くたりとした身体を抱きながら。

「で」

 男が囁く。耳元で低い声で、喋られたオンナは睫毛の先をほんの少し揺らした。

「……」

 続きの言葉を告げる前に男がオンナにくちづけた。のは、骨までとろけたようなオンナの様子がひどく愛おしかったせい。目は開いているけれどぼんやり、夢心地の中を漂っている。疲労はあるけれど気持ちよく酔って、意識も自我も、甘い余韻に浸って鈍っている。

「どうする?」

 尋ねる。オンナの反応は鈍い。なんのことか分からないでいるが、それでも男に言葉をかけられて嬉しかったらしく、あいまいに微笑んだ。意識がぼんやりしていると目つきの悪さも霞んでしまい、いつもの凄みがない。本来の顔立ちの美しさがよく分かる、こんな銀色も、男は嫌いではなかった。

 いつもの方を、愛しているけれど。

「ガキだ。どうする?」

 重ねて尋ねる。ゆっくりゆっくり、オンナが意味を理解し始める。それか、というように目を伏せた。

「オレに嘘をつくなよ」

 肌を重ねて頬を寄せた、この状況で偽りを通せると思うほど愚かではないことを知りつつ男は念を押しておく。欲しいのに欲しくないとは言うな、と。

「どうする」

 伏せた瞳をオンナがそっと閉じた。あけろ、とは強いずに男の掌がオンナの後ろ頭を撫でる。優しい仕草に泣きそうになったオンナは唇を噛む。

「おかしなヤツだ」

 男が笑った。答えは分かっている。分かっていて、叶えてやるつもりで尋ねているのに素直に口を開かない強情なオンナに苦笑しながら、それでも、そんなところも、可愛いと思った。

「欲しいか欲しくないか、言え」

「……でき、ねぇ、ダロ」

 それは答えになっていた。はっきりと、欲しいと銀色は言っている。正直な告白に男がまた笑う。本心を自分に、ちゃんと告げた褒美にもう一度優しいキスを与えて、それから。

「なにが、出来ない」

 優しく優しく、重ねて尋ねてやった。オンナが男に素直なのもセックスの後だけだが、男がオンナにこんな声を出してやるのもこの甘ったるい時間の中でだけ。

「イロイロ、ムリ、だろ」

「いろいろ?」

「ガキ、育ててやれるよーな、暮らししてねぇよ」

「してぇか?」

「したくもねぇし、出来ねぇ」

 十四で剣帝テュールを倒して以来、切った張ったの世界の中、特殊な意味ながら『業界』の最前線で、第一人者であり続けているオンナは、はっきりと言った。自分自身であることを捨てるつもりはないし、出来もしない、と。

「それに、許さねぇだろ、九代目が」

「ふん」

 その名前を男は鼻先で笑った。出されると、それだけで逆らいたくなるような名前だった。反感と絶望を交互に感じる養父。それでもボンゴレのボスとして『業界』への影響力は強く、自分のオンナがその意向を無視しきれずに、びくついて見えるのも仕方がないとは分かっている。

「ガキを育てる場所じゃねぇのはあっちも同様だ」

 男が養父から、妻を娶ることを強いられた時、新婚の二人には立派な館が与えられた。そこがこの男の本邸ということになって、男がヴァリアーに移動して本妻とは完全に別居した今も、館には妻が双子とともに住んでいる。

「ボンゴレの本邸も似たようなものだったがな」

 子供を育てる環境には向かないと、そこで実際、幼少期を過ごしたことのある男が言うのは説得力があった。衣食住は贅沢なものだったけれど、子供はそれだけでは大きくなれない。愛情が与えられなければ。

 養父は養子を確かに愛していたけれど、偉すぎる男の愛情は『家庭生活』の中ではほとんど意味を成さなかった。養子の生活に関わる立場ではなかった。屋敷を司る執事にはザンザスによくしてやってくれと頼んでくれたが、執事よりも立場の強い親戚たちの冷たい視線や聞こえよがしの悪口、そういったモノからは、誰も庇ってくれはしなかった。

「ジジイも、さすがに、マズイと思ってる様子だった」

 九代目が養子の将来を思って強いた結婚はサイアクの結果に終わった。男は一時、痩せてやつれて健康さえ失いかけていた。美しい妻と子と、暖かな家庭を作って幸福に暮らして欲しいという養父の望みは全く叶わず、養子があまりにも苦しんでいる様子を見かねて、別居を許可した。

