優しい雨・2

 

 

そう、なっていったのは比較的ゆっくりで、最終事態に陥るまでには三ヶ月ほどの期間があった。三ヶ月間、週二で呼ばれていたとして二十回を超える夜のうちに、泉は枯れて、水気は乾いて、水底の土がひび割れた。

「……」

 潤みにくくなったオンナにイラついていた男は絞っても啜っても一滴のしたたりも分泌されなかった夜に眉根を寄せた。ごめん、とオンナは組み敷かれた男の体の下、腕で顔を隠しながら細く呟く。ごめん、ごめん、と繰り返す侘びの言葉には悲しみと諦めがあった。本人はこうなる日が近いことを予測していたらしかった。

「……」

 男は無口だ。罵り文句以外を口にすることは滅多にない。セックスの最中も同じく、興に乗れば嬲る言葉を吐いて満足すれば掴んだ長い髪をぐいぐいと引っ張るだけがせいぜい。その日も特にコメントはなく、苦しむだけのオンナを軋ませながら自分勝手に抱いた。ただし翌日、まだ朝のうちに医者が呼ばれ、血液検査と問診が行われた。

結果は健康そのもの。アルコール摂取過剰で肝機能に不安要素のあるボスより遥かにピチピチサラサラとした血が色の薄い皮膚の下に流れていることが証明されただけ。更に精密検査を行った結論も、内分泌異常もホルモンバランスの異常も薬物反応もなし。糖尿病、高血圧症、心臓病、高脂血症もなし。前立腺の手術や脊髄神経の外傷がないことは医者より、ヌードを撫で回している男の方が詳しく知っている。

「EDの原因は心因性が八割、器質性つまり身体的な原因によるものが二割といわれています。検査の結果、二割の器質性原因はほぼ否定されました。心因性EDの主な要因は要するにストレスです。単純に相手を気に入らない場会から仕事上の悩み、失恋や不安、性行為とは直接関係のない怒り、憎しみ、ねたみ、精神的外傷なども原因となり得ます」

 お抱え医者は淡々と話す。呼ばれた場所がヴァリアーのボスの私室で、報告を聞く患者はボスの椅子の横に立っている。三十路寸前だが妙にきれいな顔をした患者の『性行為』の相手が顔に火傷の痕を持つボンゴレ九代目の養子であることは医者にもすぐに分かった。だから敢えて、暴力、という言葉は原因の説明から抜いておいた。この国では珍しくもない関係。

「薬物療法も補助器具もあります。ご希望でしたら、ご用命ください」

 ヴァリアーのボスは視線で患者に尋ねる。患者はかすかに頭を横に振る。

「わかった」

 短い言葉をかけられて、医者は軽く会釈して部屋を出る。視線は決して上げないまま扉を閉めることに成功して、ほっと息を吐く。九代目に腕前を認められ息子の主治医にと言われてからもう二十年近い。頑健な少年も長年のうちに何度か病気や怪我をした。虫垂炎の手術をしたこともある。が、本人以外の診断を乞われたことは、これが初めてだった。

 ふうん、と、医者の心の中に好奇心が起こる。若様の隣に長く仕える銀髪の側近のことは医者もよく知っている。若様が最も信頼する部下で、医者が若様を診察する時はよく隣についていた。苦しむボスを笑いながら押さえて、しっかりしろよと励ましながら銀色の目は医者の手元のどんな些細な仕草も見逃すまいとして鋭かった。

 

 腕をひかれる。素直に近づき、主人の座る広い椅子の左右に膝をついて椅子に乗りあがって向き合う。この姿勢だと男の頭が胸元に来るから、自然と腕で抱いてしまう。男はそれを拒まない。頭に触らせるという許容自体が愛情であることに馬鹿なオンナは長い間気づかなかった。男が九代目に触れられた時に死にそうなほど嫌な顔をしたのを目の当たりにするまで。それはほんの数年前。十四と十六の頃からカラダを繋げていたのに、もしかして自分は気に入られているのかもしれないと気がついたのは本当に、ほんの二三年前。

「ボス」

 呼びかける。返事はない。ショックを受けているらしい。ムリに言葉を出させようとはせず腕と胸に抱いた頭を撫でる。

「ありゃヤブだ。枯れた原因なんざ撃ち止めに決まってる。タマがなくなりゃ引き金引いたって出ねぇさ。それだけのことだ。そだろ?」

 返事はない。何を考えているのか不安で、顔を伏せ頭頂部のつむじにキスをした。なぁ、と、癖の強い黒髪に向かって囁く。

「ストレス、とかってありえねぇよ。そんなんでイマサラ、何がどうなる筈もねぇじゃねぇか。オレァあいも変わらずお前にベタ惚れてっけどよ、もう三十だ。そういう事もあるさ」

 ウソではない。最初に会った子供の頃から今まで、憧れと愛情は終始一貫して揺るぎない。強くて高くて大きくて、ひとことで言えばこの男を、この世で一番、『偉い』と思っている。ザンザスという名前の男には生まれつきカリスマ性があった。それは周囲からの信仰に近い思い込みに磨きこまれてボンゴレ十代目の選から漏れた現在も尚、真っ赤にギラギラ、禍々しく輝く。

「ストレス、とかじゃねぇ。今は、そんなに辛くねぇ」

 隣に居るのが辛い時期も確かにあった。八年間の別離もそうだった。この男が養父の勧めるボンゴレの血を引いた令嬢と結婚した時も辛かった。

結婚指輪はまだ男の手に嵌っている。でも今は別居中、男は本邸を妻に明け渡しいずれ相続するだろう養父の財産のすべてを妻子に好きなようにさせる条件で私邸を出た。一緒に銀髪の『オンナ』も私邸からヴァリアー本部の一室に居を移した。そうなるまでの数年の、『妻妾同居』の時期に比べれば今は古巣で誰にも遠慮なく暮らせて快適だ。男の子供たち、男女の双子のことが気にかかる以外は。

