乱れ六講   その一

乱れとの遭遇

 

 乱流の理論と言えば泣き出したくなるほどに難解ですが、ここは数学を使わない”涙抜きの乱流”の話です。乱れという概念は流れ屋さんの専売特許ではなく、我々の回りのいろいろなところに顔を出すので、出来るだけ一般的な考察をしてみようと思います。この6回の講義を読んだからといって、効率の高いタ−ビンを設計できるわけではありません。そのための教科書はよそにあります。これからの講義を読んで頂ければ、乱れについての一応の理解と、また乱れというものがいかに理解しがたいものであるかということが理解できる仕掛けになっています。

 

1.身の回りの乱れ

  我々がどんなところで乱れにお目にかかるかという話から始めましょう。先頭か末尾に乱という字のついた漢字の熟語の数は100を越えています。日本人にとっては”乱”という字、”乱れ”という言葉には格段の思い入れがあります。おそらく我々は世界中で最も乱れを身近に感じているのではありませんか。次の表はその一例です。

  私たちに一番身近な乱流はコ−ヒ−茶碗の中にあります。砂糖を入れてスプ−ンでかき廻してできるのが乱流です。その乱流があるからこそ砂糖を素早く溶かすことが出来ます。口から吹き出された煙草の煙も色々な形に変化して乱流を見せて呉れます。川や海では水の流れが乱れていることはすぐに分かります。流れの速度は空間的にも、時間的にも変動しています。私達が目にする流れは大抵乱流です。

 

 

 

 

 

 

 

 

2.雲

 空に浮いている雲は水蒸気を含んだ暖かい空気と、冷たい空気が混ざり合い、触れあって出来るもので、その混ざり方を眼に見えるようにしてくれるのが雲です。温度、湿度などの条件で、刷毛ではいたようなもの、真っ黒に重なったもの、田の畝のようなもの、大入道のようなものなど、色々な形を見せてくれます。この雲を”乱流の絵姿”と言っても良いでしょう。雲が増えると天気が悪くなるのですが、この天気もすべて地球表面の風の動きに支配されます。大気の中には四季折々の風があります。風にも色々な名前が付けられていますが、すべて乱流です。天気予報が外れるのはこの乱流が的確に予知できないからです。

 中でも強い乱流は台風です。台風がどの様にして出来るのか、細かいことは分かりませんが、熱帯地方で、強烈な太陽によって熱せられた気塊がその原因であることは確かです。

 

 

 

3.音

 乱流は眼でだけ見つかるものではありません。耳の中にも入ります。身近なものは笛です。笛は世界中どこにでもある、ありふれた楽器で、色々な形がありますが、音の出るメカニズムは共通しています。口から吹き出される空気の流れが歌口と呼ばれる固体の舌のようなものに衝突して乱流を作り、そこから出た小さな音が適当な共鳴箱で大きな音になるのです。決して笛自身が振動しているのではありません。フル−トもクラリネットも尺八も横笛もみんな同じです。

 我々は流れを色々に利用しますが、人類が作り上げた最高の傑作は飛行機です。固定翼の回りの流れによって浮き上がる揚力を得、プロペラやジェットエンジンによって作られた巨大な推進力を使って、高い空を、音より速く飛ぶことも出来ます。この飛行機は色々な形で乱流と関係しています。まず飛行機を後ろに引き戻そうとする抗力です。飛行機は流線型という形をしていて電車や自動車に比べると空気抗力はずっと小さいのですが、どうしても免れない抗力があります。それは機体と空気との摩擦力です。固体同志の摩擦と違って、空気との摩擦力は機体表面にできる境界層という空気の薄い層できまります。この層が層流であると、摩擦力は小さいのですが、それが乱流になると急に大きくなります。どうやって境界層を層流に保つかというのが航空技術者の最大の課題です。 

 ジェット飛行機がそばを飛ぶと耐え難いほどの音がしますが、その音は決してジェットエンジンの振動で出るのではなく、さっきの笛と同じように乱流から出るのです。大きな推進力を得る為には吹き出すジェットのスピ−ドを上げる必要がありますが、そうするとますます音が大きくなります。音を小さくする努力もされていますが、なかなか成功しません。ヘリコプタ−の、ばたばたという音も同じように乱流から出ています。

