詰問の使者は予想されていた男だった。

「父さん、オレ、日本に帰る」

 人数は予想外に少なかった。若手実力者が多数というよりも殆ど、後見人となるべき同盟ファミリーの若いドンとともに会議をボイコットして姿を消した後で、ボンゴレ本邸では『犯人』探しが行われたのだろう。誰が彼らをそうまで思いつめさせたのか。それは、はっきりとしている。

「十代目は継がない。っていうか、継げない。オレには結婚してるつもりの人が居る。オレはその人のものだから、他の女の子を正妻にすることは出来ない」

 その『つもりの人』は現在、子供を連れて朝市に朝食を摂りに行っている。見目の可愛らしさとは裏腹にオンナ癖の悪い沢田綱吉は、『つもりの人』の他に可愛らしい女を二人、囲うというほどでもないが後援して、彼女たちの環境が整ったら子供を産んでもらおうと考えている悪い男。

「息子よ」

 ヴァリアーに、そして失踪したほぼ全員が寝転がる広間に乗り込んできた時点の沢田綱吉は怒っていた。が、次代の後継者、『皇太子』からの宣言を受けて作戦を変える。怒鳴りつけるのではなく懐柔にかかる。

 イマサラおせぇと、広間でそれぞれ『寝ている』若者たちは心の中で思う。沢田綱吉という名の若者は見目は柔いが中身は恐ろしく頑固で意思が固い。そんなことも知らずに、ボンゴレ歴代ボスのうちで最強という評価もあるコレを扱おうとしている門外顧問を『馬鹿だ』と、その場の全員が思った。

「お前の純粋な気持ちは悪くないと思うぞ。でも男には、やらなきゃいけない事というのがあるんだ」

「分かってる。でもオレはしない。だから権力者にはならない。そう言っているんだ」

 年若い息子の方が筋を通している。ボンゴレのボスという立場の価値を理解していない、というより、価値を認めていない未来の十代目は地位の敬称を放棄するとあっさり口にする。それも強さの一種だと考えながら沢田親子とは離れた床の上で、顔に傷のあるヴァリアーのボスは毛布の下で、腕枕させた『妻』の頭をなんとなく撫でていた。

 それから暫く会話が続く。

「父さんはザンザスの奥さんを可哀想だとは思わないの。あんなに綺麗な人なのに、他に『妻』がいる男に嫁がされて、結局捨てられて一人ぼっちじゃない。かわいそうだよ」

 沢田綱吉の台詞が聞こえてきた瞬間、男が枕にしていた固い義手がさらに冷える。バカめと男は思いつつ、その義手を頭の下から外して胸の上に移し、手袋の指先をあごの下に挟むような位置で温めてやる。

 気にすることは無い。気にするな。するんじゃねぇ。聞くな。

 外野の余計な声を聞くな。耳に入れるな気に病むな。てめぇはオレの言葉だけ聞いていろ、と、男は心から思う。けれどどう伝えればいいのか、分からない。

「カトリックって、酷いよね。愛情が冷めても最初からなくてもなかなか離婚できなくて、離婚できても相手が生きてる限り再婚できないなんて酷いよ。あんなに綺麗な人なのに、自由にしてあげれば他に愛してくれる男も居るだろうに、ひどい」

 その通りだと、離れることが出来て落ち着いた男も思う。悪いのは相手の女ではない。意思に反した結婚に耐え切れず、夫の役目を放棄して逃げ出してしまったのは自分だ。すでに別れた他人の目で見れば、人妻でも子持ちでもなかなかの上玉に値を踏める美女が一人、このまま廃棄物になっているのはもったいないし、可哀想かもしれない。

「オレは、出来ない。純粋だからじゃない。オレが好きな人は厳しいから、結婚なんかしたら俺を愛してくれなくなる」

 その台詞に、ギクリ、としたのは今度は男の方。銀色の髪を撫でていた掌の動きが止まり、指先が見る間に冷えてゆく。

男の結婚相手のことを思い出させるとしょんぼり黙り込むオンナを、男は、愚かだと思っている。けれど愚かがオンナばかりではないことも承知している。男自身も愚か者の一員。これに愛してもらえなくなかった一時期を思い出すとひどく動揺してしまう。