「オレぁ引退だけどよぉ、お前の好きそうな女、また連れて来てやっからよぉ、そんなに」

 そこで、『オンナ』は言葉をとめる。そんなに落ち込むな、と言うのは自惚れな気がした。表現を探しながら抱いた男の頭を撫でる。顔だけ妙に小奇麗なのは子供の頃からだが、それにもう一枚の輝き、艶というか、婀娜というか、ありていに言えばオスの本能を擽るセックスアピールが添っているのは抱きしめられている男の手柄だった。

「小顔で胸がでかい女が相変わらず好きなんでいいか?煙草吸う方がイイ声が低いからってのも変わってねぇな?町中探して、お前が好きなの連れて来てやるぜぇ。なぁ、だからよぉ、そんな……」

 若い頃、妻を娶る前には、ボスものもとへ定期的に、娼婦を選んで連れてくるのは銀髪の側近の役目だった。小うるさいボスの好みを彼だけが承知していた。右腕になりたがっていたレヴィが嫉妬して張り合っていた時期もあったが、連れてくる美女をみな寝室からたたき出されて、やがて諦めた。

『ボスのアレはねぇ、筋を通してるのよ』

 と、パスタを茹でながら言ったのはルッスーリア。

『浮気はするけどスクちゃんが認めた相手だけ、ってことでしょ』

 ボスの愛人はファミリーの中で尊重される。側近や腹心より優先され優遇されるが例外はある。自分をボスに紹介してくれた人間にだけは礼儀を守らなければならない。その人物は愛人にとって、ファミリー内における『親』代わりの後見人になるから。

 けれどそんなこともここ数年はたえてなかった。ザンザスは結婚に疲れ果て、娼婦の肌を愉しむどころではなくなった。大人しくなった落ち着いたとそれを悦ぶ目の見えない年寄りも居たが近い仲間はみな心配していた。男に結婚を、殆ど強要した養父も。

その数年は本当に辛かった。ストレスというものに負けてボスの私邸から抜け出しヴァリアーの本拠に帰ってしまったことが何度もある。そのたびに迎えに来られて連れ戻された。何度目かの時に訴えた時の答えを、オンナは忘れられないでいる。あそこは嫌だ、ここでまってるからそれでいいじゃねぇか、と。

私邸に連れて帰られるのに抵抗した。どうせこの男は朝早くから夜遅くまで、仕事があってもなくても、休日でもお構いなくヴァリアーの本拠地、古城の奥の住み慣れた部屋で起きている時間の殆どを過ごすのだ。馴染んだオンナとのセックスも今居るこの部屋の奥の寝室、正妻が入ったこともない場所でずっと、繰り返されてきた。

九代目が養子夫婦に与えた私邸で抱き合ったことは一度もない。ボスを送ってそのまま使用人用の部屋で寝て起きて、朝は食事もせずに私邸を出るボスと同じ車の助手席に乗る。私邸の使用人も送迎の運転手も九代目から差し回しのお抱えで、それはつまり、正妻側の人間ということ。

だから自分で運転してきた車に、男はオンナをずるずる引き摺って積み込む。いつもの出来事だった。仲間の何人かが心配そうに顔を見せたけど誰も何も言わなかった。後部座席に押し込まれてドアを閉めようとされて、往生際悪く足掻くオンナに男は梃子摺った。義手の握力は強い。

 閉めようとしていたドアから手を離した。内側から押し返していたオンナが急になくなった手応えに反応しきれずドアからこぼれて地面に転がった。長い銀髪が土の上に散らばるのを、男は踏んで、そして、言った。

 離れんじゃねぇ、と、一言。

 髪の先を踏まれて立ち上がることも出来なくて、見上げてくる表情が男の目には幼く見えた。出会ったころを思い出した。髪から足を退けて胸元を軽くつま先で蹴ったのは照れ隠しに近い。あんまりまじまじ、切れ長の目を見開いて見上げてくるから居心地が悪くなった。踏んでいた銀色の髪を掴んだ。土を払ってやるついでに引っ張って本体をもう一度、車の中へ押し込む。今度は素直に乗り込んで、外からドアを閉めても邪魔をしなかった。大人しくシートに座っていた。

 そんなことも、あった。

 

「そんなに、……、るなよ。お前に不自由させねぇから。……な」

 男の頭を抱きしめながらオンナは一生懸命に喋る。男は黙って聞きながら、まだ動けないでいる。衝撃が大きかった。

「いい女、探してきてやっから。だから、なぁ。なぁ……」

 なぁ、なんだ。

「元気だして、くれよぉ……、なぁ……」

 オンナの言葉の語尾がかすれてくる。抱きしめているのかすがり付いているのか分からないほど腕も頼りなくなる。ドカスが、と、男は心の中で思った。唇は動かなかった。

 ドカスが、勝手に枯れやがって。まだ使うのに、馬鹿の役立たずめ。

「なぁボス、ザンザスぅ……、ぅおぉい、なんとか言って、くれよぉ……」

 男の唇がようやく開く。うるせぇとか、うぜぇとか、そんな台詞を期待してオンナは口を閉じる。ほっとした途端にずるりとカラダが崩れて椅子からずり落ちる。床にぺたんと座り込んで、男の膝にそのまま頭を置く。罵りと鉄拳を待っている白い額に望んでいたものは与えられない。開いた男の唇からこぼれたのは細い溜め息だけだった。