第207号     2006. 9. 1
 
     ながれ研究集団 発行
194-0041 東京都町田市玉川学園 5-23-3
TEL    042-732-8362
FAX    042-732-8362     
E-MAIL   ifr-sato@mtf.biglobe.ne.jp          
     憲法論争 1             佐藤 浩
 
0.はしがき
 自由民主党は昨秋に獲得した絶対多数を恃んで、憲法の改変を企んでいます。去年暮れには改変の素案も発表されました。この改変には賛成と反対があります。私はどちらかと言えば反対の方ですが、ここでは中立な立場に立って考えてみます。
 憲法は大切なものですが、絶対に変えてはならぬというものではありません。社会の移り変わりにつれて、変っていくのは当然でしょう。今の憲法は成立してから60年も経っているのですから、ある程度改変しても、早すぎるとは言えません。ここでは、今の憲法をより良いものにするにはどうするべきか、を考えてみます。今回は憲法周辺の色々な問題を挙げて議論します。具体的な憲法そのものの内容については次回で提案します。
1.憲法の権威
 まず、この国で憲法がどれほど大切にされているかを考えます。憲法が良い、悪いに拘わらず、それが守られているか、ということです。一番良い例は軍備です。言うまでもなく、現在の憲法は、我が国が軍隊を持つことをはっきりと禁じています。しかし現状は世界の中でも10本の指に、いや、ひょっとすると、5本の指に入るほどの強力な軍備を持っています。あれは軍隊ではない、自衛隊だ。という言訳が、いかにそらぞらしいものかは世界中の誰でもが知っています。日本には軍備を持たないという憲法がある、というのは嘘だろうと思っている外国人が少なくありません。これが日本人が嘘つきだという評判のもとになっています。誰が見ても。憲法の建前と、現実の軍備とはならび立ちません。この食い違いの根本原因は日本には憲法が守られているかどうかの厳しい判断がないからです。ある法律が憲法違反かどうかを判断する仕事は、主として最高裁判所に委ねられているのですが、それが機能しないのです。世界には憲法裁判所と銘打った司法府の機関を持つ国がありますが、日本では自衛隊の問題について、違憲かどうかが裁判所で真剣に議論されたということは聞きません。それには無理からぬ所があります。最高裁判所の判事は政権を持つ自民党の推薦で、議会の多数決で承認されて、任命されるのですから、軍備増強を推し進める自民党にたて突くような人物が任命されることは絶対にありません。国政選挙の時に行われる、判事の国民審査が完全に形骸化していることは誰でも知っています。その意味では司法の独立などというものは無いのです。今の憲法を作ったときに、現在のような強力な軍備を持つようになると想像した人は一人もありません。この有様では新しい憲法を作っても、それが守られる保証はありません。いわゆる解釈とやらで、どんどんと歪められるでしょう。こうなると憲法改変の議論そのものが空しくなります。
2.憲法遵守の保証
 それではどうすればいいのでしょうか。私の提案は先ず、我が国にも憲法裁判所を作ることです。現在でも政府にも、議会にも法制局があって、ある法律案が憲法に違反していないかどうかをチェックしていますが、これは行政府と立法府に属している、ただの意見具申機関であって、強制力は持ちません。必要なのは行政府と立法府から独立した憲法裁判所なのです。司法府としては、ある法律が議会で成立したときに、訴えを待たないで、自主的に、それが合憲か、違憲かを判断し、違憲と判定されたら、その法律の施行を無効とする権限を与えます。憲法の遵守はそれぐらい重大なものなのです。
 ここで、この憲法裁判所の判事をどのように選ぶかという重大な問題が起きます。今のやり方は全然駄目です。私の案は、判事、検事、弁護士などの法律の専門家に適当な選挙権を与えて、立候補、または互選で、行政府、立法府の影響の入らない選挙をして選ぶのです。これでこそ、この判事達が本当に国民の意見を代表することになります。 議会で成立する法律の数は多いのですから、あまり小さいものについては程々に省略しても良いでしょう。もし新しく裁判所を作るのがひどく大変ならば、現在の最高裁判所に、はっきりと違憲審査を義務付け、判事の選び方を変えなければなりません。