まさかそんなことが、この世で起こるとは思っていなかった。

自分に向かって潤まなくなったオンナはあっさり、長く続いた関係の解消を申し出た。終わりとさよならを告げられた男の驚愕は激しかった。思い出しても平静ではいられないくらい。

毛布の下で強張った男に、今度はオンナが腕を伸ばす。生身の右手を男の肩に廻して男を抱きしめる。カラダを寄せて体温を移し、ごめんと男に改めて謝る。愛していると伝えようとする。この男がこんなに揺れるのは本当に珍しい。

親子の噛み合わない会話はさらに暫く続いた。夕べ、まっすぐに日本へ帰るつもりだった。けれどディーノとザンザスに無茶をとがめられ、深夜だったこともあり、とりあえずここへ移動して匿われた。ここから日本へ帰る、と、決めた意志を告げる。

「そんな我儘が通ると思っているのか」

「オレはなにも通すつもりはないよ。退くからサヨナラって言っているだけ」

 物分りが悪いのはどう聞いても父親である沢田家光の方。旗色もそっちが明らかに悪い。息子は父親が交渉条件を持ち出すのを、端的に言えば政略結婚を撤退するからボンゴレ本邸へ戻れと言い出すのを暫く待っていた。が。

「おなか、すいた」

 やがて面倒になったらしい。別のことを言い出す。メインゲストのその台詞を聞いて、ホスト側の責任者であるザンザスが床からむくりと起きる。ボスの動きに追随してヴァリアーの面々も毛布の下から『目を覚ます』。

「おはよう、ザンザス」

 沢田綱吉が広間の反対側から声をかけてくるのに。

「……Buona mattina

 ザンザスは返事をした。おはよう、と。

「ああ、夕べは楽しかったわ。ぐっすり眠ってしまっていたわね、了平」

 かん高いオカマの声が広間に響く。変種のメスでもこれはヴァリアーの『主婦』。家庭内での影響力は大きい。

「そうだな。極限に楽しかった。よい朝だ。おはよう、ツナ」

「あ、うん。オハヨ。ねぇ、みんなも起きなよ」

「そうよ、みんな起きなさいな。コーヒーを淹れてあげる。お茶の方がいい?飲んだら客間でシャワーを浴びてきて。朝食にしましょう」

「うむ。沢田、お前は緑茶だな。獄寺は紅茶だったな」

「了平はプロテインよね」

「そうだぞ!」

 目覚めのいいボンゴレとヴァリアーの晴れの守護者たちが率先して動き出す。時刻は午前の九時を過ぎていて、夜更かししたとはいえ遅い朝。

「オレも手伝うぜ、アネゴ」

Buona mattina。おはようございます」

「ミーはミルクがいいでーす」

 山本も起きて、獄寺はまず自身のボスに挨拶。

「あら、そこに居るのは門外顧問のイエミツさんじゃない」

「ホントだ珍しい人が居ますね。ナンノヨウデスカー?」

 度胸のあるカマとガキが門外顧問に喧嘩を売る。けれどもザンザスの横で身づくろいをする銀色の鮫は沈黙。昨夜はホストの『妻』として、メシを喰ってから眠れ、寒くないか、毛布は足りたか、眠る前にちゃんと歯を磨け、と、あんなに威勢よくうるさかったのがウソのよう。

 門外顧問が居るからだ。ボンゴレの本邸から、正当な『家庭』からの使者として。ザンザスが正妻よりもこの銀色を選んで以来、銀色はボンゴレ本邸に関わりを持とうとしなくなった。

ザンザスの『オンナ』としてほぼ公認されてしまった以上、本邸にとって銀色は邪魔者、日陰者の立場になってしまう。ボスのそばを離れたことの無い腹心で、以前は本邸の御曹司の私室に無造作に出入りしていたのに、今では九代目の『家庭』に余計な波風を立たせないために、なるべくそこには近づくまいとしている。

双子の子供を伴った時を除いて。

「……」

 その大人しさがザンザスは気にかかる。うつむき加減の顔色が青白い。沢田家光ではなくその背後、自分の養父を畏れているのだろうと、思えば不憫になる。この銀色は何も悪いことをしていないのに、人目を避けて広間の中で、気配をそっと隠そうとしている。

