心の中を薄い煙が這う。

 自己嫌悪、などという感情とは普段、無縁に暮らしている。男は傲慢で身勝手で我儘な性格だった。

 けれども気質は意外とウエット。少なくとも銀色の美景より遥かに湿っぽい。だからこそ養父の嘘を許せず、怒りの余り、二度の反逆を起こした。

 三度目を起こしてもいい。

アレがあんなに気に病むのなら、アレを嫌っている養父を排除してやってもいいと本気で考えつつ、けれどもそれではなんの解決にもならないと理解しても、いる。

 アレは正妻の権力を欲しいのではない。ボンゴレ本邸の女主人になりたいのでもない。

アレがきちんと言って行ったように、存在の価値を認められないのが寂しいのだ。骨の髄からマフィア世界にどっぷり浸かって生きて来たアレにとって、ドン・ボンゴレからの白々しいほどの無視は全人格の否定に感じられるのだろう。その心理は分からないでもない。

気にするな、というのが無理だということも分かっている。男自身がボンゴレをまだ愛しているせいでアレもそれに引き摺られているのだ。ふっきれていない男自身が諸悪の根源。男はもう、ボンゴレよりもアレを選ぶつもり。けれど、絢爛にして重厚なマフィアの世界、ボンゴレの残酷な美しさをまだ愛している。

かわいそうに。

 と、改めて男は思った。こんな自分を選んだアレはバカだ。もっとしっかりした優しい男を主人に選んでおけば良かったのだ。ボンゴレから妻を娶れと告げられた途端に顔色を変えて席を立ったドン・キャバッローネのような。もしくは、政略結婚を強いられるくらいなら十代目を継がないと実父に啖呵を切った日本人のガキの、ような。

 あの二人が軽々と行った、ことが出来なかった自分がひどくつまらない人間に思えてくる。結婚自体は男の意思ではなく反逆を赦す代償だった。アレを含めたヴァリアーの幹部らを助命する条件でもあった。選択の余地はないと、その時は思った。

 今度の二人とは確かに条件が違う。条件は違うけれど強いられたことは同じ。どうして自分は否と言えなかったのだろう。オレを失いたくなければ否だと、言えなかった、ワケは。

 弱かったからだ。ヘタレだったこともある金の跳ね馬より日本人のヤワそうなガキよりも弱かった。そうして愚かだった。愛していない、愛されてもいない相手と一緒に暮らすということがどれだけの負荷か理解していなかった。側近を兼ねた情婦に自分がどれだけ愛されて許されて甘やかされてきたか、少しも分かっていなかった。

「……」

 肌が痛いほど熱いシャワーを浴びて服を着替える。養父とはいえボンゴレの当主を迎えるのに半端な格好は出来ない。こんな時の為にクローゼットに常時、セットしてある仕立て下ろしの黒いスーツを着込む。ネクタイを結んで、寝室から居間を通り抜け、執務室を経て部屋を出ようとした、瞬間。

「ギニャーッ!」

 猫の鳴き声がして男は足を止めた。執務室の絨毯の上で丸くなっていた猫が起き上がり、タタッと駆けて男に追いつき、革靴に手を掛け泣き喚く。ギニャ、ギニャーッという、見目の可愛らしさに不似合いな声量で濁音の泣き声で、男に向かって、行くなと訴えている。

「ギャー、ギィヤーッ、ギャアギャア」

 やっと帰ってきたのにどうしてまた出て行くのかと、見上げてくる瞳は雄弁に訴えていた。男が黒のスーツを着ると暫く帰ってこないことを賢い猫は知っている。抱いて撫でてもくれないままでの再びの別れを全身で嫌がっている。

「……」

 スーツに毛が、つくのは分かっていたけれど。

「ぎゃ……、ミギャ……」

 抱き上げられた猫は声を変えた。喚く泣き声から甘えた丸っこい声へと。その正直さ、豹変ぶりは素直で可愛らしい。

「……」

 アレもコレくらい正直ならと、男は思いながら、猫を片手で胸の前に抱きながら考えていた。

「みぃー、にゃあん、みぃー」

 子猫のように甘えて喉を鳴らすこの猫のように、アレも振舞えばいいのに。行くなと大声で喚けばいい。嫌だと毛を逆立てて拒めばいい。スーツに毛がつくことなど気にせず連れて行けと強請ればいい、のに。

 甘える猫の喉を撫でながら、別のネコにはそうしてやれなかったことを改めて、後悔しながら、応接室へと向かう。

 

 

 

 

 室内はひどく明るかった。アーチ形になった応接室の天井には天窓かられて、まだ午前の若々しい陽光か差し込んでいる。けれど、明るさはそのせいではなかった。

「こらぁ、喰うなぁーっ!」

 悲壮な表情で出て行った銀色が喚いている。声量は抑えられているが威勢の良さはいつものまま。男がそちらを向くと、銀色はおかしな姿をしていた。肩に荷物が乗っている。

両方の肩にひとつずつ。それらは人間の子供で、銀色の肩にまたがり、見事な髪を小さな掌で掴んで体のバランスを取っている。それだけでは満足できずに口を押し付け髪を舐めようとして、ヤメロヤメロと銀色が慌てているのだった。

「そうそう。喰うのはやめとけよ。腹壊すぜ、きしししし」

 王子様が笑いながら双子の子供をなだめる。けれど子供たちは興奮状態で手がつけられない。久しぶりに会えた銀色の鮫に触れて嬉しくて仕方が無い。

彼らの父親が彼らの母親とまだ同居していた頃から、この銀色は双子の世話をよくしていた。というよりもせざるを得なかった。夫婦はどちらも赤ん坊から幼児になっていく双子に興味を示さず、歩き始める子供に手を貸そうとなどとは考えもしなかった。

