『あの日あの時、恋に、おちて・後編』 

 

「……え?」

 照明を落としたショットバー。大理石のカウンターに、並んで腰をおろしなが言われた言葉は。

「もう一回、言って下さい」

 聞こえていたけど、意味がわからなかった。

「結婚するんだ。……啓介と」

 夢見るように、詠うように繰り返される言葉に、

「……バッカじゃねぇ?」

 咄嗟に出たのは、キツイ非難の声。

「反論の余地はないな」

 幸せそうな表情を崩さずに彼は笑っている。どうして?

「どーやってすんだよ、兄弟で。男同士で結婚できる国はないでもないけど、兄弟では何処さがしたったってムリだろ」

敬語を使う余裕さえ、藤原拓海には残っていなかった。

「うん」

 それに反感も咎めることさえせず、高橋涼介は微笑み続ける。

「一応、養子縁組、するつもりだけど」

 幸せそうに嬉しそうに、はじめてみるかもしれないはにかんだ顔で、告げる美貌がものすごく、憎らしくて。

「どーせそんなにもちゃしないと思うけど?」

 止まらない、イヤミ。

「涼介さんももの好きだね。あんな男と、よく一緒に居る気になるよ感心する。またどーせ喧嘩してひでぇメにあって、泣き出すんじゃねぇの?」

 泣いたところなど、見たことはなかった。泣かされたことなら二度ほどある。プロ入りする時、裏切られたことと、もう一度。

 弟のために夜の街で放り出されたとき。

「あんなタチわりぃオトコの、いったいどこが、いいわけ。俺とか須藤さんとかの方が、よっぽど……」

「分からない」

 呟く声が……、なんだか寂しそうに聞こえて。

 藤原拓海は、咄嗟に口を閉ざす。

「分からないよ。誰かとあいつを、比べたことはないから」

 比較の対象にさえ、してもらえないことが悲しかった。きゅっと、下唇を髪噛み、

「やめなよ……」

 覚悟とともに、ようやくこぼす、本音。

「やめておきなよ。不幸に、なるよ。俺、涼介さんのこと、まだ好きだから」

 不幸せになるのを見たくはないのだと。

 言うとうっすら、美貌に微笑みが戻る。

「いいコトなんて一つもないじゃない。誰も賛成とか祝福とか、しないよ」

「誰かに、祝ってもらえるなんて思っていやしないよ」

 静かな口調に、真実を、悟る。

 棄てるつもりなのだこの人は。弟以外の世界中を、全て。

 自分ごと、差し出すつもり。あのオトコに。

 こんなにキレイなのに。なんでもできるヒトなのに。みんなが欲しがるのに。

 ……俺も、欲しいのに。

「なんで、あんた」

 あのオトコじゃなきゃ、ダメなの?

「思い直せよ。……なおして。そこまで自分を追い詰めること、ないと思う」

「なぁ、藤原」

「はい」

「約束、覚えてるか」

「……どの?」

 尋ね返したのは、嫌味ではなかった。

「俺と啓介さんを平等に扱ってくれるって約束?」

「いや」

「俺に、戦い方を教えてくれるって、約束?」

「それは果たしただろう?」

「俺のものになってくれるって……」

「そんな約束をした覚えはないな」

「一回だけ」

「あぁ、それだ」

 優しい口調で言いながら、彼はカウンターの内側のバーテンにジントニックのお代わりを頼んだ。俺の、前にあるのは水だけ。アルコールやカフェイン、ニコチンは摂取しないことにしてる。

