優しい雨・13

 

 

 

 拒まれる。

「オレを愛していないくせに近づくな」

「オマエがなに言ってんのか分かんねぇよ」

「嘘をつくなら出て行け」

 決め付けられ俯いた美形はやがて、小さな声で。

「……ごめん」

 本当は分かってとぼけていたことを認め、謝る。

「ザンザス。愛してる、からそばに行っていいか」

 冷蔵庫の前で、なんとなく立ち上がることも出来ず、屈んだままの姿勢で美形は下手に出て尋ねる。

「信じねぇ」

「って、言うと思ったけどよぉ。マジ、オレがオマエ以外、目に入ってねぇのは知ってるだろうがぁ」

「浮気しやがったくせに」

「確かめたかっただけだぁ。ホントにオンナじゃなくなったかどーかぁ」

「……あ?」

 椅子の上で男が身動きするのが見えた。振り向きはしなかったが、自分の言葉に興味を持ったらしいのに気づいて、美形は勇気を得て続ける。

「オマエが言ったんだぜぇ、ザンザス。三十過ぎたらオンナじゃない、ってよぉ」

「……」

 男が考え込む気配。その隙に乗じて美形は絨毯の上を、立ち上がらないまま姿勢を低くして男ににじり寄る。

「覚えがない。いつだ」

「昔の話だぁ、ゆりかごの前。オマエの部屋から出てきた女があんまりいい女だったから口笛吹いたらよぉ、女がウインクしてくれて、そのことお前に話したら言ったぜぇ」

「……」

 男が眉を寄せるのが気配で分かった。そんな大昔のことをと非難がましく顔をしかめていることも、それでも一応、律儀に思い出そうとする努力は伝わってきたが。

「覚えがない」

 途中で、明らかに面倒くさくなって放り出した。

「オレは、聞いたぜぇ」

「そうか。てめぇが聞いたなら言ったんだろうが、覚えがない」

「女房もオマエ、それで棄てたんだろ?」

「……」

 にじり寄って来る美形が、椅子に深々と腰掛けた自分の膝の上に、頭を摺り寄せるのを待って男は手を伸ばす。髪が短くなったせいでカタチがいいのがよく分かる頭を撫でながら。

「はぁ?」

 思い切りとぼけた声を出す。男が別居中の妻は男と同じ歳で、テレビを点けて映る大抵の女優よりは美しい。

「それに関してはコメントしたくもねぇ」

 妻のことを思い出しただけで食欲が無くなる男は苦い表情。

「昔の話は、覚えてねぇが、てめぇが褒めたのが気に食わなかったのかんもしれねぇぞ、カス」

 撫でる頭の手ざわりは相当に違う。自分と同じくらい短くなってしまった銀色の髪を弄っているうちに、昔のことを思い出す。女ではなく別のことを、これがピンピンと毛先の跳ねた短髪のワルガキだった頃のこと。

「あの頃は」

 掌の中にあると思っていた権利が偽者だったことを、さんざん見下しコケにしてきた分家の連中より自分が下位の存在だということを、知って世界中を呪っていた次期。

「まだガキだったのに、三十どころか、四十女にまで、色々散々、練習させられて」

「あー、そーだったなぁ。同盟ファミリーのボスどもが、愛人どころか女房まで、貢ぎまくってた頃だぁ」

 マフィアにはそういう習慣がある。大切なものを差し出すことが敬意の証明だという意識の産物。女性蔑視といえばその通りだが、『貢物』に選ばれた女が嘆き悲しむかといえばそうでもなく、マフィアの女にはマフィアの女の価値観がある。美しさと『腕前』を認められてボンゴレ次期総帥のベッドに入ったことがあるという経歴は、彼女たちがこの先、関連する『業界』で生きていくのに実に役に立つ。

「熟女にゃうんざり、してた」

モルトのような密度の女を喉まで詰め込まれたまだ十六の少年が、芳醇な香りに食傷するのも仕方がないことだ。短くなった髪を撫でながら男は『あの頃』の美形のことを思い出す。果肉の厚みはなかったが冷えてよく締まっていた。甘くはない、むしろ苦いがそこが美味い、喉ごしのいい、スタウトタイプのエールによく似ていた。ごくごく、いくらでも飲めた。

今は花ざかり、機嫌をとるように膝に頭を寄せられて、掌で撫でていると蜜の香りが漂う。香りはモルトウィスキーというより、これが好きなワインを蒸留して作るブランデーに似ている。暖めてやるとよく香る。

