優しい雨・3

 

 

 

 お抱え医師は職業上のモラルを守り沈黙を貫いた。だから銀髪の美形の、秘密は仲間にもバレなかった。

 けれど隠せないこともある。生活の場所を重ねている仲間たちにプライバシーはない。情事や性癖を周囲に恥ずかしく思う神経の持ち主はもともと居ないので、それで不都合はなかった。ない筈だった。実際、ボスとその愛人の喧嘩と情事の修羅場を仲間たちは折々に目にした。呼ばれて仲良くしている時は静かなものだったが、嫌だぁ離せぇと叫びながら引き摺られていくスクアーロは大抵、翌日も奥の部屋から姿を現さなかった。

 アル中すれすれの生活をしているボスには暴力的な傾向が確かにあった。無口な男だったから口より手が早かった。が、相手の美形も勢いでは負けていないので陰惨な印象はなかった。臣従の誓いを立てた以後は手こそ出さなかったが、鼻血を拭いながら大声で怒鳴り散らし胸を押し付けんばかりに迫る。その度胸は賞賛されるべきだが学習能力はなかった。怒鳴り声が不意に途切れる時は大抵、煩がった男に殴られて口を塞がれている。

 そんな騒動もボスが二十六で、ヴァリアー隊の謹慎解除と引き換えのように結婚させられてからは減った。新婚旅行から痩せて帰ってくるなりのボスがお気に入りの腹心を妻の住む私邸に連れ込んだ時は多少の騒ぎになったけれど、数年後には二人して『帰って』来てやれやれというところ。九代目の黙認を得て正妻との別居を叶えてからのボスは以前より多少は銀髪の美形に優しくなった。情人が怒鳴り散らすより先に口を塞いで黙らせる術を覚えただけかもしれないが、それでも進歩だった。口を塞ぐ手段は鉄拳からくちづけに変わった。

 ファミリーのボスにプライバシーはない。使用人が居て部下が居て人目がある。寝室の中はともかく扉の前までは、いつ誰が来たのか幹部なら殆どが承知している。だから気がついていたのは全員。最初に口に出したのは、何事につけ遠慮というものを知らない王子様。

「今度の喧嘩、えらく長くね?あんたボスに暫く開いてやってないよな」

 王子様の癖に直裁的な物言いに、美形は怯まなかった。

「喧嘩はしてねぇ」

「あらそ。じゃーなんでセンパイ、奥で眠んねぇの?」

「引退したんだぁ。俺ぁ三十だからなぁ」

 ウソはすらりと出た。そういうことにしておこうと主人の為に決めたウソ。自分が主人を見限った形になってしまうのは不本意だった。

「……マジ?」

「見てりゃ分かるだろぉかぁ」

「ふーん」

 長い前髪に表情を隠した王子様が、両手をポケットに突っ込む。この性悪が何かを考えているときによくする仕草だ。

「センパイ、ボスに棄てられちゃったんだぁ、へーぇ」

「引退だぁ」

「意味同じじゃん?」

「いろいろ、違うぜぇ」

 何が違うんだよと王子は追及したけれど美形は答えなかった。最後まで、使い物にならなくなるまで、そばに置いて役立たせてくれたことへの感謝を美形は口にしなかった。甘い感傷は相手にも言わずに墓へ持っていくつもり。

「それってボスが言い出したわけ?それともあんたから?」

「てめぇに関係ねぇだろぉ」

「答え次第じゃ関係出てくるかも。引退とかをあんたから言い出したんなら、ボスの方に未練が残ってたら剣呑だからパスだけど、ボスから言い出したんなら王子、後釜狙いたいかも」

