優しい雨・14

 

 

 

 ずくん、という痛みに男が目を開ける。

「……?」

 痛みの根源は自分の左手、薬指。目を開けるがぼやけてよく見えない。外はもう暗いようだった。

「いらがっだがぁ?」

 放り出した自分の指を咥えた相手の白い身体が薄い闇の中で白く浮かぶ。抱き合った素裸のまま寝室から持ってきたシーツを掛けられた自分と違って、一応服は着ている。シャツの前も止めない、ベルトも通さない、ラフな着方だったが。

「……」

 何をしているのかは聞かなくとも分かる。指輪がはずれない指を咥えているせいで美形の喋りはいつもと違って舌足らずだった。

指はおかしな感じだった。鈍い疼きがずっと続いていたのにそれがなんだか、薄くなったような気がする。代わりにズキズキ、鼓動にあわせた生々しい、刺すような痛みが来る。気のせいでないことは歯で引っ掛けられて動く金属の様子で分かる。

暖かな濡れた粘膜にどれだけ包まれていたのか分からないが、相当の時間だろうという気がした。暖められて指のむくみがとれて血が流れ出したのだろう。恒温動物の体温というのは絶対的だ。少し上がっても下がっても効果がない。凍えた人間を暖めるには人肌が一番効果的だというアレと同じで、結局、人間はニンゲンにしか暖められないのだろう。

「……おい」

 目が闇に慣れて、自分の指を咥えた美形の唇から流れる粘液が見え、男は眉を寄せる。それは不自然に泡立っていた。気づけば美形の手元には茶緑色の物体が置かれ、唇の下にはバスタオルが敷いてあって流れる唾液を受けている。

男は当然、知っていた。茶緑色の固形物がオリーブのマルセイユ石鹸だということは。美形のあの長い髪は無添加のコレで洗わないと、纏まらなくて、ろくでもないことになった。ここへ乗り込んできたのは一人で手ぶらででも、ヴァリアー幹部が単身で動くはずはなく身の回りの世話をする下っ端が付き添って必要な品は持ってきたのだろう。

「食えるのか、ソレは」

 石鹸を口の中で砕いて自分の指と指輪に舌で塗りつけていると思しき美形に、男は少し戸惑って尋ねる。

「んー」

 ぺ、っと、口の中の唾液と泡を一度、美形はタオルに吐き出し口元を拭った。男の指は右手で包んで冷やさないように気遣う。新しい欠片を唇に含もうと石鹸を左手で持ったとき、自分をまじまじと眺める男の心配そうな顔色に気づいて。

「苛性ソーダじゃなくって、灰汁で固めてあっから大丈夫だぁ。歯磨き粉の代わりにしても、いいくれぇだからなぁ」

「したこと、あんのか?」

「ねぇよ。バターみてぇでちっと甘くって、味としては悪くねぇけどなぁ。こんだけ濃いと、くでぇ」

 三日も四日も職人が交代で大釜で作る石鹸は煉りの過程で職人が『食べて』出来上がり具合を見るほどで、口に含んでも全く害はない。不味くもない。油断していると飼い猫が舐めたがるほどの味。

「指の関節、曲げてろぉ。痛くってもいいってったなぁ?」

「かまわねぇ」

「泣き出すなよぉ?」

「誰がだ」

 苦い口調で男が言い放つ。美形はニッと笑って左手の石鹸を齧り、かなりの大きさの欠片を歯で噛み砕く。そうして右手に握っていた男の薬指を口に含んだ。

「……」

 指輪はかなり動くようになっている。美形が右手で男の皮膚が動かないよう指の根元を押さえ、咥えた口内の歯でしごくと、第二関節の根元までズレた。美形が男の表情を伺う。男は続けろと目顔で指示。もちろん痛いが、全身の火傷や刃物傷を体験済みの男にはなんということはなかった。

 関節にかかった指輪に角度をつけて美形は歯で引っ張る。男は思わず、顎を上げて息を吐く。気持ちが良かった。長い時間、そこに食い込んでいた指輪から開放されて。冬には疼いて眠りにくいこともあった。