「……ボス?」

 嗅ぎたくなって髪をわし掴む。引き寄せると戸惑いながら立ち上がり、胸に抱きしめるとびくっと肩を揺らす。何秒か緊張で固かった美形の身体は、男に宥めるように背中を撫でられて、おずおずとその腕の中で形に添う。身体を動かして収まりのいい姿勢を探し、男の膝をまたぐような形で大きな掌に支えられながら力を抜いた。

「ザン、ザス」

「……なんだ」

「オレと一緒に、イタリアに帰るよなぁ?」

「……」

「オマエ連れて帰らねぇと、オレも戻れねぇよぉ」

「……」

「ザンザスぅ。棄てんな、よぉ」

「先に」

「オマエから突き落とされる前に滑り落ちようと思ったんだぁ」

「……」

「怖かった、んだぁ。でもやっぱ途中で寂しくなってって、悪あがきしたけどダメでよぉ。もぅそれなら、いっそ殺せって、思っちまったんだぁ」

「少し、黙れ」

 必死に書きくどく美形に男が言う。言われて泣きそうな顔をしたが、美形は大人しく命じられるまま口を閉じる。頭を背中を、撫でられる。手つきは暖かくて優しい。背中を震わせて美形は泣き出した。それしか出来なかった。

 やがて男の腕が解かれる。

 離されるより先に、しなやかな右手と左の肘でもって、美形は男の首と肩に縋りつく。

「何処にも、行くな、よぉ、なぁ、ザン、ザス……」

 スペルビ・スクアーロ、という名の持ち主は傲慢だ。十四でその世界では帝と呼ばれた男を凌ぎ、ボンゴレ内部での逆境にも潰れず輝き続けた。二十歳どころか三十路を迎えて尚、少年時代の才能は拡大傾向にある。

上がっていく腕前が停滞しない理由は中身がガキのまま成長していないおかげだと、口の悪いベルフェゴールは言ったことがあった。あの天才的な王子様にして尚、上達し続ける力量には感嘆を隠し切れないの切れ味の自負は、銀の瞳の表面にギラギラ光っている。

しかし。

それだけだ。ヒヨヒヨしていたガキの頃から傲慢な自負心は剣に関してだけ、いくら馬鹿でも、そろそろ学習してもいい頃じゃないかと、バカさ加減を嫌というほど知っている男が思うほど自分を知らないでいる。すらりとした長身、きれいに伸びた長い手足、ただ歩いているだけで見惚れる背中と腰の張り具合。月光を受けて月よりも輝く銀髪、珍しい銀色の目の色。黙っていればという条件付だがお人形のような顔立ち。

「八年間は……」

 男にとっては一瞬だった。夢を見たかといつだか尋ねられ、見たような気もするが忘れたと答えたら、こっちは苦労してたんだぜぇと不満そうに言われた。大変さは知らないが不満なら男にもある。十四から二十二になった八年間を知らない。その間の花弁の色も香りも蜜の味も知らない。二十二のこれを、目を覚ました時にはじめてみた時はマネキンか何かかと思った。真面目にそう思った。ほんの一瞬だけは。

「ザン、ザス……、ヴ……、ぁあぁぁ……」

 すぐにこいつだと気づいた。何もかも変わっていなかった。荒っぽい喋りも大きすぎる声も、自分が『美形』であることをまったく欠片も意識していない笑い方も泣き方も。自分が美しいことを知りすぎた女たちにうんざりしていた男にはそこが魅力だった。しかし、そろそろ。

「てめぇ、いい加減、ちったぁ」

 学習して欲しくもある。泣き声はいい意味ではなく子供じみている。これだけの美貌なのだからもう少し、泣き顔の見せようを考えて欲しい。鼻の頭を真っ赤にして鼻水をすすり上げられ、スタイリストの、格好つけな男はややうんざりして溜め息をついた。それで全てを諦めた。

バカでも仕方がない。そのバカさ加減につけこんで、長い年月、いいように尽くさせてきた。今もそうだ。押してダメなら引いてみろという基本的な寝技に直滑降の勢いで転がり落ちてきた。そこまでひどくオレは仕掛けてねぇぞと男が心の中で呟くほど、男がかなりお気に入りの顔面から真っ直ぐ。

