『あの日あの時、恋に、おちて・前編』

 

思い掛けない人からの、唐突な呼び出し。

 待ち合わせ場所を指定され、分からないふりをした。彼はしばらく考えて、じゃあ東京の、俺の部屋にと言ってくれた。狙い通りだった。

 少し遅れるかもしれないけれど、入って待っていてくれと。

 いわれて浮かれた。……俺の実家は、豆腐屋で商売していて。親爺はずっと、店舗を兼ねた自宅に居たから、本人が居なくても家族の居る『家』が当たり前で。

『一人暮らし』ってものがどういうモノなのか、よく分かっていなかった。……そう。

 普通、一人暮らしの家は、本人が居なきゃ開かない。

 中に、別人が居なければ。

 

「……」

 マンション入り口のオートロックを解除され。

「……」

 たどり着いた部屋番号。開いたドアの、向こうに立っているのは。

「……どうも」

 かつて日光いろは坂を仕切っていた、今は行い済まして中古車チェーン店広報担当として、レース関係の企画や広告をやってる。そのせいで最近、あちこちで顔をあわせる、男。

「……よぉ」

 男にとっても俺は意外だったらしい。花束を持ってイタリア製のスーツを着こんで、びしっと髪を整えた藤原拓海の姿は。

「……」

「……」

 向き合っていると、嫌な記憶が拓海の胸を過ぎる。

 この男はそういえば涼介さんと、やけに古い付き合いだった、とか。

 関係が、あるんじゃないかと、かなり以前から疑っていた。

 本人にきっぱり否定された今もうっすら、疑いは消えない。だってそうだろ?ジーンズにTシャツ、頭にはバンダナ。いかにも自宅でくつろいでますって格好で、しかも。

「……涼介さんに、呼ばれてきたんですけど」

「……上がれよ」

 案内されて、リビングで、飲み物なんか出された日には。

「悪ィな、缶で。カップもグラスも、殆ど荷造りしちまってるから」

 いわれて気づいた。機能的なリビングのあちこちに積み上げられたダンボール。引越しの、用意。

 言われるまで気づかなかった。つまりそれくらい、俺は緊張していたのだ。

「……須藤さん」

「なんだ」

「ここに、住んでいるんですか?涼介さんと」

 そうだとしたら、もしかしたら。

 呼ばれた理由は決闘しろ、かもしれないなんて考えながら、尋ねる。

 この男とならそれもいい気がする。俺が負けても、涼介さんは、幸せだろうから。

 もう一人の、奴に比べれば。

「いや」

 口数の少ない男は短く否定して、煙草を吸っていいかと尋ねた。どうぞと俺は答えたが、男はテーブル上の灰皿ごと、続きのキッチンへ。換気扇をまわし煙をそこに吸わせながら、

「……藤原」

 こんどは、男が俺の名前を呼ぶ。

「まえ、言ったこと、覚えてるか」

「どのこと、ですか」

 妙なきっかけから、俺はこの男とバトル、した事がある。負けたことも……、ある。リベンジは果たしたけれど負けたのは事実で、その時に。

 言われた言葉を、まだ覚えている。

 レクチャーだとか教えてやるとか、センコーみたいなことを言われて腹が立った。

 立ったけど、多分、それがこの男の狙いだったのだろう。まんまと俺は男の挑発にのって、涼介さんと男の対決の、前座を務める羽目になって、……負けた。

「涼介の奴と」

 彼を呼び棄てる、耳障りな言葉。

「弟の間に立ったら、馬鹿をみるぜ」

 独り言のように呟く男を、見据える。

 もしかしたら、けっこう親切な、ヒトかもしれないと、思う。

 俺は走り屋のチームには結局、入らないまま公道を卒業した。プロジェクトDは遠征部隊で、チームというには当たらない。だから仲間とか、上下関係とか、リーダー争いとかそういうものを、よく知らないけれど。

 集団を率いていく人間ってのは、身内に部下に年下に、妙に優しいトコがある。なけりゃ、誰もついては来ないんだろう。クールでシビアでタイトだった涼介さんさえ、時々は優しかった。

「覚えています」

「……なら、いい」

 それを承知の上ならいいのだと、須藤京一は言って煙草を消す。消した灰皿を流しで洗う。馴れた仕草だった。このマンションのその流しを、使い慣れてる感じがした。

「須藤さん」

「……なんだ」

「涼介さんと、どんな関係なんですか」

 長年の疑問をぶつけてみる。

「……無関係だ」

「嘘でしょ、そんなの」

 紅茶の缶に口をつけながら、決め付けるように言った。腹を立てた様子は、なかった。

「いっつも隣に居るじゃないですか。ここぞって時は、いつも」

「偶然だ」

「今も。ここ、涼介さんのマンションですよね」

 表札は、確かにそうなっていた。

「なのになんで、ここに居るんですか」

「……引越しの手伝い」

 実に嫌そうに、須藤京一はこたえる。

「引越しするんですか涼介さん。……まさか、須藤さんところにじゃないでしょうね」

「藤原」

 名前を、呼ばれる。

 さっきとは違う呼ばれ方だった。

「……はい」

 声音で用件を伝える事ができる。そういうヒトが、世の中には、居る。

「乗れたか?」

 たぶん、それは。

 俺が繰り返した、不躾な質問に対する、報復。

「……」

 返事はしなかった。それが返事に、なった。

「……」

 須藤京一も追及はしてこない。が、口元だけで笑ってるのは、背中を見てるだけでも、分かった。

「手伝いましょうか」

「いいから座ってろ。じき、涼介も帰って来るだろう」

「退屈なんです。なんか話してください」

「……あのな、藤原」

 須藤京一が何かをいいかけた、瞬間。

 がちゃりと、錠前のシリンダーが回転する音。

「お帰りなさい、涼介さん」

 玄関へ飛び出していくとそこには、

「来ていたのか、藤原。待たせたか?」

 白いの美貌が、俺を見て微笑んでくれた。

「食事は?」

「まだです」

「じゃあ、なにか食べに行こう」

 その提案に有頂天になって、

「京一」

 室内に、かけられる言葉に地に脚がつく。まさか、三人で?

「出かけてくる」

「……戻って来んのか?」

「分からない」

「泊まりになりそうなら連絡しろ。布団、そろそろ、片付けちまいたいから」

「分かった。……行こうか」

 笑顔を向けられて、もう一度、天にも昇るキモチ。