「あぁ?ボスの愛人したがってやがったのかてめぇ」

「ゴジョーダン。あんなDV男は趣味じゃねーよ。あんたじゃなくってボスの後釜にさぁ、座ってっても王子構わないよ?」

「それこそなんのご冗談だぁ」

 言って、その場を美形は去ろうとする。

「待ったセンパイ。王子けっこー真面目に言ってんだけど返事は?」

「……冗談にしとけぇ」

「あっそ。引退するのはちょっとまだ、勿体無いと思うけど」

「てめぇの知ったことかぁー」

「ついでにそれ、言い出したのがアンタなら、も一回、ボスの意思を確認した方がいーんじゃね?ボス、最近ちょっと、寂しそうにしてね?」

「……してねぇよ」

 美形は否定した。そのまま歩み去る。姿勢のいい背中を見送りながら王子は背伸びをする。別れていることが確認できただけで今回は上等。あとはもう少し様子を見てからだ。三十路の誕生日を越えてあの美形にはますます艶が添い磨きがかかっている。さっき自分を睨み付けた目元は発光しそうだった。肉付きの薄い形のいい唇も、暫く噛み痕をつけられていないせいか艶々だった。何かを塗っている様子もないくせに。

「ボスはちょっと寂しそうで、先輩は死ぬほど寂しそうで、何やってんだかねあの二人。なぁ、ルッスーリア?」

「火遊びなら止めておきなさいな、ベルちゃん」

 ファッション雑誌から目を上げないままだった『姐御』は、そのままで答える。

「ボスの火は熱いわ」

「分かってるけどセンパイどーにも旨そうで、王子時々、たまんなくなるし」

「ボスの女との密通は大罪よ?」

「引退したなら、そうじゃなくなったってことだし?」

「寝室に呼ばれなくなっても愛情がなくなったとは限らないでしょう」

「ロマンチストだったんだ、ルッスーノア」

 ココロのソコから馬鹿にして明るく王子様が笑う。

「ただの事実よ。あなたがまだ知らないだけ」

「ボスが別に女作ったら決定でいいと思う?」

「特定の女を作ったら、ね」

 王子様は不満そうに唇を突き出す。特定どころか一夜限りの娼婦さえ、ボスは今のところ招こうとしていない。

「あれナンなんだよ、一体」

「見たとおりなら、何かがあって距離をとろうとしている臆病な女と、女の気持ちが落ち着くのを待っている我慢強い男ね」

「ありえねー」

 臆病なスクアーロも我慢強いザンザスも、どっちもホラーだ。想像さえ出来ない。げらげら笑う王子様に、雑誌の向こう側からルッスーリアが。

「好きになっちゃったの?」

 真面目な声で尋ねてくる。

「欲しくなっちゃったのー♪」

 王子様は喋りたい気分らしい。頬杖ついてごく軽く答えた。

「そう」

「そんだけ?もっとなんか言ってよ」

「愛人なら寝室に呼ばれなくなったら関係解消だけど、妻ならそうはならないの。スクちゃんどっちかしらねぇ」

「どっちでも空き家には違いなくね?」

「正妻だったら、密通はご法度よ」

「関係ないよ。オレ王子だもん」

 

 

 呼んでいる、と、使用人に言われて奥の部屋へ出向く。

「おぉい、どーしたぁー?」

 相変わらずろくにノックもせずに私室のドアを開けると主人はそこに居なかった。居間に居ない時はさらに奥の寝室で寝ているか飲んでいる。居間を横切りそっちのドアを開ける。そこは一応ノックしたが返事を待たなかった。中に女が居ないことは分かっていた。

 寝室は『それほど』広くはない。奥にばかでかいベッドが置いてあって、少し離れた壁に沿ってバーカウンターが作りつけられている。ほんの500スクエア・フィート、46平米、十三坪といったところ。ヴァリアーのボスの寝室にしては質素といっていい。職場の仮眠室としてはともかく。

「また飲んでやがんのか。マジにアル中になるぜぇ。もー若くないんだから、ちったぁ考えろぉー」

 ソファで飲んでいて酔いつぶれたらしい黒髪のボスに銀髪の側近はつかつかと近寄りその腕をとった。肩を貸してベッドに運ぼうとして。飲みすぎた男の世話は嫌いな仕事ではなかった。触れるから。

