第160号    2002.10.1

 ながれ研究集団   発行
 
 
   人は幸せだから笑うのではない
笑うから幸せになるのだ
 
                               吉田周明
 
 これはフランスのモラリスト、ラ・ブリュイエールの箴言であったと思います。60年前、学生の頃読んでそれからの私の人生を律する座右の銘となりました。あったと思います。と云うのは出典の記憶が定かでないので、国会図書館で調べたものの、分明しなかつた為でお許しを願います。
 
通学図書館 前号(ながれだより第157号)に書いたように飛行機乗りになり損ねた私は、飛行機に乗れないのなら造る方に廻ろうと決心しました。
 それには大学の航空学科に行くより途はありません。高校は兄が在籍していた第一高等学校を中学4年、5年 で受験し見事落第、やっと1浪して滑り込みました。入試の面接で将来の希望を聞かれ「東大工学部の航空機体学科」と答え面接官をあきれさせました。3年の筈の高校生活は戦時下の学業短縮で2年半になり、大学入試は3年生の夏行われました。その時は暢気で怠け者の私も必死でした、どうしても大学の航空それも機体学科に入りたかったのです。 試験の前に友達同士で様子を聞き合うと「自信がないよ」と答えるのが儀礼的挨拶だったように思うし、自分もそれまではそうしていました。しかしこの時ばかりは絶対そんなことは云うまいと決心してやり通しました。
(注)モラリスト:人間性と人間の生き方とを探求し、これを主として随筆的・断片的に書き著わす人々。特にフランス16〜18世紀のモンテーニユ、パスカル、ラ・ロシュフーコー、ラ・ブリュイエール、ヴォーヴナルグなどの称。(広辞苑より)
ラ・ブリュイエール:(1645-96)フランスのモラリスト。主著「人さまざま」
箴言(しんげん):いましめとなる短い句。格言。
 戦時中なので燃料節約から自宅の風呂はあまりたてなかったので、銭湯に行くことが多かったのです。その時も験を担いで1番の下足箱を使い続けたりもしました。其のお陰かは知れませんが、東大の航空機体学科に合格した時は天にも昇る喜びでした。然し、戦時下で技術系の学生を増員する国策で工学部の定員がこの年、昭和17年春から2倍に増員された恩恵にも浴した訳でした。従って工学部は第一と第二に分けられ、第一は本郷のキャンパス、第二は、春から千葉県の西千葉に新設されたキャンパスで学ぶこととなりました。学生の配分は極めて公平な配分方法で配分されたとのことでしたが、私は第二に配分されました。春に入学した一回生に次いで我々は二回生としてその年の10月に入学しました。
 10月1日本郷の安田講堂で入学式、平賀総長の訓示を受け、午後西千葉の各自の教室で顔合わせが行われました。その席に現地産のふかし芋が出されたのを懐かしく思い出します。西千葉のキャンパスは、その芋畑をつぶし急造された木造二階建の校舎が並んでいました。黒砂台と言う地名に恥じず風が吹くと砂塵もうもうで,製図室の図版に砂が積もるといった環境でした。しかし新進気鋭の教授陣を迎え活気ある学園で後に会社のトップとなる人材を輩出したのです。それはともかく、地方から来ている人は殆ど、学生寮か近くの下宿から通学していましたが、中央線の西荻窪に住んでいた私は、中央線から総武線に直通電車が有るのを幸い電車通学をすることにしました。時間は1時間50分程掛かりましたが、入学した昭和17年の10月から昭和19年6月学徒勤労動員で横浜に移るまで1年8ケ月の間 この電車通学を続けました。当時は西荻窪で乗ると必ず座れました。電車の1時間50分は読書のまたとないチャンスで将に通学図書館でした。戦時下で娯楽の少ない学生の頃の唯一楽しみは休日に神田の本屋街をブラつき本の顔を見て歩く事でした。難しい長編物は敬遠したのですが、区切りの良い、「人生論」とか「幸福論」「友情論」と言ったたぐいの物を漁って読みました。表題はそんな中で出会った言葉です。
 
