優しい雨
そのとんでもない質問を。
「あんた、アイツは寝たことあったのか?」
聞いていたのは限られた人間。
「そんなくだらねぇことは忘れたなぁあー!」
答える声音はいつもの大きさで、たくさんの人間の耳に入った。何人かはその声に顔を上げそっちを見上げる。ああ、来ているのか、と。
ボンゴレ10代目主催の避暑パーティー。一般客たちは大広間に溢れ飲食と歓談に余念がない。美しい姿の女たちと腕のいいフランス人のギャルソンと料理と酒が一流ホテルのケータリングサービスから取り寄せられて、楽しい雰囲気の盛会。
大広間とは別に、そこを見下ろす桟敷席が中二階にはしつらえられている。広間の人ごみに下りていけない立場の招待客はそこに居る。秘密同盟のファミリー関係者、闇社会に公には出入りできないが繋がりは保ちたい政治家や財閥、抗争中で姿を見られたくないボスたち、そして。
「ヴァリアーが来てるな。珍しい」
昔なじみの剣豪の声を聞き逃さず、金髪の跳ね馬は中二階を仰いだ。その、相変わらず端正な顔立ちの頬にパラッと、赤が散る。
「ボスっ?!」
「ワインだ」
落ち着いたしぐさでディーノは自分に降ってきた真っ赤な雫を指先でぬぐい、舐める。雫でも味蕾に染み入る、天上の美味は早飲み傾向の最近の流行りではないフルボディの、果肉の厚い、存在感のある濃い味。
「ヴェネトのアマローネ。飲んでいやがるのか。ますます珍しい」
酔っても手元は確からしく、中二階からグラスの中身をお見事に、自分を探す馴染みに向かってとばした。
「山本が買ってきた酒だからな」
「よお、リボーン。あいつご機嫌だな」
「超ご機嫌だぞ。山本がプロ初場外ホームランの賞金であいつの好物を買い込んで来た」
そう答える赤ん坊家庭教師の手元のワイングラスにも、赤というより朱の強いオレンジ色、シャンデリアの光を受けてきらきら輝く液体が注がれている。
「やっぱりあれはあいつのアレか」
「そうだ。アタッコ・ディ・スクアーロの野球応用編だ」
「あいつが弟子をとるとはね」
「弟子なんかとっていないし、教えられてもいないぞ」
お前も飲め、と、赤ん坊がギャルソンを手招いてディーノに空のグラスを持ってこさせる。瓶の中身、美しい色の輝きがそこに満たされた。
「受けたことのある技は忘れないのが剣士ってものらしい。山本は何年も前の記憶を追って自分で完成させた。もっともあいつが俺のだと認めたことは、継承の追認と解釈されるけどな」
「なるほど」
カチン、とガラスの縁を合わせて二人は乾杯する。仰向いて飲み干すディーノの視界の中に、今度は。
「お、っと」
空のグラスが降ってくる。金で縁取られたベネチアの鉛ガラスで作られた杯は重い。咄嗟に受け止めたディーノは、思わず。
「てめぇ、スクアーローッ」
見えない桟敷へ向かって大きな声を出してしまう。怒鳴り声は、それより何倍も大きな高笑いが降って来て掻き消された。本当に上機嫌だ。
「の、ヤロウ。文句言ってやる。いいな、リボーン」
「好きにしやがれ」
「行くぜ、ロマーリオ」
中二階へと隠し階段を駆け上がっていく。
「なんでも教えてくれるって言ったくせに、ケチぃぜ」
「忘れたことは答えられねぇんだ」
豪華な絨毯に置かれたふかふかの三人がけソファを独り占めしてヴァリアーの長髪の剣士はグラスを背後に差し出した。そこにはボンゴレ10代目側近、山本武が珍しくスーツにネクタイまで締めて立っている。
「じゃあさ、あんたはまだ、あのあいつ、ザンザスのこと好きなのか?」
差し出されたグラスにワインを注きながら山本武がまたとんてせもないことを尋ねる。
「そんなことを知ってどうする気だぁ、てめぇは」
「参考にしようと思ってる。教えてくれよ」
「なんの参考だぁ、なんの」
「俺のイロゴト」
「あーっはっはーッ」
酔っているのかもしれない。スクアーロの割れるほど大きな笑い声がどこか優しい。荒くれ男の豪快さを全身から溢れさせながらその実、容姿は、向かいのソファでソフトドリンクを飲むとこかの国の王族の末裔よりよっぽど王子様だ。ほんの少しだけ赤みのさした目元は綺羅めくほどに華やか。三十路を先日、迎えたというのに。
「俺を口説こうってんならちったぁ参考になるかもしれねぇがな、違うだろぅがぁ、ガキぃ。別の相手に俺の話がなんなざ、クソのヤクにも立たねぇぞぉ」
「そーかもな。でも知りたいんだ教えてくれよ。あんたがそんなにザンザスに一途なのは、あいつと寝たことがあるからなのか、そうじゃないからなのか」
「そういうお前は、そっちの嵐と寝たの?」
二人の会話を黙って聞いていた王子様が、突然口を挟んでくる。
「姿、見えないけど、あの肩に力の入ったお坊ちゃん♪」
「あんたらが寝てんのかどうか、教えてくれたら答えてもいいけど」
「嘘つけ。そんな気なーいくせに」
「ベル」
妙に静かに、長髪の剣士が後輩を呼ぶ。その声の色合いに山本が息を呑んだ、瞬間。
「お前なぁ、スクアーロ!この野郎!」
会談を駆け上がってきたのは同盟ファミリーの若いボス。
「はっはーぁ、来たなぁ跳ね馬ぁ、遅いぜぇ。まぁ飲め。おーい、ツマミ足んねーぞぉ」
区切られた桟敷のブースごとに配置された給仕に向かって長髪の剣士は叫び、給仕は畏まって出て行き、戻った時には様々の前菜が載った大皿を携えていた。カナッペ、マリネ、生ハムとチーズと野菜の生春巻き、肉のスープ煮を型で固めて薄切りしたテリーヌ、シェリンプカクテル、鶉の卵やソーセージを爪楊枝で刺したピンチョス、イタリア式南蛮漬けともいえる魚介のエスカベージュ。
「こんなもの投げやがって、俺じゃなきゃ死んでたぞッ」
「まあ、いいから座れぇ。今夜は無礼構だぁ」
長髪の剣士は行儀悪く足を投げ出し独り占めしていた三人がけのソファに座りなおし、半分ほどを昔なじみの為にあけた。座れと、あいた空間を指差す。
「お前はいつでもどこでも自分だけは無礼構だろッ!」
指されてディーノは悪態をつきながらも座った。昔なじみの珍しい上機嫌の勢いに押されて。投げつけられた空のグラスにワインを満たされ、差し出されるカナッペを口に入れる。美味い。
「王子、トイレ」
跳ね馬ディーノを実は苦手な王子が席を立つのを、誰も止めなかった。