「ちょ、っと、ザン……、ッ」

 支えて歩こうとした足を引っ掛けられる。酔っぱらいが座っている革張りのソファに逆戻り。がくんと床に膝をついた途端に、男の膝の間に頭を押さえられ、ああ、と、何を求められているか気づいた。

 逆らわず、男の望みに添う。手を使わずに顔を男の股間に寄せて、歯で挟んで固いジッパーをおろす。鼻先を突っ込むようにして舌で下着を掻き分ける。ベルトは外さない。その選択権はオンナではなく男の側にあるから。

 男の興が乗って、奉仕させるだけでなく抱き寄せ繋がる気になったときだけ、男の意思でベルトが外される。そういう決まりごとが長年のうちに出来上がっていた。

 着衣の間に顔を突っ込むようにして、両手も膝も床につき椅子に座る男の股間をこの男が好きなやり方で舐めながら、オンナはそのことを畏れた。男の手が銀髪の後ろ髪にかかる。髪を掴み、手に巻き付けて指先で擦るのは、愛撫のやり方が気に食わなかった時に引っ張って制裁を与える為だった。だった、筈だ。

 男の指の隙間で銀髪が流れる。結んでも束ねてもすぐに流れ落ちてしまう頑固なほど真っ直ぐな髪は力を込めなければ掴めない。酔っているから力が入らないのだとオンナは思おうとした。この男がいまさら自分の髪に触れて愉しんでいるのだとは思いたくなかった。なんだかそれはひどいことに思えた。もうこんな奉仕しか出来ないのに、そんな風に興味をいまさら、持たれるのは間違ったことだと思った。

「ぴちゃ……、ちゅ……」

 アルコールのせいか反応が最初は鈍かった蛇だが愛撫するうちに育つ。ゆっくり鎌首をもたげてくる大蛇を喉の奥まで飲み込んで絞る。ゆっくり吐き出して先端を吸い上げ、また唇で表面を愛撫しながら深く含む。男の手が持ち上がった。さらさら、オンナの顔の横で髪が流れていく。ぱさりという音がしないのは粘液質の音に紛れたのか。そうだとオンナは思いたかった。毛先を男が指に絡めたまま、自分の唇に運んだのだとは考えたくなかった。

「……、ン、ぁ、ぐ……、ん……」

 男が浅く座っていたソファから体を起こす。オンナの後ろ頭を掴んでムリに引き寄せ、噎せるほど奥まで情け容赦なく突っ込む。喉を突き破られそうな手加減のなさにオンナはえずいたがほっと安心した。手荒に扱われるとほっとする。昔からそうされてきたから安心できるのだ。撫でられるのには慣れていない。男の手が撫でるのに慣れていないよりも遥かに。

「ぐ……、ン、ッン、……、ん……」

 男が吐き出す。この男にしては意外なほどあっけなく。久しぶりなのかと考えかけて、オンナは自分の思考を掻き消した。男が娼婦を呼ぼうとしないことも使用人に手をつけた様子がないことも知っていたけれど、それは自分とは関係のないことだと思った。思いたかった。

飲まされることも残滓の始末にも慣れている。唇の先端でキスを繰り返しながら舌先で嘗め尽くして、男が満足するだろうやり方で居場所におさめてやろうとした、のに。

 オンナの頭から外れた男の手は自分のベルトを掴んだ。極上の牛革、しなやかにぬめされた手触りのいいそれの金具に。

「……、カチ」

 オンナは噛み付き、外させるまいうとする。そんなことをしたのは初めてだった。男がそれを外するは抱くぞ犯るぞという合図。応じてオンナも立ち上がり服を脱ぐのが決まりになっていた。でも。

 金具を噛むオンナに男は眉を寄せる。見えなかったけれど眉間の皺までオンナにはありありと分かった。