 その様子に気づいたのはザンザスだけではない。ヴァリアーの仲間たちも、幼馴染の跳ね馬も、銀色の『大人しさ』に気づいて不憫な顔をした。ルッスーリアと了平が暖かな湯に浸して絞ったタオルを給湯室から持ってきてくれる。それを受け取り、顔を拭って、とりあえず喉を潤す飲み物を。

「えーと」

 コーヒーと紅茶と緑茶をトレーに載せて、獄寺と山本が持ってくる。緑茶のトレーを手にしていたのは獄寺だったが、真っ直ぐに向かった先はザンザス。

「……」

 差し出された和風の湯のみをザンザスは手に取る。ホストとしてゲストの為の毒見をしろよと、アッシュグレイの髪の美形は言っている。状況と立場を考えれば当然のことだ。が。

「あれ、でもさぁ、ザンザスって」

 天真爛漫なフリをさせれば並盛一の山本がコーヒーと紅茶を配りながら言う。同盟ファミリーのボスたちでさえ憚るザンザスに直接に声を掛ける。温かい飲み物のカップはそれぞれの手元に届いたが、この場で一番身分の高い沢田綱吉が口をつけるまでは、誰もその中身を飲めない。

「緑茶って苦手じゃなかったっけ?」

 身の程をかえりみない山本の発言、じかに口をきかれる無礼を。

「……腹を壊す」

 ザンザスは咎めなかった。咎めるどころか、返事をして緑茶の湯飲みを隣の銀色に回した。銀色は戸惑いつつ受け取り、ふうっと湯気を吹いてそっと口をつける。こくん、と白い喉が動く。主人の身代わりにゲストの為に毒見をする『妻』の役割を、沢田家光の前で果たさせる。

「ん」

 立ち上がり、広間をスタスタと横切り、銀色の鮫は床に座り込んだままの沢田綱吉に湯飲みを差し出す。

「ありがとう」

 沢田綱吉は嬉しそうに受けとる。喉が渇いていたらしい。こくこくと喉を鳴らして飲み干す。毒見の為にとはいえ銀色が口をつけたものを無造作に手にする態度は、銀色自身とそれを寄越したザンザスに対する信頼を示している。絨毯の上にちょこんと座り込んだまま、自分にあわせてなんとなく屈んでくれる銀色に向かって微笑む。

「美味しい。昨日から色々お世話かけてます。突然たずねてきたのに親切にしてくれてありがとう。感謝しています」

 真っ直ぐに礼を言われる。隣に立っている沢田家光が動揺する。息子が世話になっているのなら父親として感謝の言葉を述べなければならないと気がつく。しかし、その前に。

「スクアーロ、オレにもコーヒーくれよ」

 別の人間から銀色の鮫に声がかかる。普段なら勝手に飲みやがれと答えただろう幼馴染だが今朝は立場が『ホストの妻』。コーヒーか、と振り向いた銀色の横をすーっと、山本が通り過ぎて。

「はい、どぞ」

 トレーからカップを手に取って差し出す。ご丁寧に間接キスになる毒見を一口、飲んでから。

「……ありがとな」

 このヤロウと顔に書きつつ、跳ね馬のディーノは、口では山本に礼を言ってコーヒーを受け取った。一部始終を見ていたザンザスは薄く笑う。獄寺が恭しく差し出す紅茶を受け取りながら山本に向けた目線には、やるじゃねぇかという感嘆さえ篭っている。

「朝ごはんは食堂でなくてもいいわよね」

 と、ルッスーリアが言うのは、略式で済ませましょうという提案。うん、と沢田綱吉は頷く。

「客間のお風呂、お借りします」

「はぁい。すぐに朝食を届けさせるわ。簡単なものになっちゃうけど」

「あ、オレはチョコクロワッサンがいい。朝からチーズとか卵とかって、食べると腹を壊すんだ」

 と、言う跳ね馬は甘ったれだが、そういうイタリア人は珍しくない。フランスもスペインもそうだが朝食はごく軽く、ビスコティや甘いクロワッサンで済ませるのはごく普通の習慣。

 朝を迎えるべくざわめきだす若者たちの中、異分子として立ち尽くしていた門外顧問の家光は。

「ねぇ、ザンザス。オレが十代目を継がなくなっても友達で居てくれる?」

 実の息子が九代目の養子に尋ねた一言に、顔色を青く、した。