第214号     2007. 4. 1
 
     ながれ研究集団 発行
194-0041 東京都町田市玉川学園5-23-3
TEL   042-732-8362
FAX   042-732-8362     
E-MAIL ifr-sato@mtf.biglobe.ne.jp          
    職業に貴賤有り        佐藤 浩
                        
0.はしがき
 今回の話題は職業です。職業に貴賤を付けてはならない、というのが昔からの教訓であったのですが、今は、昔は無かったような職業が増えましたから、それを見直すことも必要でしょう。ごく特殊の人を除いては、誰でも働かなければ生きてはいけません。社会にはどのような働き方があるのか、また人はどのようにして自分の働き方を決めるのかを考えて見ます。10ほどの職業について考えます。
1.価値基準
 職業に貴賤を論じようとすれば、それは何らかの価値基準に基づいているのでしょう。各人の持つ価値基準は異なり、主観的なものですから、職業についての批評はその人の価値基準を表すことになります。私の職業批判によって、私の持っている価値基準を見て頂ければと思います。
2.政治
 まず政治家という職業から始めましょう。政治が職業として成り立つようになったのは国家が成立してからです。古い職業です。政治家というものは自分は働かないで、働く人々から取り上げたもので自分の生活を維持するという、ずるい人種です。江戸時代の武士階級はその典型的なものです。現在でも政治をしながら財を成す連中が居ます。これは政治屋と呼ばれる人達で、人々はすっかり騙されているのです。近代の民主主義では政治家はすべて選挙という洗礼を受ける事になりました。みんなが自由意志で投票する。この制度は理論的には理想的なものです。しかし現実には選挙には金がかかり、それを取り戻して、次の選挙に備える為に、当選したら何やら怪しい事をすることになります。それよりも、もっと悪いのは世襲です。夫や、父親が死んだ時に、その残された地盤を利用すれば当選は間違いない、という現実です。候補者を選ぶ有権者の基準が候補者の能力や識見でなく、もっと感情に動かされているのです。可哀そうだから投票して上げようというわけです。これではよい人が当選する可能性はありません。私も、どんな選挙でも、進んで投票したいような候補者にお目に掛かったことはありません。どうしてあんな人がと思う人が当選します。このことは小選挙区になってから、ますます悪くなりました。いい加減な投票をする人が政治を悪くし、人々を困らせているのが、我が国での選挙の現実です。何でも、かでも選挙さえすれば民主的というものではありません。
3.教育
 教育が大事なものであることには誰にも反対がありません。日本が欧米の列強に肩を並べるようになったのは教育の力です。特に小学校、中学校の初等教育です。しかし最近では、このことは怪しくなりました。それは先生の質が下がった、別の言葉では、いい人が先生にならなくなったからです。今の日本には”仰げば尊し、我が師の恩”というような雰囲気はありません。今の社会では先生という職業は月給を取って、適当にさぼっている、ぐうたらな人間の集まりだという認識しかありません。
 教育の基本は教師です。どんな法律や組織を作っても、教師が駄目なら何ともなりません。いかにしても良い先生を獲得しなければなりません。その為の私の提案を述べましょう。先ず現在の月給を50%程上げます。教師志望者は急増します。ここで厳正な口頭試問をします。教師に要求されるのは学力ではありません。教育に対する情熱です。それを調べる為の試問です。当然の事ですが、個人の心情や思想に立ち入ってはなりません。色々な考え方の人がいて良いのです。もともと教育というのは遭遇です。たまたま自分に強い影響を与える教師に出会った生徒は幸運なのです。教育はすべての生徒に平等に与えられるものではありません。人と人の出会いです。
 予備校の評価には色々にありますが、私には予備校が整いすぎているのが不満です。手を取り、足を取り、という言葉がありますが、教育には突き放した面が必要なのです。予備校で痒いところに手の届く世話を経験をした子供は、何でも指導をして貰えるのが当り前で、世話をしてくれないのは怪しからぬ事だと思うようになります。自分で考えて、自分らしく生きていこうと思わないようになります。これが予備校の最大の欠陥です。
4.物作り
 我が国には色々な分野に、物作りの優れた伝統が残されています。職人です。かっては、人々が必要とする道具はすべて職人の手で作られていました。現在では機械で物を作ることが理想とされます。しかし本当は手作りの、暖かいものを我々は欲しているのです。商品の大量生産、大量消費、大量廃棄というつながりは“儲けんかな”という商業主義に操られているのです。もっと物を大切にしなければなりません。それと共に、良い品物を作ってくれる職人を大事にしなければなりません。職人というものは短時間で、簡単に養成できるものではありません。職人の確保には政府の協力が必要です。後継者の養成です。これは市場とやらに任せておいてはなりません。一度失われた技能は決して回復をすることが出来ないからです。