 息に気づいて美形が歯を止める。舌で石鹸を指輪と皮膚の隙間に塗りつけながら、今にも関節をくぐらせようとしていた時だった。男は右手を伸ばし美形の頭に触れる。短くなった髪の毛を本気で撫でた。

「続けろ」

 指示通り美形は目を伏せる。関節の一番太い場所で金属と骨が当たって、なかなか、指輪は動かない。諦めず少しずつ、前歯で挟んで、指を曲げているせいで伸びた表皮を指輪の下でずらすようにして、ほんの少しずつ動かす。

「砕いて構わねぇぞ。いっそ噛み切れ。鮫らしく」

 男が挑発すると美形は目元だけで笑った。挑発にはのらず、無理をせずに優しく、本当に少しずつ、指輪の機嫌をとるように舌で舐め歯でシゴいていく。

「アレ舐めるより上手いじゃねぇか」

 男が下卑たことを言う。報復は指の根元を押さえていた右手で、鬱血し変色した指輪の跡を押さえられること。

「いてぇ」

 と、男は言ったが顔は笑っている。むしろマッサージされているようなもので気持ちがいい。男がくすくす笑っているうちに、美形は覚悟を決めてぐっと右手に力を入れる。ああ、と男が思った瞬間、健康そのものの頑丈な歯が、金属の輪を強引に男の指の、曲げて丸みを帯びた関節から引き抜いた。石鹸交じりの唾液を滴らせながら。

「あぁあ」

「よくやった」

「顎がだりぃ、ぜぇ。はあぁあぁー。指輪、どーする?」

「その辺に棄ててろ。食えもしねぇ」

「おー、って言てぇけどおい、裏に彫ってあるじゃねぇか名前。ボンゴレの紋つき置いていっても迷惑だぜぇ。持って帰れぇ」

「てめぇがな」

「面倒はすぐ押し付けやがるなぁ御曹司ぃ」

「褒美をやる。何が欲しい」

「……褒美?」

 タオルで口元を拭っていた美形がクッと笑う。切れ長の目を三日月形に曲げて、絶好調のアルカイク・スマイル。

「なんでもいいよなぁ?」

「なんでもいい」

「ホントだなぁ?」

「オレが嘘をついたことがあるか」

「山ほど覚えあるぜぇ」

「ベッドの外でか?」

「……ねぇな」

 笑いあう。シャツの襟を掴んで男がキスしようとするが、美形は肩を竦めて揺らして阻む。普段はそんな抵抗を許さない男が今は妙に甘くなって、手折りかねる風情。

「おい」

「欲しいモン、ある。ずうっと前からぁ」

「言え」

「ぜってぇくれるなぁ?」

「やる」

 にっこり、美形は、今度は天使じみて微笑む。でも口元から覗く牙が凶暴を隠し切れていない。

「オマエの……」

 

 

 

 

 

 

 夕食を二人と一緒に、と、思っていたボンゴレ十代目は一人でぽつんと、三人分の用意をされた食卓に座る。

「ひったてて、連れて来いよ山本ぉ」

 一時は少し体調が悪かったけれど最近、元気になって煙草の量も増えた獄寺が相棒に言ったが。

「んー。でも、気持ちよさそうに寝ててさぁ。起こすの気の毒なのなー」

 ザンザスが匿われたというか、秘密裏に滞在する館からの電話でオレの荷物を持ってきて欲しいとスクアーロに言われて持参したのは山本だった。ついでに十代目から夕食の招待を伝えようとしたが、踏み込んだ部屋で見た光景に伝える言葉さえ失ってしまった。

 声を掛けずに二階へ上がってくれ、一番奥の部屋だノックもしないでくれ、と、名指しで指名された理由が分かった。ザンザスは床で眠っていた。腹心の膝を枕にして。肩から下にはシーツが掛けられていたけれど裸なのは布越しでも分かった。当たり前だが実に見事な骨格の、隆々としたいいカラダだった。腹心の剣豪はざっと服を着ていたが、シャツの前は開いてキスマークに埋まった胸が見えた。