 それでも、双子の孫が生まれたことに、養父は一縷の望みをつないでいた。カトリックであるマフィアには離婚が許されない。子供が居る以上、双方の気持ちが落ち着けば仲直りして、いつかはまた親子一緒に暮らせる日が来る、という、夢が。

 実現する可能性がほとんどないこと、つまり、嫌っているのは男だけではないことに養父は最近、ようやく気が付いた。男の正妻も望んで結婚した訳ではなく、ボンゴレ当主の意向だったから嫌々それに従っただけ。愛していないから出て行った夫と仲直りしようという気もなく、残されたその子を立派に育てようという気概もない。

「抱いていたのはジジイとベルだけだ」

 連れて来られていた双子の子供は、ヴァリアーからボンゴレ本邸へ戻ってからも王子様の懐にべったり、食事も眠るのも殆ど王子様と一緒だった。ニーナ(乳母)のようだと、男は眺めながら思った。

男の養父が時々抱きたがり、その腕の中に入ることもあったが、幼児というものは基本的に年寄りより若者を好む。偉すぎる養父はイマイチ世事や心の機微に疎く、昔から子供の扱いがなっていないことを、男はよくよく知っている。

「下町の娼婦の血を引いたガキなんざ、わが子と思ってねぇんだろう、アレは」

 男が自分の正妻のことをそんな風に言った。え、というように銀色のオンナが閉じていた目を開く。銀色の美貌に見惚れていた男と視線が、バチンと音をたてたように弾きあう。オンナは腕を伸ばした。男の首に巻きつけて、唇を押し当てる。

「この世で、イチバン、いい男だぜぇ、オマエ」

 慰めではない。心からそう思っている。実際それは客観的な事実。やや強面ではあるものの顔立ちはハンサムに整い、腰高の体躯は女の好き心をそそる締りと質量を兼ね備えている。ボンゴレのボスの座こそ沢田綱吉に奪われたが、九代目の養子として相続するだろう個人財産は膨大。そうして本人はヴァリアーのボスとしてボンゴレ最強部隊を率いている。マフィアの世界で、この『業界』の中で、強さは正義とほぼ等しい。

「オマエみたいないい男、この世に、他にイネェよ」

 愛していると、男に長年、ベタ惚れのオンナが言う。男は苦笑しながらオンナの告白を受け、細い身体を抱き返した。

「すげぇ、スキ……」

 ぎゅうっと右腕で抱きしめながら、もっと気の利く慰めの言葉を持たない自分を銀色は悔しく思う。

 むかし、昔から、この男の、それだけが、弱み。

 母親が賎娼であること、正式な夫婦の間に生まれた子供ではない私生児であること。

ボンゴレのボスに誰よりも相応しいと評価されていた九代目の養子にとって、それだけが他の候補者たちより劣る要素だった。自然、対抗馬とその周囲は男の出生を散々に攻撃した。銀色が知っている『御曹司』の半年間でさえ、目を剥くような品のない悪罵が放たれたことがあった。自我の基本、存在そのものの根本を非難されてかつての『御曹司』は傷ついただろう。ましてやボンゴレを継げるつねもりでいた昔は、どれほどそのことに傷ついたか、思えばオンナは、泣きたくなるくらい。

ボンゴレの血をふっきった今でさえ、正妻からの侮蔑の視線には苦しめられている。

いると、今、男は告白した。

したのだ。言葉ではなく視線で。

されてオンナはひどく動揺する。何でもしたい、気持ちになってしまう。

「オマエのそばに居られてオレぁ世界一シアワセだし、オマエのガキどもはオマエが父親で世界一ラッキーだぞぉ」

「そうか」

「なぁ、もぉ、オレ分かんねぇよ。オマエの女房、ドッカおかしーんじゃねぇのか。フツーこんないいオトコ、スキにならない訳がねぇし、あんな可愛いガキがかわいくねぇ筈はねぇんだよ。オカシイ……」

 勢いのまま、普段は決して口にしない、男の妻に対する非難の言葉さえ紡ぎだしてしまう。以前にレヴィも言った事があった。このオトコの正妻はこのオトコを愛していない。オトコがカノジョから離れたがったのは当たり前だ、と。

「なぁ、愛してるぜ。オマエはオマエだけで、すっげぇいいオトコだぁ」

「そうか」

 同じ告白を繰り返されてオトコが笑う。ボンゴレの血ともボスの座とも関係なく愛してくれるオマエがオレの救いだと、言葉にはしなかったが代わりに、泣き出しかけた唇をまた、塞ぐ。

「……くれよ」

 長いキスの後でオンナは、はっきり男の目を見て、言った。