5.マスコミ
 マスコミは印刷技術の発展によって生まれた新聞、雑誌から、ラジオ。テレビ、インタ−ネットと発展して、情報を伝達する、世界を被う巨大な網組織に進化しました。世の中には人々の考え方を支配する様な情報が満ちあふれていますが、マスコミで伝えられる情報がすべて正確で、間違いのないものであるという保証はどこにもありません。
 テレビなどで、”やらせ”とか。”捏造”とかいわれますが、大なり小なり、それのない番組はありません。テレビジョンというものは見る人を喜ばせる為にあると心得ていれば、大袈裟に騒ぐことはありません。正確さは二の次で、面白ければいいのです。騙される方が悪いのです。新聞、雑誌、テレビなどが、すべて真実を伝えていると思うのは飛んでもない間違いです。大体、半分は嘘と思うのが常識です。この嘘には積極的なものと、消極的に、伝えるべき事を伝えなかったというのも含みます。人々の知る権利を守ると豪語しているマスコミが全く伝えていない事柄が沢山あります。例えば、イラク戦争のことについて言えば、イラク人の犠牲は何人か、イラクの石油は誰がどのように支配しているのか、日本の自衛隊が残したのはどんなものか、自衛隊が使ったお金はいくらか等、誰でもが知りたがっている事柄がちっとも報道されていません。これでは知る権利も、へちまもありません。もう一つは能力不足です。自然科学や技術について飛んでもない間違い、あるいは誇張をすることがあります。これも嘘の類です。マスコミを職業とする人々はもっと、もっと勉強して、出来るだけ正直であって貰いたいものです。
6.会社経営
 経済の基幹となる会社には大小様々がありますが、経営者という職業の人間は、古い考え方では、労働者を搾取する人々です。最近は労働の形が変わってきて、搾取という言葉は何となく、ふさわしくなりました。しかし会社の得た利益をどのように分配するかについては働く人々の権利を守らなければなりません。アメリカあたりとは違って、日本の経営者は労働者に比べて法外な収入を得てはいないようですが、労働者との対立を避けることは出来ません。経営者は株主に対しても高い配当を維持していなければ、地位が危なくなります。法人税を軽くして貰って、その分を配当に回そうとするなどは論外です。株主は金を出して株を買うことだけで、働くこともせずに利益を得ています。それが資本主義というものでしょうが、そのような、働かないで儲けるという形には納得しがたいところもあります。また資金を投入してして、授業員ごと一まとめで会社を買い取ることもありますが、これも賛成できません。まるで人身売買ではありませんか。働くサラリ−マンの人権が守られているとは言えません。資金を運営するだけで、額に汗をしないで、結構な生活を送っている人々を私は軽蔑します。それは卑しい生き方です。
 経営者に対立するものが労働者階級です。かっての労使対立は現在の技術の進歩によって形を変えました。即ち労働者というものがほぼ均一な肉体労働を提供するものではなく、職種によっては頭脳労働、対人折衝、コンピュ−タ−使用などという、ひとまとめになりがたい仕事に分かれてから、団結力を失ったのです。労働組合の無力化です。しかし自分たちの権利を守るための労働組合の奮起を要望します。必要ならストライキもすべきです。
7.法律
 法律というものは社会の秩序を維持する為に欠くべからざるものです。しかし、法律は決してすべての人々を幸福にするものではありません。人々の常識で悪いとされていることをした人を罰するのは当然です。他人のものを盗んだり、他人を傷つけたりが悪いということに反対する人はありません。しかし生活が複雑になると、ある行為が良いことなのか、悪いことなのか分かりにくくなることがあります。その例がいわゆる経済事犯です。それについてはどれが悪いことか、がはっきりしません。インサイド取引とか、紛飾決算などは何故悪いのか、その理論的な根拠がありません。一般株主の利益という言葉が持ち出されますが、何故株主を守らなければならないのかは分かりません。彼らは決して生活に困ったりしているわけではないのです。裁判の結果にも呆れることも少なくありません。法律は弱い人々を救うためにこそ運用さるべきです。
8.健康
 人々の健康を保つのは医者です。最近の医学の進歩には驚くほかありません。特に我が国の医療保険のシステムは世界に誇れるものです。私自身も心臓のバイパス手術を受けましたが、一昔前では私の命はなかったでしょう。子供の時から病身だった私は、お医者様との付き合いは多かったのです。医者という職業は人の命を救う崇高な仕事です。アメリカあたりでは医者と弁護士は金持ちへの近道のようですが、我が国でもその傾向が出てきているようにも感じます。しかしちょっとした手術や投薬のミスで患者を死なせると、訴えられます。ミスを絶対にしない職業などはありません。よほどひどい失敗でない限り、訴えてはなりません。訴えられることを避けるために、危険の多い診療科の医師になることを止めるようになって、結局は自分で自分の首を絞めることになるのです。
9.芸能