 その胸の前で。

「……」

 声を出さないでくれ、起こさないでくれと左手の人差し指を唇に当てて立てられて、山本武に何が言えただろう。差し出される右手に、門わきの控え室で待っていたお供から預かったボストンバッグを渡したらお駄賃なのか少しだけ微笑んでくれた。

「うちはボンゴレ日本支部で、ここの主人は十代目だぜ。ヴァリアーの幹部だろうが九代目の養子だろうが、十代目のご招待を拒めるヤツなんざここはいねぇんだよ。たたき起こして、今から引き摺って来い」

「やめろ、獄寺。オレはそういうやり方は好きじゃない」

 揉める二人の側近を沢田綱吉が止める。

「それより二人とも席に着け。せっかくだから一緒に食べよう。客には後で厨房から持って行かせればいい」

「おっ、いいのか、ツナ?」

「恐縮です、十代目!」

 うきうき、二人の腹心はテーブルに着く。普段はしない真似だった。沢田綱吉ではなくその父親がうるさい。ファミリー内での秩序を守るためにはケジメが大切だという家光の意見は正しいが、息子を孤独にもさせた。

 テーブルに着き、それぞれがグラスを手に取る。シーズン中の山本と下戸である沢田綱吉はウーロン茶。獄寺はビールを勧められたが断ってジンジャーエール。ヴァリアーから戦闘力の高い二人が、客としてでも滞在している以上、身体能力と判断力を低下させるアルコールを摂取する気にはならなかった。上戸である二人の為に用意された赤ワインとシングルモルトウィスキーは、後で部屋へ届けさせればいい。

「美味い。いいマグロですね十代目」

「魚はやっぱ日本が一番なのなー。あー、来月からの遠征憂鬱だなー。メシがなぁー。いっそ炊飯器持ち込んで自炊すっかなー。でもホテルだしなー」

「そうか、山本来月からアメリカだっけ」

「おう。初めて連れて行って貰えるんだ、日米対決に。ま、出番があるかどうかは分かんねぇけどな」

「しっかりやって来いよ。てめぇがドジやらかすと十代目の顔に泥を塗るんだからない。世界放送でエラーなんかしやがったらもう、帰ってこなくっていいからな」

 獄寺が憎まれ口を叩く。憎まれ口でもぺらぺら喋るのが嬉しかった。

「ンだよ、じろじろ見やがって」

「分かってるぜ、期待しててくれ。活躍してくっから」

「打席に立てるといいね。監督にボクから話しておこうか?」

 すらりとそんな台詞を吐くようになったボンゴレ十代目は箸でマグロを口元へ運ぶ。プロスポーツも興行の一種で、裏社会とは無縁ではない。

「ありがとな、ツナ。んでも野球は実力でやるぜ。じゃねぇと気持ちよくねぇからさ」

「山本らしいや」

「甘やかすことはないですよ十代目」

 言いながらジンジャーエールを呑む獄寺の喉元を山本はじっと見つめる。別の美形の白い喉を思い出しながら。あんな風にこいつも、いつか俺のこと膝で寝かせてくれるかな、と、思いながら。前菜のマグロのカルパッチョを、ガラが悪いのに品のいい手つきで口に運んでいた獄寺は、まだ。

「てめーあのロンゲに甘すぎねぇか。ロンゲじゃなくなってたけどよ」

 少し不満らしい。ぶつぶつ文句を言う。

「そうだね、びっくりしたね、髪」

「結局あいつら何しにここまできやがったんですかね?」

「痴話喧嘩じゃね?」

 山本が言った。げほ、っと、獄寺と沢田綱吉が揃って噎せる。思っていても言い難いことを、しかも自分が痴話はともかく喧嘩の原因のくせにしらっと口にする度胸はガキの頃から少しも変わっていない。