 

 

 

 

 

 

4.宇宙

 我々の太陽系がどのようにして作られたのかという問題には活発な論争があります。私の描くシナリオはつぎの通りです。太陽系が出来る前のいわゆる原始太陽系は何十億年か前には温度の高い、気体か液体か、またその混ざり合った、いずれにしろ流体でした。形は円盤状で、中心にある太陽の回りを高速に回転していました。万有引力と遠心力との釣り合いで流体塊の形が保持されていました。この大きな塊は荒々しい乱流でした。強烈な化学反応、核分裂、さらには核融合などで放出される膨大なエネルギ−を基にした速い流れや、温度の強い不均一が作られました。熱放射によって全体としての温度が下がるにつれて、特に温度の低い部分が固まりはじめ、それを核として幼い惑星が作られました。それが成長して大きくなると、重力によってさらに周囲の物質を引きつけて成長し、温度は下がり続けて現在の惑星系ができあがったのです。ここで重要なのはこのシナリオで惑星の公転と自転を説明できることです。流体が乱流であれば、その中の各点に渦度が存在します。不正確さを覚悟して簡単に言えば、大小色々な渦が乱流の中に存在します。渦は角速度を持ち、それが固まったとしたら角運動量は保存されますから、出来上がった太陽系で、公転や自転が存在するのは当然のことです。

 もっと大きい規模の乱流は星雲です。渦を巻いたのや、不規則な形をして猛烈なスピ−ドで動いている写真が撮られています。個々の星の動きや、性質を調べることは重要ですが、地球などを分子のように見立てて宇宙全体を流体のひとかたまりと見なすこともできます。この流体の動きが我々の見る最大の乱流です。

 

 

 

 

 

 

 

 

5.人体

 我々の体の中にも乱流があります。液体としては血液とリンパ液と尿です。血液の中には血球や血小板のようなものが混ざっており、単純な液体ではありませんが、大動脈のような太いところの流れは乱流です。一方では毛細血管では層流です。血流は心臓の拍動で送られるので、流速が時間的に変動する複雑な流れです。血管の内壁に突起やくぼみができると、乱れが強くなり、それが血管壁を叩くので血管の破裂という悲劇的な結果になることがあります。この乱れを勝手に制御することはできませんが、精神を平静に保つことによって乱れを減らし、血の流れをスム−スにすることが出来ると思われます。たとえば座禅などで精神を統一すると、血流の中の乱れが減少して、脳へ行く血液流が増えて、脳の働きが活発になるでしょう。

 我々が生きていくもとは気管を通しての空気の流れ、即ち呼吸です。気管は段々と枝分かれして細くなっていきますが、太いところの流れは乱流で、音を出しています。お医者さんは聴診器でその音を聞きます。この音は空気の流れの中の乱れから出るのです。練達した医師は聞えた音がどのような病変に対応するのかを的確に判断します。しかしある病変からどうしてそのような音が出てくるのかと言うことははっきりとは分っていません。

 血流や呼吸流にもまして重要なのは我々の精神の乱れです。昔から心が千々に乱れるという表現があり、万葉集にも他の歌集にも恋のために乱れた心が歌われています。精神が極端に乱れると狂気となりますが、そこまでいかなくても精神の乱れはすぐに現れます。快調に飛ばしていたピッチャ−が突然フォアボ−ルを連発することがあります。これは気持の乱れによるものでしょう。しかし精神は落ち着いていればそれでよいというものではありません。精神が高揚して乱れているときに素晴らしいアイディアが生まれたり、詩や曲が作られることはしばしばあります。その点では精神の乱れは非常に大切なものです。

 

