優しい雨・14
知らないことは、八年の空白で十分。
自由やプライバシーは、針の穴ほども許すつもりはない。
LSDを嗅がせてもマーモンに昔の夢を見させても喋らなかった本当のことを。
「一つ残さず、何もかも。でなきゃ、」
男が脅し文句を言いかける。聞きたくない美形は腕を伸ばして男の肩を引き寄せる。イヤイヤ、という風にかぶりを振る。禍々しい言葉を聞くことさえ拒んで。
「なら喋れ」
不覚にも可愛いと思ってしまった男は語尾が弱くなった。
「……素面で?」
「いつでもロクデモねぇだろう、てめぇは」
「トバシて、くれよぉ」
美形が男の耳元に唇を寄せて哀願。意味はもちろん、抱いて夢中にさせてくれということ。
「勃つか?」
「もう……」
「あン?」
促され触れて、男は思わず口元を緩める。くくっと喉の奥で笑う。上機嫌でベルトを外し前を開ける。なぁ、と、シャツの袖を肩を捩って抜いていた美形は俯きながら、でもはっはきりと言った。
「全部、脱ごうぜぇ」
「真昼間からか?」
「かんけーねぇだろぉ」
「昼は着たまンまが……」
「オマエいちいち、言うことヤらしーなぁ」
美形が自分のベルトを外しながら言う。先に脱がれるのも負けたような気がして男も付き合った。別に素裸は珍しくない。繋がることを急ぐことも最近は少なかったから。
昼間の情事ばかり繰り返してきた、ある一時期と違って。
床に転がされたまま見事な腹筋で上体だけをもちあげ、美形は器用にスラックスを下着ごと脱いだ。男に倒された後で勝手に立つと男が不機嫌になる。カンガルーの喧嘩かよと美形は内心で思っている。男にはそういう、野生動物のようなところがあった。立っている方が強い。
靴下はもともと履いていない。イタリア産の伊達男の基本だ。
「なぁ、ざんざす……」
男が被さってくるのを、美形は両腕を伸ばして迎える。くちづけの前に頬を寄せられる。狭間が重なる。ビクン、と、美形の腰が浮き上がる。隔たりのない直の接触で刺激しあうとすぐに潤む。
「……」
いつもそうだった。それが当たり前、正常な進行。けれど最近は乾いたままの『事故』が続いていた。男は少し笑った。けっこうかなり、ココロからほっとしていめ自分を。
唇を近づける。美形の指先が持ち上がって男の髪に触れる。男より強い義手はカラダの横、床の上に伸ばしたまま服従のポーズに、男はいっそう機嫌をよくする。重なる唇の穏やかさで美形にもそれは伝わった。
「ン……」
美形が甘い声を漏らす。溜め息に似たその音は優しいキスの返礼のような週間。演技ではないが感謝で、気分によっては男の気に障るが今日は耳に心地よく響く。
床に肘をつきながら、男はカラダから力を抜く。重力にしたがって組み敷いた相手に重なる。その一体感は少し異常じゃないのかと男は時々思う。骨格も筋肉も何処もかしこも、ズレなく重なるのだ。まるで最初からペアで作られた器と蓋のように、二つのモノなのに一つになってしまう。
「……、つめ、てぇ……」
喉を舐めて鎖骨を啄ばみながら、しなやかに浮いた背中を男が左手で撫で下ろした時。
「つめてぇよぉ、ユビィ……」
美形が言った。男が顔を上げる。美形は目を、ぎゅっと瞑って、怖がるように肩を竦めている。
「……あ?」
男は凄んだ訳ではなかったが少し不穏な声にはなった。焔を宿す自分の指が冷たい?何を言っているこのバカは。いつもは逆を泣き叫ぶくせに。掌が熱くて火傷しそうだと、それで触られたら死ぬ離してくれと。もちろん離してやったことはない。泣き言はリクエストだと思って聞いている。
ただ本当にソレが酷い刺激なのは確かで、赤く充血した薄い粘膜に押し付けると悲鳴を上げてのたうつ。魚の皮膚は人間の掌の熱で爛れる。だから生きている魚を素手で掴むと弱らせ殺してしまうこともある。
コイツも鮫だからそうなのだろうと、男は思っている。思うことにしている。だって馬鹿みたいではないか。これだけ長年、抱いてきた相手の薄く透明感のある肌に今さら驚嘆しているなんて。バカはこいつだけで十分だ。掌が指が熱いと訴えられるたびに、気持ちがいいと啼かれている気がしていい気になっているなんて。
それが、なんだ?