「げほ、ごほっ」

「十代目しっかり。山本ぉ、てめぇ、意味分かってンのかぁ?」

「夫婦喧嘩だろ?」

 さらにどぎつい一言に、沢田綱吉はテーブルに突っ伏した。獄寺はそこまでのショックは受けなかったが額に手をあて溜め息をつく。

「まあ……、イタリア人ですから。十代目、そうお力を落とさずに。本人たちが申告しない限り、俺らは知らんフリしてりゃいいんですよ」

「イタリアって、多いの?」

「スペインと並んで本場です。ただしバチカン抱えてますからカトリックが強くって、本格的な同性結婚はまだ出来ません。代わりにパートナーシップ制度が、まぁ、同棲してる男と女も使う内縁契約みたいなヤツなんですが、認められてる州も半分近くあります」

「ふうん。よく分からないけど、まあ幸せならいいんじゃない。正式に結婚していても父さんみたいな夫も居るからね」

 立ち直った沢田綱吉は箸を持ち直し前菜を片付けた。獄寺がテーブルのベルを鳴らして、メイドがサラダとスープとメインのスキヤキを持ってくる。東京の専門店から肉その他の材料と料理人を連れてきて作らせたもので、舌がとろけるほど美味い。

「おおー、すげぇ肉なのなー」

「うん。ザンザスに食べて欲しかったんだけど。ま、もう二人分あるからお弁当にして、後で持っていかせるけど」

「二人分?」

「もともとちゃんと用意してたんだ。お前たちの分も」

「か、感激っス、十代目。お心遣いに感謝します」

「オマエそんなにスキヤキ好きだったか?泣くほど?」

「この馬鹿野郎。オレはお心遣いに感激しているんだ」

「ははは」

それから酒を飲む二人の為にツマミの盛り付けられた大皿が出てくる。ウーロン茶とジンジャーエールで三人はそれも食べた。

「明日の朝食はザンザスと食べたい」

 デザートのシャーベットを口に運びながら、ボンゴレ十代目は腹心の二人に告げる。この声で言われたことは何であろうと実行しなければならない。それくらい重々しく。

「スクアーロさんにも同席して欲しい。って、伝えておいてくれ」

「ん、分かったぜ」

「明日はオレが、たたき起こして引き摺って来ますよ!」

 

 しかし。

 二人の返事は、結局うそになった。

 

「申し訳ありません、十代目!」

翌朝、ヴァリアーの二人は書置きを残して消えた。

「いつ出たのか、ぜんっぜん分かんなかった。すまねぇ、ツナ」

 二人の謝罪は真剣なものだった。実際これは相当にヤバイ。そっと出て行かれても気づかなかったということは、勝手に来られても気づかないということになる。

「そんなに謝るな。お前たちだけのせいじゃない、僕らよりまだ、あっちの方が何枚か上手ってことだ」

 沢田綱吉が言った。口惜しくないことはない。だがそれを感嘆が上回る。さすがだ、と思った。

「なんて書いてあるか教えてくれ」

 イタリア語の速記体をまだ読めない沢田綱吉が書置きのメモを獄寺に渡す。

「はい。えー、大変世話になった、歓迎に感謝する、次はぜひイタリアに遊びに来てくれ、例の件は承知、雨の守護者によろしく、以上です。……、おい、なんでてめぇだけ名指しなんだ」

「筆跡は?どっちだ?」

「サインがあります。ザンザスです。どんなに略式でも十代目に向けた手紙を部下に代筆はさせません」

「よろしくかぁ。はは、ちょっと、さすがにナンか、背中が涼しくなるのな」

「……?」

「デッドボールが股間にヒットしたりしてなぁ」

 プロ野球の選手が投げた硬球がマタに当たると物凄く痛い。笑い話でなく、睾丸に当てられて三倍にも腫れ上がる事故が時々は起こる。何よりも怖いのが日米野球の晴れ舞台でソレをされると衛星放送で、内股でバッターボックスにしゃがみ込むという恥を世界中に晒さなければならない。

「いいじゃねぇかよ、伝説になれるぜ」

「怪我はしないで帰ってきてくれよ」

 なんとなく事情を察している沢田綱吉も、よく分からないが面白くない獄寺も冷たかった。