6.生命

 太陽系の起源に劣らないほど我々の興味を引くのは生命がどのようにして発生したか、ということです。ここにも乱流が顔を出します。生命というものをどのように定義するかは非常に難しい問題ですが、ここでは核酸と並んで生命を支える二本柱と言われる蛋白質が作られることを生命の始まりとします。蛋白質は20種類ほどのアミノ酸が都合よく並んだものです。アミノ酸そのものは炭素、窒素、酸素、水素、硫黄などの化合物で、それは高い温度、放電などで無機物質から作ることができますが、大事なのはこのアミノ酸の並び方です。アミノ酸の可能な並び方は気の遠くなるほどの数で、その中から都合の良いものをどのようにして選び出すことができたのでしょうか。蛋白質が作られたのは液体の中に違いありません。とすればアミノ酸に色々な並び方を提供できるのは乱流以外にはありません。それがなければ何億年待っても蛋白質は作れません。その点で、生命の誕生は乱流の中と言うことが出来ます。

 このようにして発生した生物が長い間に進化して人間が誕生しました。ここにも乱れが重要な役を演じます。親から子へ、子から孫へ、孫からその子へと遺伝情報が伝えられますが、その情報の流れに乱れが全くなければ、変異とか進化はありません。いつまで同じものが再生産されるだけです。最初の単細胞生物から哺乳類に至るまでにどれほどの変異が必要であろうかを想像すると気が遠くなりますが、それが情報の乱れによって実現したのです。この乱れがどのようにして作られるのかという興味のある、根元的な問題があります。一方で個人の中の遺伝情報の乱れが個人を滅亡に導きます。それが色々な所に発生する癌です。それ以上増殖しないはずの細胞が際限なく増殖して臓器の機能を破壊し、ついには個人の生命を奪ってしまいます。遺伝情報は膨大な量ですから乱れが入り込んでも不思議ではありません。しかしそれは偶然にそうなるのか、何かはっきりした理由があるのかを解明しなければなりません。

 

7.社会

 ここで眼を社会に転じます。分かりやすいのは経済です。この経済は昔から天気予報とならんで予測が当たらない代表でした。それは経済に乱れが入り込むからです。偉い経済学者が経済を分析して、こうすればこうなる、というのですがそれがあたりません。その点では天気予報と同じです。大抵の経済理論は乱れを適切には扱っていません。例えば株の値段の予測です。これが出来る人は何にも働かなくてもすぐ億万長者になります。私の親類にも株屋がいました。過去の株価を曲線にして、何とか将来の株の動きを捕まえようと懸命な努力をしていましたが、結局はうまくいきませんでした。このところのコンピュ−タ−の発達で、それを利用すればなんとかなるのではないかというアイディアが生まれました。ヘッジファンドのような金儲け集団は経済学者だけでなく、数学者までも動員して、大口の儲けを企んでいます。この人達は昔の株屋とはうんと違います。自分の持っている巨大な資金を投入して株や、為替や、相場に乱れを作ります。株の値段がずっと一定なら儲けようがないからです。その乱れに外部の人達がどのように反応するかを計算します。このように自分の方から能動的に活動する点で天気予報とは違ってきました。安く買って高く売るという原則に従って計算し、行動するので、たまにはもの凄く儲けますが、大手のヘッジファンドも破綻することがあります。ヘッジファンドといえども乱れは正確には計算できないからです。

 

8.歴史

 治乱興亡という言葉がある通り、歴史は治と乱の繰り返しです。平和が治で、戦争が乱です。宗教や民族の違いで地域的な乱はいつも存在します。世界大戦は地球規模の乱です。日本の歴史でも南北朝や戦国時代などの乱がありますが、一番はっきりしているのは中国の歴史です。王朝が次々に興っては亡び、興っては亡びを繰り返します。亡びるのはその王朝が徳を失ったからであり、古い、腐敗した旧を倒した新しい王朝は天によって祝福されているという考え方さえ生まれました。治の間は社会が安定していて、地位も財産も世襲で、階級の間の混合がありません。しかしこれは停滞と腐敗との温床となります。この点からは革命という乱がどうしても必要なものになります。社会の古い制度や思想が世の中に適応しなくなったときにはそれをぶちこわす乱が必要なのです。歴史だけでなく、人間の作り出すものは必ず保守と創造という二面を持っています。学問にも芸術にも伝統とその破壊があります。古いものを破壊して新しいものを創造することは伝統と保守から見れば乱に他なりません。