 だって俺は、プロのレーサーだから。

 誰かみたいに、肺を真っ黒にしそうなほど煙草を吸ったりは、しない。

「果たしたいんだ、それを」

「なんで、いきなり」

「だから、結婚することになったから」

「……馬鹿らしい、ママゴトじゃん」

「その前に、スッキリしたいと思って」

 その一言が、俺をぐっさり、傷つけた。

 すっきり……、したいって、ナニ。

「そんなに片付けたいの。俺との……、約束」

 俺がこんなに大切に、抱え込んでる、あなたとの繋がり。

「うん。すまない」

「あんた、そんなに……」

 飲んでいなくってよかったと、心から思った。

 どくどく流れて、頭にのぼっていく血液。アドレナリンが分泌されて戦闘的になっていくのが分かる。一滴でもこの中にアルコールが混じっていたが最後、俺は、彼を。

 殴って、犯していただろう。

 彼の思い通りに。

「多分、あいつの、いつもの気まぐれだけど」

 その気まぐれが。

「結婚って言葉を使われちまった以上、身辺すっきり……、させたい」

 そんなに嬉しかったの、あんた。

「涼介、さん」

「……なんだ?」

「あの男のためなら俺なんか、どんなに傷つけてもいいって……、思ってる?」

「ごめん」

 間髪いれずに謝られた。確信犯のはやさで。

「ごめんな。上に部屋、とっているから」

 すっと上着のポケットに差し入れられる、カードキー。

「先にあがって待ってる」

「俺、行きませんよ」

「藤原」

「行くもんか。誰が……」

「今日で期限切れに、するぜ」

「有効期限があったなんて聞いてない」

「今、俺が決めた」

「ひで……」

 飲んでいなくて、本当に良かった。

 泣き出すところだった。

「俺が、あんたにナニしたっての。ただスキだっただけだよ、あんたのコト」

「……そうだな」

「分かってたくせに。分かって時々、利用してたくせに」

「あぁ、そうだ」

「ずりぃよ、こんなの……」

「悪かった。優しくしてやるよ、その分」

「……しろよ」

 意地と決意を、決めて彼に告げる。

「ここで、俺にキス」

 けっこう混んだこの店で、俺に。

 一瞬の躊躇もなかった。

 重なる口付け。唇は優しかった。柔らかくって、涙が出そうなくらい。だから。

「……おめでとうって、行って欲しい?」

 ダイスキだった、今でも好きなひとに、尋ねる。

「お幸せにって、言って、欲しい?」

「そんなことは期待していないよ」

「ここに居て」

 カウンターの下から手を伸ばし、今にも立ち上がりそうなヒトを、引き止める。

「日付が、変わるまでここに、居て」

「……藤原」

「ここに居て……、下さい。お願いだから」

 彼は暫くためらって、でも。

 思い直したように、止まり木に深く腰かける。

「なんか、俺に頼んでください。酒ってよく、知らないから。キツイの」

「藤原」

「悲しいですよ、俺、すごく。涼介さんに今、ふられてんだから」

 振り向かれた、ことは一度もなかったけど。

 これで完全に、さよなら。

「一晩なんかで誤魔かされねぇよ。俺、あなたの全部、スキでした」

「藤原」

「ダイスキ、でした」

 今も、まだ。たぶん、これからも、ずっと。

「秋名で昔、言ってくれたでしょ。広い世界に目を向けていけ、って」

「覚えてるよ。俺がお前に負けたあの時だ」

「嬉しかったです、あんとき。俺にそんなこと、言ってくれたの、涼介さんだけだから」

 それから一年。Dで鍛えられて、翼を、確かに、彼は俺に、くれた。

「俺、あいつがあなたに似合うとは、とても思えないけど」

「……」

「あなたがあいつをそんなに好きじゃ仕方ない……、のかな」

 俺がこんなに好きでも、それでも。

 あなたがあいつを好きなら、仕方ない?

「一回だけしか、言わないよ。あなたのことを凄い好きだから、言うんだ」

「ドクトル・ジバコ」

 俺のために、彼がウェイターに、酒を頼んでくれる。

「お幸せに……、ホント、幸せに」

 あいつはともかく、あなただけは、絶対。

「オメデトウ……」

 途端に抱き寄せ、られる優しい腕。

 あなたを、こよなく、愛して、いました。

 

 

 

 

「……ナンでおめぇら、ここに居やがる」

 金茶色の髪が、逆立つ。

「見て分かんねぇか。引越しの手伝いだ。退け」

 ノートではなく、書斎の大きなパソコンを梱包する。慎重な上にも慎重に、藤原拓海と須藤京一は緩衝材を積めたダンボールに、それを納めていく。

「ちょっと隙間、あきますね」

「シーツでも詰めとくか。ナンかあったら、うるせぇぞ、あいつ」

「はい」

 布団袋から洗い立てのシーツを一枚、引き抜く。

「おい、聞けよ須藤、フジワラッ」

 怒鳴られ、振り向き、答えた。

「見て分かりませんか。引越しの手伝いですよ」

 どうにか、ちゃんと、笑えた。