乱れ六講   その六

乱れとは何か

 

 私の講義も今回で最終を迎えました。ここで私たちは永遠の課題である、”乱れとは何か”という質問に直面します。今回はいささか理屈っぽくなりますが、勘弁願います。

 

1.訳の分からないもの

 私達は乱れの研究者ということになっています。しかし誰もが乱れとは何かという問いかけに答えが出せません。国際学会のあとの晩餐会でこの質問を出す若手研究者がいますが、誰もが、彼に聞けと言って逃げを打つのです。素粒子をやってる人々は我々は物質の究極の構成要素を探していると言えますし、バイオ化学の研究者は遺伝子の横造をはっきりさせるのだという使命を持っています。それに比べて我々の惨めさはどうでしょう。ただ私の尊敏する山内恭彦先生と同席する機会があって、”君は何をやっているの。”と訊かれたとき、”乱れという、訳の分からないものです”と恐る恐る返事をしたら、”訳の分からないもの、それはいい、大いにやって下さい”と元気づけられたことが今でも忘れられません。

 

2.素朴な定義

 乱れについて最も素朴で、分かり易い定義は”乱れとは周期性のない、空間、時間的な変動である。”というものでしょう。この定義は誰にも差し障りがありませんが、これで乱れとは何かが分かったような気はしません。それではどうすればいいのでしょうか。

 一番純粋な乱れは乱数ではないか、という意見があります。乱数というのはいろいろな工夫で作られ、周期性や規則性が全く無いことが示されています。しかしこれは私達が求めている乱れではありません。というのは実在する乱れは、それを乱そうとする力と、止めようとする力との争いで作られるものであって、ただ乱雑ならそれで良いのではないからです。流れの乱れはそれを止めようとする粘性力と、それを乗り越える慣性力とのせめぎ合いで作られます。社会の乱れはそれを止めようとする道徳や法律という力と、それをうち破る人間の意志という力との対抗によって作られます。力の種類によって乱れの性質が決まるのです。力の差によって、作られる乱れの強さ、大きさ、乱雑度がきまります。乱数のような”乾いた”乱れでは現実の、”生身の”乱れを理解することは出来ません。

 

3.秩序の認識

6−0図 乱れについて知るためには、前回で紹介した乱れの中の秩序について、もっと深く掘り下げる必要があります。三つの根元的な問題が指摘できます。

 その第一は、我々はいかにして乱れの中の秩序を認識できるかということです。一つの考え方は、適切な抽出条件さえ見つかれば、乱れの中の乱雑部分と秩序部分とは完全に分離できる、というものです。別の表現では、秩序部分は砂の中に隠された金貨のようなものであって、適当に砂を取り除けば、はっきりした形で金貨が現れる筈だというのです。これは基本的には世の中の何もかもが、完全に分離できるという観念に基づいています。白と黒、金持ちと貧乏人、善人と悪人、といった具合です。しかし私はこの考え方には賛成できません。私の考え方は乱雑と秩序は連続していて、画然とした境界などはあり得ない、というものです。左図を見て下さい。これはいわゆる隠し絵です。この絵の中には10以上の動物が隠されています。この隠し絵がもっと込み入ってくると、その絵を作った人が予想もしなかったものまでが発見される可能性があります。そこで我々は”隠し絵の定理”を提案しました。即ち

 ”我々は乱れている場では自分の持っている記憶形象に近い形象を認識する”

というのです。ここでいう形象とは、姿とか、形という、英語の PATTERN です。これは静的なものだけでなく、動作とか、しぐさというような動的な物も含みます。記憶形象というのは自分が生まれてから現在までに獲得して脳に収められている形象です。日がとっぷりと暮れて、川岸の柳の木に、出るんじやないか、出るんじやないかと思っていると、木の下にスーツとお化けが現れます。我々はお化けの絵を何かの本で見て、記憶形象として持っているのです。これが隠し絵の定理です。乱れている場には強弱いろいろ、大小さまざまな形象が含まれています。強さは”はっきりさ”とでも言えましょう。白い画用紙に太い線で大きく描かれた円は、誰にでもすぐに認識できる強い形象です。空に浮いている魚に似た雲は弱い形象です。別の人は猫だと言うかも知れません。様々な形象の中で、ある程度以上強く、また記憶形象に近いものが多くの人に認識されるのです。強さがある値以下だと、それは乱雑です。その意味で乱雑と秩序は連続しているのです。この隠し絵の考え方は、先の砂の中の金貨とは完全に対立しています。この対立にはまだケリがついていません。これは流体力学の中の論争というより、個人の信条、もっと大袈裟にいえば文化の対立とも言うべきものです。