3.国際関係
 今の憲法には国際関係が適当に取り入れられていません。国際関係は憲法が作られた頃と今ではすっかり変わりました。我が国では国際連合がひどく大事にされて、憲法に合わなくても、国民が不満に思っても、国際連合で決まったのだからという理由で、法律が無理矢理に作られることがあります。現在の国際連合はそもそも60年前の戦争の結果として作られたものです。日本やドイツは戦敗国として冷遇されていて、戦勝国は安保理で常任理事国として拒否権を持っています。この不均等は簡単には解消されそうにもないことはご存知の通りです。どの国も自分が獲得した特権を手放したくはないのです。ご存じのように、日本の懸命の努力も何の結果も生みませんでした。それとは別に、中国やインドのように人口の多い国が、人口がその1%にも満たない国と、総会で同じ一票しか与えられていないのも不公平です。しかし、この点の改善もいつまで経っても、望むべくもありません。要するに各国の利害が錯綜する中で理想的な国際機関を作る事は不可能なのです。我が国はこのように不平等な国連から一歩退いた態度を取るべきです。すなわち国連の決議に対しても独自の判断と、態度をとるべきだ、ということです。
 国際問題についての第一歩は、各国は自分の国の中の紛争は独力で処理するという原則を確立すべきです。国内で激しい対立が起きても、内戦が始まっても、よその国はそれに巻き込まれてはならないのです。いくら国連の決議でも、聞いたこともないような国に軍隊を送ってはいけないのです。それが他国の干渉を招いて、国内問題解決の自主的な努力を駄目にします。このことは明治維新の時の日本を考えれば分かります。あのときは日本国内は内戦状態でした。戊辰戦争です。国内は大きく乱れ、イギリスやフランスなどは官軍と幕府軍のどちらかを助けて、利権を獲得しようとしましたが、日本人はそれに乗らず、自分たちだけで内戦を克服して、立派な独立国を作りました。
 しかしここで強調したいのは、人道援助は積極的に行うべきだということです。食べ物が無かったり、薬が足りない時には余裕のある国が助けの手をさしのべるのは当然の義務です。日本もそれを惜しんではなりません。日本の外交下手には定評がありますが、日本人は相手を敵か味方かに簡単に割り切って、それに応じたやり方しかできない不器用な人達なのです。もっと広い気持で外国と付き合っていくことが必要です。このことは隣国である韓国や、中国にも当てはまります。仲良くしなければいけないのに、靖国参拝などで無用の刺激を与えています。”自分がやりたいからやるんだ、文句を言うな。”では外交とは言えません。お互いに我慢をし合うのが仲良くやっていく基本なのです。
4.アメリカ
 ここでどうしてもアメリカと日本との関係をはっきりする必要があります。一般の日本人の持つ感触は、アメリカは日本の同盟国であって、アメリカ軍は日本を守ってくれるために日本に駐留しているのだというものです。しかしそのような素朴な解釈は全くの間違いです。日本を守るためにアメリカ青年の血を惜しげなく流してくれるわけはありません。アメリカは世界戦略の一環として日本にある基地を利用しているのです。このことは、今回のアメリカ軍の再編成計画でもはっきりと現れています。
 今のところアメリカはイラクを持てあまして、余力がありません。しかしイラクが何とか片づくと、また新しい戦争を始めたくなるでしょう。今度も相手はアラブの国です。イランが有力な候補です。イスラムに対するアメリカの敵意は決して無くなりません。
 もう一つのトラブルのもとは中国です。アメリカの対中貿易赤字はまだまだ増えるでしょう。為替の不平等、圧倒的な安売り、品質の向上、と中国の競争力は強まるばかりです。貿易摩擦は弱まることは決してありません。アメリカのいらだちはいつかは頂点に達します。中国の近海で何かの突発事故が起き、軍事的な小競り合いが始まる可能性が大きいのです。全面的な戦争に拡大することはないでしょうが、アメリカが中国を攻めると、中国は日本にあるアメリカ軍の基地をミサイル攻撃するでしょう。アメリカの前線基地だからです。その何発かは基地の外に着弾して日本人を殺すことになるでしょう。このとき日本人や日本政府はどのような態度を取ればいいのでしょうか。アメリカと一体となって、中国を攻めるのでしょうか。そんなことをすれば犠牲者は増えるばかりです。その時になって、どうしてこんな事になったのかと悔やんでも追いつきません。安易に基地を提供している当然の報いです。