笑いについて  笑うから幸せになる。と堅く信じています。笑う門には福来たると言うではありませんか。最近医学的にも笑いは、病気対する抵抗力を増やし、治癒力も増すと言われています。
 また笑いは、笑う本人を幸せにするばかりか、周囲の人も幸せにします。前にも書きましたが、お前の人生における幸せは何かと聞かれれば、躊躇なくそれは8年前亡くなった妻と結婚したことだと言えます。36年半の家庭生活には、常に妻の笑顔がありました。どんなに辛い時もその笑顔が救いでした。専業主婦だった妻は、私が仕事から帰ると先ず留守のことは殆どなく、必ず笑顔で迎えてくれました。一日の疲れが消えて行きました。もうその幸せは戻りませんが、其の記憶はいつまでも消えません。
 25年程前、週刊朝日に連載された池波正太郎さんの小説に 「真田太平記」
というのがありました。楽しみに愛読していたのですがその中で一番印象に残り忘れられない一節がありました。たまたまその原本〔週刊朝日、昭和52年4月22日号の抜粋〕が残っていたので引用して見ます。後に真田十勇士の一人になる猿飛佐助の少年期の話です。佐助の父は向井佐平次、母はもよと言い共に真田家の草の者つまり忍者だったのです。佐助は母もよの叔父、横沢与七に預けられ草の者の修行をしました。十五才の頃には大叔父の与七が「ひとり前の草の者として、何処へさしむけようとも、後れをとることはあるまい」と言うまでに成っていました。(以下原文)
 
 ・・・草の者は、まず、おのれの肉体に忠実でなくてはならぬ。
 それがためには、おのれのこころを、おのれであやつることを知らねばならぬ。 たとえば、どういうことかというと、
 「危険に遭遇したときは、まず、笑うてみよ」 と、与七は佐助に教えた。 数人の敵の刃に囲まれ、 (もう、これまで・・・)
 死ぬる覚悟をさだめたとき、与七は、
「先ず笑うてみよ」と、いうのである。
 笑えるわけのものではないが、ともかく、むりにも笑ってみる。
 すると、その笑いが、おもわぬちからをよび起こしてくれる。
 むりに笑った笑いが、
「なんの。ここで殪れてなるものか」という不敵な笑いに変わってくる。
 ともかくも、まず、些細な動作を肉体に起こしてみて、そのことによって、わが精神(こころ)を操作せよというのだ。
(もうだめだ・・・)とか、
(これで終わりだ)とかの、
 絶望と悲嘆の情緒へ落ちこむ前に、まず笑ってみる。すると、その笑ったという行為は、ふしぎに人間のこころへ反応してくるものなのだ。また、それでなくてはにならぬと、横沢与七はいった。・・・・                 
  行為が心を動かす、素敵なことではないですか。
  これと同じ趣旨のことを、アラン(1868−1951)は其の著書「幸福論」の中で述べています。(以下原文)
 
・・・われわれはほほ笑みなど大したものではない、それで不機嫌がなおるというものでもないと思っている。だからひとつほほ笑みをやってみようなどとはしない。ところが、礼儀作法はしばとしば、われわれをすっかり変えてしまう。ほほ笑むから、いんぎんな挨拶をするからだ。心理学者はその理由をよく知っている。ほほ笑みはあくびと同じように、からだの奥まで行きわたるからだ。のど、肺、心臓と次々にときほぐす。医者の薬箱のなかにもこれほど迅速にほどよく効くものはないだろう。・・・・と。
 また不機嫌を直す方法として次ぎのょうに言っています。
・・・・気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなくて、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。ほほ笑むことや肩をすくめることは、思いわずらってることを遠ざける常套手段である。こんな実に簡単な運動によってたちまち内臓の血液循環が変わることを知るがよい。伸びをしたいと思えば伸びをすることができ、あくびも自分ですることができる。これは不安や焦燥から遠ざかるためのもっともいい体操である。ところがいらいらしている人には無関心を真似ることなど思いもつかない。同じように、不眠症になやんでいる人の心には眠る真似をしようという考えなど浮かばないのだ。否、それどころではない。不機嫌という奴は、自分に自分の不機嫌を伝えるのだ。だからずっと不機嫌が続いて行く。それを克服するだけの知恵がないので、われわれは礼儀正しさに救いを求め、ほほ笑む義務を自らに課すのである。・・・・と。
 
世の中を明るくしたい 、街を歩いていると時、電車に乗っている時、私はそれとなく人の顔を観察しています。そして気付くのは、悲しげな顔、苦しげな顔,容態ぶった顔に出会うことが多いのです。それぞれに色々の事情を抱えているのだと思います。親しい人の死に遭ったり、失恋したり、ストレスに苦しんでいたり、上司として部下に威厳を示さなければならない立場にあったり、するのでしょう。そこで、私は思うのです、無理でも、一日に何度かはほほえんで見ることを勧めたいのです。必ず心にゆとりが出来て、瞬間でも穏やかな顔に戻れるのではないでしょうか。
 穏やかな顔の人が増えれば世の中は絶対明るくなると信じています。
 
(注)アラン (1868-1951)フランスの哲学者・評論家。本名エミール・オーギュスト・シャルチエ・アラン。ノルマンディーのモルターニュに生まれる。ルーアンの高等中学で哲学を講じ、アンドレー・モロアーは教え子であった。多くの著書があるが「幸福論」は1925年の作品である。
 
 
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