 

 

 

 

 

 

 

4.秩序の生成

 第二の課題は乱れの中の秩序はどのようにして作られるのかというものです。それにはいろいろな主張が入り乱れています。私個人の意見を述べてみましょう。世の中には完全な秩序はなく、また完全な乱雑もありません。中からと外からの力に応じて乱雑度が変化するのだ、というものです。ここでいう力とは一般的なもので、物理的な力はもちろん、欲望、愛、憎しみ、規制などを含みます。ある種の力は形象を弱めて乱雑度を増やし、別の力は逆の作用をします。どのような場にも数多くの弱い乱雑の芽と、秩序の芽があります。力に応じてそれらが成長するのです。いわゆる層流から乱流への遷移は乱雑度増大の過程にほかなりません。逆に乱流が減衰して層流化するのは乱雑度の減少です。

 

5.秩序の役割

 最後がこの乱れの中の秩序がどんな役割を演じるのかという問題です。何故乱れは完全に乱雑にならないのでしょうか。自然界の現象についてはこの”何故”という質問には意味がありません。あるがままに受け入れるしかありません。しかし人間の関係した乱れについては、秩序を作る意図を問うことが出来ます。例えば戦国時代のような乱となると、徒党という秩序を組んで自らを守ります。個人よりも徒党の方が強力だからです。終戦後の日本のように乱れた社会に比べると、現在の社会では秩序立った組織が能率良く物資やサービスを提供します。即ち、秩序は乱を切り抜けるための手段なのです。しかしこの秩序が強くなりすぎると、進歩が無くなり、組織が固定し、腐敗します。乱は古い秩序を破壊して新しい物を創ります。乱は創造の母です。

 

6.乱雑と偶然

 乱雑と秩序は場の”状態”を記述する言葉ですが、似たようなものとして、偶然と必然があります。これはいわば変化の”過程”に関する言葉で、次元が違いますが、何となく平行性があるように感じられます。乱雑と偶然、秩序と必然との対応です。ここで偶然について考ぇてみます。自然科学の発達の歴史は偶然を追い払う歴史です。ニュートンの力学を知らない人にとっては,日蝕が起きるのは全くの偶然です。しかし今では簡単な計算で日蝕を秒以下の誤差で予知することができ、偶然は完全に放逐されてしまいました。偶然を口にする人は愚者である、と言った哲学者もいました。しかしサイコロを振って何の目が出るかは、後白河法皇も嘆いたように、いつになっても偶然です。このサイコロの偶然に対して、数学者は確率という武器で立ち向かいました。1の目が出る確率は1/6で、1が続いて出る確率は1/36という具合です。しかし偶然がすべて確率であらわされるわけではありません。乱流で次の瞬間に速度がどんな値になるかということは偶然のように思えますが、そうではありません。かといって、もちろん必然ではありません。そこで偶然度というものを考えます。たとえば日蝕という現象の偶然度はゼロです。明日の天気はかなり大きな偶然度を持っています。地震の偶然度もあまり小さくはありません。

 隣に住んでいる人に道で会う偶然度は低いのですが、ニューヨークの街角で卒業以来の友人とぶつかるというのは大きな偶然度です。必然の連鎖では雑然度は大きくなりませんが、偶然という過程の後に乱雑度が急に大きくなることは珍しくありません。古くは塞翁の馬の話もありますし、偶然の交通事故で一生をめちやめちやにされるということがあります。偶然と雑然は親戚と言っても良いでしょう。  

 