双子にとって銀色の立場は微妙だ。父親が自宅に引っ張り込んだ愛人。母親の邪魔者。けれど母親は双子に愛情を見せず、代わりに銀色は優しかった。ティアラの王子様を『育てた』ことのある銀色はその経験から、放置される子供を見て見ないフリが出来なかった。

「腹へってんのかぁ?アサメシ喰ってねぇのかぁ?あぁー?」

 銀色が双子に尋ねる。双子は宥められて髪を舐めることはやめたが、それぞれぎゅーっと全身でしがみついたまま頭部を離さない。コアラのような二人に頭を挟まれて、銀色はひどく愉快な格好になっている。

「メシは喰ったよ、王子と」

 ちゃんと食べさせた、という王子様の報告に。

「ボクとだよ」

 室内で、メインゲストの他に唯一、ソファを与えられ優雅に紅茶のカップを手にした雲雀恭弥が言った。その背中には沢田綱吉が屈んでソファの背に腕をつき、久しぶりに会えた美貌に見惚れて目を細めている。ソファも沢田綱吉が譲ったのだろう。ただの部下ではない、『結婚しているつもり』の相手に。

「なに食べたの?」

 にこにこ嬉しそうに沢田綱吉が尋ねる。

「野菜の鶏肉巻きと、ハムと枝豆入りスクランブルエッグのバニーニ。飲み物は絞りたてのミルク。子供たちも半分ずつ食べた。好き嫌いしない、いい子たちだね」

「それは良かった」

 と、思わず、という口調で告げるボンゴレ九代目は正客が座る最奥のソファに腰を下ろしている。男は手にしていた猫を近づいてきた王子さまに渡し、真っ直ぐそちらへ向かい、膝を折り頭を下げて差し出される手の甲に唇をつけた。正式な訪問の賓客に対する、この『家』の主人としての礼儀。

「朝からすまないね、ザンザス」

 声をかけられる。返事は小腰を屈めての会釈だけ。男は養父とほとんど口をきこうとしない。態度は丁重だけれど、それは気持ちを閉ざしている代償。

「ここへ来る途中、お前の子供たちと市場で会ったのだよ。外で食事を、楽しそうにしていた。子供が喜んでいるのを見るのは嬉しいことだ」

 畏れるものないボンゴレの当主が、自分の地位を譲ってやれなかったこの養子にだけは機嫌を取るような口をきく。いや、ようなではなく、本当に機嫌をとろうとしている。老い先短いことを自覚した老人は、決裂してしまった養子との関係を修復してから目を瞑りたいと心から願っている。

「二人とも、おまえにとてもよく似ている」

「……」

 あの頃のオレを知りもしないくせに、と。

 男は立ち上がり目を伏せたままで考えている。嘘ばかりつくのも大概にしやがれ、という反抗は口にも態度にも出さないが雰囲気に滲み出す。自分の言葉が養子をいっそう白々しくしてしまったことに、老人は気づいて、そっとため息。

「こぉらぁ、ヤメロォ、いーかげんにしやがれぇ」

 髪を今度は掴むだけでなく、くしゃくしゃに弄り出した子供たちに銀色が悲鳴を上げた。冷たく凍りつきそうな室内でその一角だけが妙に明るい。男がそちらをチラリと見る。顔が見えないほど髪を乱された銀色の姿に、ほんの少しだけだが。

 笑った。

「オラ、おじぃさまにご挨拶して……、こらっ」

 ヴァリアーの主人が挨拶をし終わった後は、当然、その子息たちがご挨拶をしなければならない。その礼儀を守らせるべく銀色が子供たちを床に下ろそうとする。が、子供たちは離されるまいとぎゅーっとしがみつく。

「いやぁ、いっしょー」

「しゅくといっしょー」

「それしか喋れねぇのかテメーらはッ!」

 銀色はいい度胸をしている。ボンゴレ九代目の前でその孫たちを怒鳴りつける。

「そんなことないよ」

 ごく生真面目に、ソファの雲雀恭弥から訂正が入った。

「ちゃんとたくさん言葉を喋れる。ボクにお話しを聞かせてくれた。ヘンゼルとグレーテル。森に棄てられた子供たちの話」

 それは双子のお気に入りの絵本。王子様や銀色の鮫が繰り返し読み聞かせるうちにすっかり覚えてしまった童話を交互に、声を揃えてオウムのように繰り返すのが双子の得意技。

子供たちは雲雀恭弥を気に入って、それで『可愛が』ろうとして、話して聞かせたのだろう。銀色や王子様にも時々することだった。けれど。

「森に、かね」

 明るい応接室で、雲雀恭弥の声は別の響きを帯びて聞こえた。たぶん、言った本人が含みを持たせたから。大人に棄てられて森に二人きり、お菓子の家に入れてくれたのも結局は魔女という、愛されない哀れな子供たちの話。

「ちょ、ベル、おい、マジ、なんとか……」

 してくれと、場の雰囲気を全く読まない銀色が音をあげる。重苦しいムードにうんざりの王子様は男に預けられた猫を肩に乗せ、双子を引き剥がしにかかった。一人だけでも王子様が引き受ければ、残る一人は腕の中に抱えなおして体勢を整えることが出来るから。

 出来なかった。