です。何故男だけがあのつまらない布で首を締め付けていなければならないのでしょう。これも一種の男女差別ではありませんか。
 イランの食べ物を見ましょう。最大のご馳走はカバブです。チキンカバブ、ビ−フカバブ、といった具合です。羊もありますが、この2つほどポピュラ−ではありません。イランに行く前に、イランではそこらじゅうが羊臭くてたまらないと聞いていましたが、これは今では全くの間違いです。旅行中に羊らしいにおいを嗅いだことは全くありません。このカバブも最初はおいしいのですが、毎食となると、うんざりです。贅沢をいうなと叱られました。日本で毎食刺身を食べているようなものだというのです。このカバブと、生野菜のサラダと、茹でた野菜と、薄いナンが一つのセットです。生野菜はおいしく、大量に食べられます。果物も豊富です。家内はテ−ランのホテルで食べたトマトス−プが絶品と賞賛を惜しみません。しかし正直に言うとイラン料理が世界の中で上の部に属するとは思えません。メニュウが広がりを欠いています。アルコホルが飲めないのは周知の通りです。私にはひどい試練でした。それでも小さなペットボトルにジンを入れてこっそり持ち込みました。無事に税関を通過したので、一晩に指一本分だけを大切に飲みました。レストランでは国産のコ−ラや、ジュ−スが飲まれます。ほかになんか無いのかと言ったら、ビ−ルはどうだというので驚喜したら、イラニアンビ−ルで、アルコホル分のない、昨日あけたビ−ルのような、すっかり気の抜けたものでした。それでもコ−ラよりまし、と飲んでいるうちに少しずつ好きになってきました。妙なものです。
 イランの人々の生活についてつっこんでみましょう。物価は安く、日本人の奥様方を喜ばします。それは人件費が安いからです。日本ではみんなが高い給料を取りながら、物価が高いと嘆くのはおかしな話です。イランでは人手のかかるものほど安いのです。絨毯をはじめとする手の込んだ工芸品がよい例です。人々の平均年収がいくらぐらいかを見積もるのは難しいのですが、日本円にして30万から100万円と言う数字があります。物価の安さを考えると、実質はその何倍かになりますから、相当なレベルです。贅沢は出来ませんが一応の生活はできる額です。これで共稼ぎなら中古の車も買えるというものです。
 イランの人は基本的にはアメリカ嫌いです。大使館焼き討ちの事件はまだ記憶に残っています。石油の収入があるので自国だけに閉じこもっていても差し障りはありません。これが日本ほどあくせくしない理由です。イランの人の対外感情は複雑です。近世になってから、いろんな形でヨ−ロッパ各国にかきまわされましたから、ヨ−ロッパやアメリカのいう通りにはならないぞ、という気迫が感ぜられます。それについて日本の役割が大切です。日本はヨ−ロッパに負けないように頑張っている。日本はロシアを破り、アジアの星だという考えかたが感じられます。この日本への親近感は大事にすべきでしょう。日本の会社がもっとイランへ進出して、仲良くやるようになれば、と期待しています。
 
 最後に、イランについていろいろな情報を提供して下さった、理化学研究所のタジファ−ル博士に感謝します。
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