「左手。ユビワぁ」
「……」
ああ。
異物が確かに、そこにある。結婚とやらをさせられた時に指に嵌められた金属の輪。相手の女はボンゴレ九代目の身内の中で一番美しいく、ワシは最初からこれを望んでいたのだと、嬉しそうに眦をゆるめながら男の養父は男に言った。ボンゴレの血が本当は流れていないけれど愛している『わが子』に、こうしてその血を分け与えるつもりだった、と。
そんな言葉も男の凍りついた心を動かすことはなかった。欲しかったのは自分の掌の中にであって好きでもない女の腹から生まれる子供は男にとってただの異物だった。ようするにそれはオレを使ったあんたの欲だろう、と、言葉を紡ぐことさえ億劫で口を開かなかった。
ゆりかごの一件は相変わらずボンゴレ内部では極秘事項、知る者は今でもごく少数。
『世間』で次代からザンザスが外れたのは門外顧問である家光との確執、九代目である養父への不服従、あまりにも独裁的な気質への危惧、桁違いの才能に対する分家当主たちの嫉妬、などがない交ぜになって家光の息子との対決を、『試合』を強いられ、ハメられて負けて外された、ことになっている。
家光の率いる門外顧問チーム及びボンゴレ随一のヒットマン、その他の人材を投入して、組織の総力を挙げてバックアップ、というより、ゲタを履かせた沢田綱吉に、負けたというより、足元をすくわれたのだ、と。
もっとも、日本人でマフィアとは何の関わりもなく育った沢田綱吉を歴史と伝統のあるボンゴレのボスとして迎えることに反感を持つ者はザンザスの性質を危惧する者と同じくらい多く、分家の能無したちも不穏な蠢動を見せている。
ザンザスの結婚はそんな動きに対する牽制でもあった。『十代目』を外れたところで本家の跡取り息子であることに代わりはないのだ、という確固たる立場と、九代目の『父親』としての変わらない愛情を、周囲へ。
九代目の恩情に感謝しろと家光には厳しい声で言われ、周囲からは、やはり『わが子』は可愛いのね優しい『父上』でよかったわねという同情の目で見られた。
他人が自分へ向ける感情などとおの昔に無視することにしていたが、家光からの甘やかされやがってという視線と九代目からの本当に愛しているんだと言いたげな微笑のうっとおしさは息がつまりそうだった。呪縛から自分が抜け出せていないことを思い知った。あの二人がなぜこうも気に食わないのか、聡明なザンザスにはちゃんと分かっている。
他人と思っていないからだ。他人だと口ではいいつつ本当は、自分が一番、そう思えていない。ボンゴレの血を持つ二人への嫉妬と憎しみは、どうして自分にはそれが与えられないのかという叫びに変わって世界中を咆哮で叩き壊したくなる。自尊心という心の一番柔らかな場所の表皮を、無残に肉ごと剥がされた痛みは少しも治まっていない。とくどく血を、まだ流し続けている。
だからあの結婚はこの男にとって三度目の敗北。憎んでいる養父に屈んで靴を舐めろと言われるのに等しい屈辱だった。女自身は悪くはない。どころか極上、娼館からの写真に居たらオマエ絶対アレを指名するぜと、長年の付き合いで自分の好みを知り尽くした情人にそう言われたが、男にとっては、そんな問題ではなかった。夫としての勤めは夜の繁殖行為以外殆ど放棄して、会話というものも殆どなく、食事も一緒にとらなくなっても女は大して落ち込まなかった。
最初から愛情を期待していない覚悟の良さ、恨みがましさを欠片も外に漏らさず人前では夫の腕をとってあでやから幸福そうに微笑む仮面の見事さはマフィアの妻としては最高級で、出会う場面が違えばこの男に相当気に入られる可能性さえあったが。女にとっても『夫』は最初から異物だったのかもしれない。
「感謝はぁ、してんだぁ」
「その話はヤメロ」
「聞けよ、ザンザス。……、聞いて……」
くれ、と言われて、男はもうとめなかった。正妻のことは思い出したくもなくて、この相手がそれらしきことを話そうとするたびに唇を塞いできた。
「オマエのガキ、産んでくれたろぉ?」
「……」