 生活の余裕を表すものが芸能という職業でしょう。江戸時代の武士、商人、職人などはそれぞれの豊かさに応じて、分相応の芸能を育ててきました。能狂言、歌舞伎、文楽、踊り、落語等です。西洋の芸能が流れ込んできて、若い人はそれにすっかり虜になりました。もともと色々な種類の芸能が流行することは悪いことではありません。我々の生活を豊かにする伝統的な芸能を無くさないようにしたいものです。NHKあたりの放送もありますが、もっとやってもいいのではありませんか。経済的に苦しい伝統芸能を未来につなげることも政府の仕事です。積極的な振興策を期待します。
10.NGOとNPO
 最後に最近出てきた職業として、社会奉仕の拡張としての継続的な無報酬労働の意義が重要視されるようになりました。NGOです。これは従来の、労働とお金との交換という考えを根底からゆさぶる革命的なものです。誰にも命令されずに、社会の、あるいは個人の役に立つことをする人達が現れたのです。まだ社会を揺さぶる程の影響はありませんが、これはどんどんと成長するでしょう。私はその人達を尊敬します。例えばアフガニスタンで医療や灌漑に奮闘している中村哲という人がいます。日本政府が及び腰なのに対して個人でアフガニスタンの人々のために貢献している、その姿には頭が下がります。
 このNGOやNPOは新しい経済活動の核となる可能性を秘めています。現在の、ものやサ−ビスの産出がすべて資本主義の枠の中で行われているのに対して。社会が必要とするものを供給する新しいシステムです。
 私には株式を元にする資本主義が唯一、最善で、永劫に続くものとは思えません。資本主義というものは原則として、富める者はますます富み、貧乏な人は置いていかれるシステムです。それに代わる有力な組織がNPOです。NPOがもっと、色々な形に分化し、広がって、株式会社にとって代わる時が来るかも分かりません。即ち資本主義の終焉です。私は生きている内に、その時が来るのを見たいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
1.需要と供給
 社会に全く需要のない職業を選ぶことはできません。それは自分の提供するサ−ビスが社会的に全く無価値であることを意味します。逆に供給のない職業を空想するのも無意味です。社会が停滞して、新しいことが殆ど起きない時には一番無難な選択は世襲です。需要が代わらないのですから供給を変える必要がありません。父の職業を子が継ぎ、それを孫が継ぎ、と繰り返していけば良いので、農民の子は農民、武士の子は武士、という最も安定な形と言えます。この形は逆に社会の変化をくい止める大きな力として働きます。日本でも江戸時代は大体に於いてこの型式が守られ、社会が安定していました。別な表現では構造が秩序立っていて、乱雑が入る隙が無く、そのため社会にさしたる進歩も無かったのです。しかし環境条件の変化に応じてこの型式を保持することは害があって、益のないことが段々と分かって来ました。それを理解できないのは日本の国会議員だけです。天皇の位を職業と呼べるかどうか分かりませんが、万世一系が世界に冠たるものだという見当違いの自慢もあります。それが議員諸公の世襲礼賛につながります。 
 
2. 職業の選択
 職業とは別の言い方では、自分のサ−ビスと他人のサ−ビスとの交換ですから、本質的には物資の物々交換との違いはありません。勿論広い意味のお金に換算することが出来ます。職業選択が成功したというのは自分が喜んで提供したサ−ビスが高い値段で買って貰えたということです。ここで重要なことを2つ注意しましょう。1つは喜んで、と言うことで、もう1つは高く、ということです。
 若い人が学校を出たり、次の学校に進むときにこの2つを情報として集めなければなりません。喜んでというのはかなり主観的です。まず自分が何に向いているか、自分が何をしたいのかが分からなければ話になりません。そのためには自我が確立する事が必要です。最近の若い人の中にはこの部分が欠けていて、自分が将来、何をしたいのか分からない人が居ます。それは小さいときから親や先生に、これをしなさい、あれをしてはいけませんと指図されて、それに疑問もなく従ってきたからに違いありません。勉強をするにしても、自分の弱点は自分で判断するのではなく、塾の先生が指摘してくれるのを待っているという有様です。それに慣れてしまうと、何でもが受け身になり、何時でも、何処ででの指図を待っているようになります。これが教育の持つ負の面で、昔の職人が弟子に決して教えなかったというのは良い教育であったわけです。
 
 さてもう一つの要素、高く売れるかどうかですが、ここは乱雑な部分で、何十年も先のことの予測は天気予報よりずっと難しいのです。個人の能力を超えます。しかしいくら当たらないからと言って、誰かが天気予報や経済予測をしなければならないように、職業予測をする必要があります。その予測は”パソコンがやれれば就職に有利ですよ”というような単純な物ではありません。もっと定量的な物です。私はそれは政府の仕事だと思います。政府は何処よりも情報を集めており、またそれを解析する人材も揃っているはずです。当たらなかったからといって責任をとる必要はありません。予測を信用するかどうかは最終的には個人の責任なのですから。