 私の意見は出来るだけ早くアメリカ軍に日本から撤退して貰うことです。誰が考えても、外国の軍隊が60年もの長い間、独立国の日本に駐留していることは異常です。日本はアメリカのの属国ではないのです。もし外国から侵略される可能性がでてきたら、自分で力を尽くして戦うのか、自主的に降伏するか、が常道でしょう。犠牲を払って最後まで守ってくれるとは思えないアメリカ軍に、何時までも頼っていると、とんでもないことになりかねないのです。
5.マスコミ
 ここで日本人の意見の形成に絶大な影響力を持つマスコミに触れないわけにはいきません。今から70年前の戦前にアメリカと戦争するという世論を作り上げたのは当時のマスコミであったことは疑いのない事実です。そのころはテレビは無くて、マスコミは新聞と週刊誌とラジオとニュ−ス映画でした。それらの影響力は大変なものでした。マスコミはアメリカがいかに日本の中国での”聖戦”を邪魔しているか、いかにアメリカ社会が腐敗しているか、いかにアメリカ軍が弱いかということを、手を変え品を変えて宣伝に努めました。始めはそんな記事を馬鹿にしていた人々も段々と意見が変わってきて、それを信じる方に傾いていきました。現在の北朝鮮についての宣伝と全く同じです。こうなると、アメリカ撃つべしという世論の形成が完了しました。ごく自然に宣戦布告に流れていったのです。それに正面から反対した人を私は知りません。一部の軍人が戦争を始めたのであって、国民の大部分は戦争に反対だったという記述は当時の日本社会の実情を知らない全くの嘘です。あのころに比べると現在の、映像を伴うテレビの影響力は比べものにならない強さです。議員の選挙の時にも、外国の内情の紹介にも、テレビが映像を流し、コメンテ−タ−は無責任な発言をして、国民の意見はいとも簡単に操られます。いわゆる脱北者の伝える北朝鮮の内幕といった報道はその一例です。何か具合の悪いことがあって逃げてきた人が、北朝鮮の内幕として正直な報道をするわけはありません。金さえ貰えば何とでも誇張し、面白おかしい話を作ります。それをテレビで見た人の心の中には、北朝鮮に悪い印象がどんどんと膨らみます。何とかの内幕という話題は人々の好奇心をくすぐりますが、こんなものは公正な報道とはいえません。
 日本人は他人の言い分に、はっきりと反論することを逡巡します。会議などでも、他人の意見に”反対するわけではありませんが”という枕言葉を置いて、そろそろと自分の意見を述べます。これは他人に正面から反対することは失礼である、という日本人の文化に基づいています。このような文化の中で強力なマスコミの宣伝をそのまま放っておいて良いのでしょうか。報道の自由や、知る権利ということが声高に叫ばれますが、私は日本のジャ−ナリストが本当に自由で、公正な報道をしているとは思いません。民放テレビは明らかに視聴者に媚びています。面白い番組を作って見て貰わなければなりません。見る人の数が減るとスポンサ−が逃げてしまい、放送局の経営が危なくなります。そこでニュ−スも、正確さ、公平さよりも、面白くて、素人受けのする内容になってしまいます。このことは特に外交問題で、はっきりしています。日本人はアメリカにはペコペコしますが、東洋の国々には威張りくさっています。マスコミは政府が中国や韓国などに対して、少しでも譲るような気配を見せると、屈辱外交、土下座外交などとヒステリックに騒ぎ立てます。何故アメリカに対しても土下座外交という言葉を使わないのでしょうか。これも、強いものには、おべっかを使い、弱いものをいじめる日本人の文化です。こんな事では報道の自由を主張する資格はありません。マスコミは戦前の先輩と全く同じ道を歩いています。NHKは政府の干渉の前に自主規制をしているので、政府の施策に強く反対することはありません。日本の視聴者は金儲け主義と、偏った自主規制に、もて遊ばれているのです。このままでは、選挙や、国民投票で、優れた憲法が作られる可能性はありません。マスコミには思い切った改革を要求します。