「拭け」

 男が珍しく美形を気遣う。手の届くテーブルの上から、簡単なツマミの載った皿の下に敷かれたナプキンを取ってやる。美形は受け取り、片手で目元をごしごしと擦った。男より強い義手の左手を首に掛けたままの、本能的な小癪さが男の口元を緩ませる。膝の上の猫が、主人が立ち上がろうとするのを尾を巻き付けて阻もうとするかのような愛おしさがあった。

びいぃいいぃ、と、思い切りの良すぎる音が室内の空気を震わせ甘い感傷の愛しさを壊しても、男は黙って耐えた。涙はともかく鼻水だらけの顔にはキス出来ない。愛情が足りないと罵られたところで、出来ないものはできない。

 でも多分、美形は男の本音を聞いても罵りはしないだろう。よく分からない表情で小首を傾げながら汚いと言われればごしごしと、擦り剥けて赤くなるまで顔を拭うだろう。そんな馬鹿馬鹿しい素直さの可愛らしさに、どれだけ気持ちを慰められてきてただろう。

「ザン……、ッ」

 感謝はしていない。今までもこれからも、そのバカさにつけこんで、好きなように使う。

「お、ン、なぁ、ちょ、……、ン……」

 小さな頭を片手で掴む。引っ張って仰向かせ、唇を思い切り重ねる。反射的にのけぞる背中を押さえ込む。腕の中のカラダはかわいそうなくらい強張りビクビクしていた。が、男が押さえた背を掌で撫でてやると急に落ち着いて力が抜けていく。

「ん……」

 唇を舐めて催促すると慌てて合わせ目をひらく。開いた隙間に舌を差し入れ男は好き放題。興ののるまま顎に手をかけかみ合うほど深く侵略しても、美形は右手をぎゅっと男の胸の上で握り締めただけ、文句を言わなかった。

 柔らかくて暖かな粘膜を好むのはオスの本能だろう多分。別の場所にあるそれを狙って、男は抱きしめていたカラダを引き摺り上げたときよりはやや丁寧に、それでもけっこうな勢いで床に転がす。仰向けに絨毯に肘をついて、自分を少し恐ろしそうに見上げる目元が実に好みだ。

 転がったカラダに男は黙って跨りベルトを外す。反射で美形は上着を肩から振り下ろしシャツの襟ボタンを外す。一番下まで外してスラックスから裾を引き出しかけて、ハッと気づいて顔を上げる。

「……、ザンザス」

「なんだ」

 何も言わないままヤらせる気かと呆れかけていた男は。

「一緒にぃ、イタリアに帰る、よ、なぁ?」

「てめぇ次第だ」

美形が気づいて、逆に少しほっとした。さすがにそこまで単純でバカだと都合がいいのを通り越して心配になってくる。

「お、れ、ってぇ……?」

「何もかも、てめぇだ。分かってるだろうが」

 決め付ける口調で言ってやった。何も分かっていなさそうだったが、それでも一生懸命、美形はなにかを考えていた。男はじっと、シャツの裾が引き抜かれた勢いで下がったスラックスの端から、スーツと色をあわせた下着が覗いているのを眺めていた。

「あ、いしてる、ぜぇ?」

「……」

 男は答えない。ふん、という顔で唇を突き出す。不安そうに揺れる目に免じて横を向くのは止めておいてやった。そんなことは最初から分かっている。

「ザン……。なぁ、二度としねぇよ、だから」

 浮気ももちろん、頭に来ているが、問題はもっと根深い。酔って遊んで来たというだけなら折檻して泣きじゃくらせて相手の目の前で自分に縋りつかせて、苛め抜いてきゅうという目にあわぜるだけで済んだ。今は、それだけでは、何の解決にもならない。問題はもっと前に起こった。

「オマエが、オレの、全部、だぁ」

「なら、洗いざらい、吐け」

 待っていては拉致があきそうにない。短気な男は自分から口を開いた。

「いくらてめぇがバカでもだ。十と六・七年も前のオレのたわ言だけで壊れちまうほど、ヤワでもねぇだろう」

 このバカのことは何もかも分かっている。分かっているつもりだった。母親の腹から出てすぐに引き取って、掌の中で大きくした子猫のように。その自負を裏切られて男は機嫌が悪い。ずっと前から青筋を立てていた。

「ひっかかってることを全部、今、吐け」

 知らないことは、八年の空白で十分。

 自由やプライバシーは、蟻の穴ほども許すつもりはない。