7.乱れの普遍性

 ここで一つ気になるのは乱れの普遍性です。乱流の研究をするためには風洞の中に乱れを作らなければなりません。風洞の作られ方は色々で、全く同じ物が作られることはありません。風洞の中に作られた乱流は、乱れの強さなどには風洞による違いはありませんが、研究が段々と細かなところに進むにつれて、特に秩序運動が問題になってくると、どこの風洞の乱流もみんな同じなのかという疑問が生まれます。違った風洞で作られた乱流が違っていても不思議ではありません。イギリスで精錬された金と日本で作られた金に違いをさし挟む人はありません。それは金が非常に単純な物質だからです。複雑なものほど普遍性が薄くなります。人間を見ても、手が2本、足が2本という点では世界中の人間が共通ですが、細かな肉体的な特徴には民族によって違いがあります。まして精神構造に至っては普遍性は怪しくなります。乱流は秩序を含む複雑な存在ですから、個性を持っていても不思議ではありません。社会でも革命の起き方や発展の仕方には時代や、地域や、宗教や、民族性などが関係しており、決して同じものはありません。しかしそこから何か共通のものを見出すことができれば、社会の乱れについての我々の理解も深まるというものです。

 

8.客観性と因果律

 乱流の研究は自然科学の、しかも厳密性の高い物理学の一分野です。この物理学で何よりも重視されるのが客観性です。長い歴史を持つヨーロッパの自然科学は個人の主観を超えて客観性を追い求めることによって発展しました。どのような研究成果もそれが客観的なものである事が証明されなければ何の価値もありません。乱流研究はれっきとした自然科学と思われていましたが、それが怪しくなりました。乱れの中の秩序運動を客観的に認識することが出来ないかもしれないからです。しかしこの秩序運動こそが乱れの本質を担っていることは疑いがありません。ここで自然科学の客観性に対して深刻な疑義が持ち上がります。客観性というものは必ずしも白か、黒かではありません。客観度というものを導入してみましょう。今までの厳格な自然科学では客観度が1です。芸術のようなものは客観度はゼロに近いのです。乱流の場合は0.8くらいいといったところでしょう。このようにして色々な分野での考え方を融合することができます。 

 

 もう一つの問題は因果律です。原因があって結果がある。その結果を原因として次の結果が生まれるという、原因と結果の連鎖が因果律です。自然科学は当然のこととしてこれを受け入れています。しかし、この因果律を厳密に考えると、歴史というものは何億年か前の初期条件からスタートして、時間の経過と共にどうなっていくかのすべてが決まっていて、それを変えることはできない、という有名な結論になります。しかし乱れはこの因果律に大きな疑問を投げかけます。現に、天気予報が当たりません。それは計算機が不完全だからではありません。ここで思い切って因果律を疑ってみるのもよいでしょう。厳格な因果律の代りに偶然度を使うのです。色々に組合わさった原因からの結果は、偶然度が大きければ不確定の度合いが大きく、偶然度が小さければ結果の散らばりが少ない、偶然度がゼロのときは完全な因果律が成り立つと考えていいでしょう。

 

9.将来計画

 最後に将来の乱れ研究は何を目指すべきかという問題が残りました。乱れ研究の対象は自然科学だけではなく、人間の問題にも、社会の問題にも統一的にかかわります。現在、.ギリシャの伝統と、キリスト教に基礎をおくヨーロッパ科学の手法は行き詰まり、転換を要求されています。普遍性や、客観性や、因果律なども疑われています。それを打開するために複雑系というものも提案されていますが、私はアジアの思想に救いを求めるべきだと思います。アジアの仏教的な世界観の中の輪廻転生という思想では人間が生まれ変わって牛になったり、虫けらになったりします。これは人間は自然とは隔絶して、神に似せて作られたというキリスト教の教義とは、はっきりと対立しています。牛や虫はとにかく、この輪廻思想は、世界は柔らかくて、いろいろな基本的な変化が可能であることを意味しています。キリスト教信者にしろ、仏教信者にしろ、これらの教義を頭から信じている人は少ないでしょうが、考え方はなんとなく意識の深部に沈殿しています。色即是空という言葉が何を意味するか、浅学の私にはよく分かりませんが、やはり世界の柔らかさを意味しているように思います。私に言わせれば、人間も動物も自然も、森羅万象を含む世界は”乱れ世界”であって、そこでは乱雑と秩序が共存して、柔らかく変化し合っている、すなわち”雑即是序”(乱雑は即ち秩序である)ということができます。しかもその世界の理解には客観的なだけでは駄目で、修行による個人の主観的な悟りが最終的なものなのです。乱れの研究はこの重要なパラダイムシフトの口火を切ることになりました。