男が眉を寄せる。それも愉快な事象ではなかった。養父に強いられた結婚で養父が欲しかった、直系でこそないが血の繋がった『孫』を作らされた。要するに自分の意味は息子という記号だったのだと、人生で何度目かに存在意義を砕かれた。
「女なら、よかったなぁって、時々思ってたんだぁ。特に八年、オマエが眠ってたあいだぁ。寂しくってよぉ。オマエのガキでも孕んでりゃ良かったって、時々……」
思った、と繰り返され男は唇をひん曲げ不満を表明したが、気持ちは表情ほど不愉快ではない。寂しさを癒すために子供を欲しがられるのは九代目と同じでも、この相手には胸糞が悪くはならない。何故だろう。愛を信じているからかもしれない。
「産ませねぇぞ。オレに構わなくなる」
「ンだぁ、それぇ」
告白だ。何故このバカは分からない。
「ガキはガキだ。オレじゃねぇ」
この男の母親は息子を妄想の材料にしかしなかった。養父は事実を知らせぬまま騙し続けた。おかげで男は血のつながりや家族の愛情を信じない性質に育った。それでいてボンゴレの血に何度も破れ、屈辱は増すばかり。
「まぁガキは嬉しいし、色々、仕方ねぇんだけどよぉ。やっぱユビワは、触られっとつめてぇ」
掌も指先も熱いから、余計に感じる、金属の違和感。
「なんで、外さねぇんだぁあぁ」
外してくれと言い切れないいじらしさを舌の上で転がしながら男は自分の掌を互いの顔の前へ持ってきた。
「外せ」
俯く美形の視界に入る位置へ甲を上にして差し出す。ぱ、っと美形はその綺麗な顔を上げ男を見た。銀色の目が明るく輝いている。バカだと男は何度も繰り返し思う。気持ちから身体を止むほど嫌だったのならなぜもっと自分にそう早く言わなかったのだろうか、このバカは。
「あ……、れ?」
一言で済むのに。
「な、んだぁおいぃ、はずれねぇぞおぉ」
「はずれねぇんだ」
男はシンプルに答える。
「ジジイの怨念だ」
正妻が自分にそんな執念を持っているとは思えないから。
「何度もやった。ペンチで外そうともしたが外れねぇ」
「なんでそう毎回人知れず、一人で痛がってやがんだよぉ」
「……」
「宝石屋呼ぶか?救急隊ならリングカッター持ってんじゃねぇか?」
「どっちももう試させた。無理だった。チタン製らしい」
もちろん自分で選んだわけでない男は、自分の指に嵌る指輪の素材も知らなかった。
「オレに黙って仲間に隠れてかぁ?ったくオマエは、そういうところ猫だなあぁ」
「……」
自分に黙ってED治療薬を飲んでひっくり返ったてめぇにゃ言われたくないと、それも男は言わないでおいた。言いたい放題に罵りながら指輪と格闘する美形が楽しそうだったから。
「なんとかしろ」
「……、なん、とかって……、引っ張れば……、うおぉぉ、びくともしやがらねぇ」
「骨と繋がったかもな」
「あるかぁそんなことがぁ、って、もしかしてあるのか?ボンゴレのナンか特殊なリングかぁ?」
「知らねぇ」
「って、オマエ、うわっ!」
おずおずと触れていた美形が、それでも指輪を温めるうちに、緩く上下に動くようになった。ほんの少しだけズレた指輪の下の皮膚を目にした途端、美形は悲鳴に似た叫び声を上げる。
「うっ血してっじゃねぇかぁッ!カワの色変わってるぜえぇええぇぇ!痛くねぇのかよこれえぇ!」
「いてぇが、慣れた」
「裏から押しても表に隙間できねぇぞぉ。これちっとやべぇぞぉ。こーゆーコトは、ナンでもっと早く言いやがらねぇ、バカッ」
「……」
馬鹿にバカと言われて男はひどく苦い顔。
「噛むぞぉ」
「好きにしろ」
「痛かったら言えよぉ」
「痛くても構わねぇ。外せ」
「ん……」
指輪の嵌った左の薬指を唇に含まれる。金属の嵌った根元の皮膚を、並びのいい前歯で挟まれた、瞬間。
「……、って、お、……、っちょ、てめ……ッ」
男の腰の奥に別の火が点った。鈍くうずく、血が停滞して凝った場所を暖かな歯で押されて、むず痒い痛みが奇妙に甘い刺激になる。
「おま、ヒトが、せっかく……ッ」
「後にしろ」
男はシンプルに言い放った。